102話 腹の虫が叫ぶ方へ
騒ぎで駆けつけてくる門兵に見つからないよう注意し、俺とサリーは街の外へ出た。
息を吐き出し、澄んだ空気で肺をいっぱいに満たす。照りつける太陽は、立ち昇るほどに広がる黒煙に威力を殺されていた。
未だ混乱の渦中にある首都ストラムからは、一刻も早く離れなければならない。
俺を知る生存者は残っていないかもしれないが、万が一追われる身になれば捕まるのは時間の問題だ。
両目を細め、俺は周囲を見回す。開けた野原を突っ切るように整備された街道。その西側には、背の高い木々が茂る小さな森がある。
このまま街道を進めばいち早く隣町までたどり着けるだろう。だが、俺にはそこまで歩ける体力は残っていないし、遠征から戻ってくる騎士団に出くわしたりなんかしたら最悪だ。かといって、ストラムに戻って潜伏するのもリスクが大きい。
残る選択肢は一つだけ。
俺は鉛のように重い足で雑草を踏みつけ西を目指す。すぐにでもナターシャを追いたいが、今は森に潜み、体力の回復を図るのが先決だ。
薄暗い森の奥へ入り込むと、張り詰めていた糸が切れたように視界がぐらりと揺れる。そして瞬く間に、俺の意識は途絶えた。
新緑の切れ目から眩い光が差し込む。俺は顔をしかめながら、手で庇を作った。
「朝……? ここは……」
ぼやけた意識がなかなか鮮明にならない。フレンと聖王国アストロイアに入ったことは覚えているんだが……
「朝!?」
やっと働き出した脳が大声を出させる。
誰かに聞かれていないかと、俺は起き上がって首を横にぶんぶんと振った。
深い黒の瞳と目が合い、俺は落ち着きを取り戻す。
「サリー……」
サリーは、剥き出しになった木の根の上にちょこんと座り、いつもの無表情な視線を俺に向けていた。
そうか、俺は気を失っていたんだ。となると、ずっとサリーは俺を護ってくれていたことになる。
「ありがとうな」
優しく微笑むと、サリーはコクコクと頷く。肩ほどまで伸びたサリーの髪が、頭に合わせて揺れていた。
まずは状況確認だ。
木々の間を慎重に抜け、俺は街道と正門を見渡せる茂みの前まで進む。眠ってある程度体力と魔力を回復できたようで、今は自分の思い通りに手足が動いてくれた。
だけど、頭がまだぼんやりとしている。そういえば聖王国アストロイアに着いてから、何も口にしていなかった。
石造りの橋が伸びる正門の前では、数十名の門兵が四方を見張っている。目を凝らすと、門の上にも人影が見えた。
俺が聖王国アストロイアへ潜入した時には、警備はこれほど厳重ではなかったのに。ナターシャと、逃げ出したレスティーを警戒してのことだろう。早朝からご苦労なことだ。
空を塗りつぶそうとしていた黒煙は姿を消し、代わりに帯状の雲が幾重にも並んでいる。
雨が敵の視界を奪ってくれれば逃げやすいのだが、この天候で街道付近を進むのは自殺行為だろう。かといって、夜がくるのはまだまだ先だ。
俺は茂みからひょこっと出した頭を引っ込める。
多少時間はかかるかもしれないが、森の中を進むのが賢明だろう。
ぐるると叫んだ腹をさすり、俺とサリーは暗がりの中へと入っていった。
さっきまで水平線上にあった太陽が、気づけば頭上を通過して山の向こうへと消えていく。森の中で夜を凌ぎ、そしてまた日が昇り始めた頃、俺たちはやっと森の出口へとたどり着いた。
疲労困憊で半分しか開いてなかった俺の瞼が、勢いよく跳ね上がる。
「村だ……」
風に揺れる草原の向こうに、簡易的な木の柵で囲まれた村が見える。以前、聖王国アストロイアに向かう途中で立ち寄った村だ。
自分の現在地を見失わないように街道に沿って森を進んでいたから、そろそろたどり着く頃だとは思っていた。だけどいざ目の前にすると、少しの達成感と苦難から解放されたような安堵感が、俺の全身を包んだ。
そしてだらしなく、空腹の胃がぐるりと動き出す。
まだ敵国の領地だというのに俺が気を緩めてしまったのは、鼻の奥を強烈に刺激する香ばしいパンの香りのせいだ。
村に立ち寄るのが危険なことは重々承知している。けれど、背に腹は代えられないのだ。
突き出した鼻が進めという方へ。進み出した足は止まらない。
朝早くから賑やかなのは、活気のある市場があるからか、それとも首都の混乱が波及しているせいか。
俺とサリーは民家の影に身を隠し、出店の並んだ通りを観察する。鮮やかな果物に、脂が乗ってそうな銀色の魚。ご馳走の数々で、勝手に口の中に唾が溜まる。
腹を押さえて通りの奥まで目を凝らすが、買い物を楽しんでいるのは村人や冒険者ばかりで、騎士団の姿は見えない。
目から吸収した情報を統合させるより早く、俺の足は市場に向かって動き出す。体中の全ては胃袋の言いなりになっていた。
最低限の食料を揃えたらすぐに村から出るから。さも誰かに言い訳をするみたいに、俺は頭の中で呟く。
この村に来てからずっと誰かに見られている気がする。
漠然とそう感じるのは、自分が罪の意識を持っているからだろう。でも、人というのはそれほど他人を見ていない。今の自分が置かれている状況が、無関心な眼差しを鋭く感じさせているだけなのだ。
今までの経験をもとに俺は自分に言い聞かせる。けれど、歩幅はだんだん大きくなる。意図せずきょろきょろと巡らせた視線は、誰とも交わることはなかった。
俺は逃げるように店の扉を開いて中に入る。
「いらっしゃいませ、ちょうど焼き上がったところなんです」
トレイにいっぱいのパンを乗せた女性が、笑顔で振り向く。俺は外を歩いていた勢いのまま、女性に詰め寄った。
「これください」
どんな種類かも確認せず、俺はトレイの中を指差す。早く、早く。俺は強く念じながら、女性の瞳を覗き込んだ。
カシャン。トレイが床を打ち、丸く膨らんだ茶色のパンたちが転がっていく。
女性は白い粉の付着した両手で口を覆うと、数歩後ずさりして尻もちをついた。
もしかしたら強盗かと思われるほどに目が血走っていたのかもしれない。俺はすぐ女性に謝ろうとした。だが、喉の奥から出ようとした言葉をぐっと飲み込んだ。
女性が倒れたことで、店のカウンターに張られた真新しい張り紙がよく見える。
『生死を問わず』
特徴を捉えた三人の似顔絵の下に、赤く殴るように書かれた文字。目に入った瞬間、凍ったように俺は体が硬直した。
似顔絵の上には、対象者の名前もしっかりと刻まれていた。
レスティー・アグナリア。ナターシャ・ヴィンヘルン。そして――
ダレス・ハーパー。
今にも泣き出しそうなほどに顔を歪ませ、女性は俺を指差して叫んだ。
「ネ、ネクロマンサー!」




