101話 強くなれ
清らかで神聖な白の街は、戦場へと変わり果てていた。いや、戦場ではなく、ただ一方的な暴力の世界と形容したほうが正しいか。
大通りに連なる民家から上がる火の手は勢いを増し、視界の果てまで続く炎の両壁を築き上げる。その間に取り残された民間人が、動く屍となった騎士に追われていた。
子ども、女、老人。金のある無しや身分など、もう意味を成さない。みな平等に、逃げ場のない炎の中を駆け回って助けを求めていた。
この凄惨な光景は、ナターシャが逃げる時間を確保するために、残りの騎士を街に放って作ったものだろう。俺は騎士団の詰め所から大通りへの階段を下り、ふっと乾いた笑みを漏らす。
悪いが俺にとってこの街の人間がどうなろうと知ったことではない。遠征に出ているという騎士団が戻ってくる前に、俺も離脱する。そしてナターシャを捕まえ、リゼを返してもらう。
大通りの真ん中は炎の熱が幾分かマシだった。両耳に等しく届くのは、バチバチと家の焼ける音と、知らない誰かの悲鳴。
首のない騎士たちは俺を襲うことはなかった。地下牢でもそうだったが、ナターシャが俺を狙わないように指示を与えているのだろう。
転がる年寄りの死体をよけながら、俺は真っ直ぐに進む。街の外に出るための道を、俺はここしか知らない。
「たす…… けて……」
子どもの声がする。聞き覚えのある声だ。反射的に視線を向けた先で、少年が瓦礫の下敷きになっていた。
俺は立ち止まって目を凝らす。周囲に散らばっている包みは手紙だな。ならば、あそこにいるのはギルラークとライロが助けた少年か。
潰されていない頭と右腕を動かし、彼は懸命に俺の助けを求めた。
「すまないな、もう魔力がほとんど残っていないんだ」
嘘は言っていない。ここで魔力をさらに消費してしまえば、力尽きて俺もここから出られなくなるかもしれない。
だから俺は悪くない、悪くないんだ。何かに取り憑かれたように、俺は頭の中で反復する。けど――
「死にたく…… ない…… 俺が何したっていうんだ。はぁっ…… 死にたく…… ない……」
小さくなっていく少年の声が、俺の心の奥底に沈んでいた感情を引き上げた。
気づけば俺は、少年のところへ駆け出していた。
「待ってろ、すぐに出してやる」
腰を落とし、覆いかぶさる木片を両手で掴む。手のひらが焼けるのを覚悟していたが、さほど痛みは感じない。神経が麻痺しているのか、あるいは脳が過剰に興奮しているのか。
歯を食いしばって体を伸ばすが、木片が持ち上がる気配はない。だけど俺は諦めなかった。少年を押し潰そうとしている不条理を、俺は許せなかった。
俺の思いが届いたのか、ガタガタと音を立てながら木片が起き上がる。もちろん、おとぎ話のように急に俺が覚醒したわけではない。夢中で見えていなかったが、隣には軽々と木片を持ち上げるサリーがいた。
「さぁ! こっちだ!」
俺は少年の腕を掴み、目一杯の力で引き上げた。その勢いのまま、俺は背中から地面に倒れ込む。
ガサッと体の上に少年が覆いかぶさった。
「辛かったな、もう大丈夫だ」
少年を抱きしめてやると、必死で繰り返していた呼吸が静まっていく。少し安心したのか、少年は甲高い声で泣き出した。
良かった。少年の体や足に大きな傷は見えない。瓦礫に挟まれ、身動きが取れなかっただけのようだ。
「あっ……! ありがとう……!」
黒のローブに吐き出された声は、皮膚を伝って俺の心臓を包む。
「ありがとう」なんて、俺には筋違いな言葉だ。だって、この少年が受けた不条理の根幹には俺がいる。俺が聖王国アストロイアに来なければ、少年は家に潰されるなんてことはなかったのだから。
落ち着く暇もなく、ガチャン、ガチャンと鉄の足音が近づいてくる。びくりと肩を強張らせ、少年は頭部のない騎士を視界に捉えた。
逆方向に片膝を曲げたまま行進する死者に、少年は震えながら俺のローブを握りしめる。
「サリー、やれるか?」
当たり前だと言わんばかりに、こくりとサリーは頷いた。地面に寝かせていた大剣を手に取ると、颯爽と黒いスカートをなびかせ燃える街並みを突き進む。
