100話 脱出
アドニスは大剣を振りかぶり、視界を埋めるほど巨大な鉄格子を破壊した。斜めに大きく開いた亀裂から、ナターシャは牢屋の中へと踏み込む。
「あぁ、もう!」
尖った鉄棒にローブの裾が引っかかる。だがナターシャは無理やりに千切って、レスティーのもとへ突き進んでいった。
「レスティー。やっと見つけた、今すぐ助けるわ」
横たわって動かないレスティーをナターシャは強く抱き上げる。両手足にはめられた枷が、ジャリジャリと地面を擦って不快な音を立てた。
見る人によっては涙ぐましいとさえ思える光景に、俺は心底うんざりした。
別に、群がる首なし騎士から、ライロとフレンを守るギルラークにとどめを刺さなかったからではない。
「こんなに痩せて…… 辛かったでしょ」
瞳を潤ませ、ナターシャはレスティーに呼びかける。
慈愛に満ち溢れた表情を浮かべるナターシャが許せなかった。
あいつが必死でたどり着いたこの場所は、何人もの屍で作られた道の先にある。
その足場の一つが、俺の大切な妹のサリーだ。
「このっ……!」
ナターシャは、取り出した短剣を何度も鎖に打ちつける。力んで漏れ出した声は、いつも誰かをあざ笑うナターシャには似合わないものだった。
冷徹なだけかと思えた心の中に、人を想う気持ちがあったのだ。だったらほんの少しでも、その優しさを他人に向けることはできなかったのか。
ギルラークを視界の端に入れたまま、俺はサリーの手を引いてナターシャのいる牢屋へと歩みを進める。
ライロとの戦いで魔力を消耗し、もう戦える力は俺には残っていない。立っているのだってぎりぎりの状態だ。
でもここで止まるわけにはいかない。本当はナターシャの泣きっ面を殴ってやりたいが、今大切なのはこれからのことだ。
約束は果たした。囚われたままの妹、リゼを返してもらうんだ。
「やっと外れた……! さぁレスティー、ポーションを飲んで」
色素の薄い荒れた唇に、ナターシャは優しく小瓶を押し当てる。小さく上下するレスティーの喉に合わせ、血のように赤い液体はゆっくりと流れ込んでいった。
「おい、ナターシャ!」
「しばらくすれば元気になるわ。早く、帰りましょう」
レスティーを大事そうに抱えたナターシャが足早に牢屋から出てくる。俺のことなど眼中にない。
長い睫毛に包まれた瞳は、レスティーだけを映すために存在しているとでも言わんばかりだ。
「ナターシャ!」
「うるさいわね! もうあなたに用はないわ」
鋭い視線を俺に向けると、踵の高い靴を鳴らしてナターシャは階段へと向かっていく。目指しているのは、ギルラークたちが俺を先回りするために使ったであろう隠し階段だ。
ナターシャがアドニスを顎で指すと、床に現れた黒い靄に大きな鉄の体が吸い込まれていった。
「リゼを返せ! 約束だろう!」
ナターシャは振り返ることなく階段を上っていく。
ふざけるな。
俺がどんな思いで…… どんな思いでここまで来たと思っている。
小さくなる背中を追えと脳が指令を送るが、俺の足は変わらず棒になったままだった。
「待てっ! ナターシャ!」
俺の心を代弁するかのように、ギルラークは息も絶え絶えに叫んだ。当たり前のように届かない言葉は、剣の交わる音でかき消されていく。
「ダレス……!」
フレンの弱々しくかすれた声が耳に届く。彼女は倒れ込んだまま、騎士たちの隙間からすがるような瞳で俺を見あげていた。
「ギルラーク様とライロを…… 二人