一振りだった。
頭部のない騎士はサリーの剣を浴びてあっけなく散った。
安堵する間もなく、言いようのない倦怠感が全身を襲う。もう魔力の限界が近い。
だが、切断されてもトカゲの尻尾のように動く胴体とその手足は、まだ少年を狙おうとしている。こんな姿になっても、ナターシャの命令から抜け出せないでいるのか。
「一人で逃げられるか?」
泣きっ面の少年は、俺の顔を見上げると激しく首を左右に振る。
「俺にはお前を護ってやれる力は残っていないんだ」
俺はもう一度少年の頭をなでる。けれど、涙の流れる瞳から不安の色が消えることはなかった。
体はずっしりと重く、頭は割れるように痛い。だがそれだけだ。俺は生きてる。
この短時間で一体何人死んだ。そして今もなお、また一人、また一人と死者の気配が増えている。
ほとんどが、今日死ぬなんて思いもしなかった人たちだ。理不尽に殺された人たちだ。
心を裂くように、人間と死者の悲鳴が鼓膜に張り付いている。できるなら助けてやりたい。
だけど俺には力がない。サリーのときも、キサラのときもそうだ。肝心な時に俺は役に立たない。
「もうすぐ騎士団が戻ってくるはずだ。だから生き抜け、生き抜いてくれ……」
俺は少年の両肩を掴んで体を揺らす。振り絞ったはずの声は情けなくかすれていた。
少年は少し固まると、怯えた様子で俺の腕を振り払った。小さな背中は、まだ火の回っていない路地裏へと消えていく。こいつは駄目だと突き放されたようだった。
灰をかぶったレンガの地面が視界に入り、下を向いていることに気づく。俺は何も変わっていないなと、自分を責めた時だった。
頭にポンと冷たい感触が乗る。はっとして顔を上げると、俺の頭をなでるサリーが視界に入る。
「サリー……? 今はそんなことしてる場合じゃ――」
か細い手のひらが、ぐんと俺の頭を押し込む。危うく舌を噛みそうだった。そしてまた、髪をくしゃくしゃにするようになで回す。
黙って受け入れろというサリーの意志の表れだろう。俺はもう、何も言わずに頭を差し出した。
指に絡まる髪が痛い。それとは別に、鼻の奥が熱くなってくる。
「俺を、ほめてくれているのか?」
言葉を交わせないサリーは、俺を肯定するわけでも、否定するわけでもなかった。血の通わない手が、頭の上でただ上下に滑っている。
こらえようとした涙は、たやすく瞳の膜を通り過ぎていった。自分の思い上がりかもしれない。けどサリーが、「お兄ちゃんはあの子を助けたんだよ」と言ってくれているようで。
もしそうなら、俺は前より強くなれている。前に進めている。大嫌いな弱い自分から変われたんだ。
流れる涙を手の甲でぬぐい、俺は立ち上がる。俺の頭をするりと離れたサリーの手を、優しく包むように握りしめた。
鼻腔を支配するのは、家の焼ける臭いと血の臭い。通りに響いた野太い悲鳴の中に、俺とサリーは立っている。
やっぱり世界は暗闇に満ちている。でも、見える景色に新しい色が追加されたような気がした。
俺はサリーと自分自身に誓いを立てる。
この世の不条理から、サリーを、リゼを。そして、名前も知らない誰かすらも護ってやると。
「た、助けろ……! なぜずっと…… ワシを無視する!」
放り投げられた石が、カツンと靴に当たる。俺は眉をひそめ、意識的に視界から除外していた男に目を向ける。
少年を助ける前から、反対の通りの家に潰されて無様に顔と手を動かす老人がいた。少年に難癖をつけていた、あの老人だ。
「お前は不条理をばら撒く側だろ。お前は助けるに値しない」
俺は淡々と言い放つと、サリーの手を引き街の外を目指す。涙とともに卑屈な自分も吐き出せたからだろうか。踏み出した足は少しだけ軽かった。
背中越しに、鉄のブーツが地面を蹴る音が近づいてくる。老人が何か叫んでいたようだが、気にしなくていいだろう。
カーンと石畳を叩く音が俺の耳を突く。誰かが剣でも振り下ろしたのだろうか。
耳障りだった老人の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。




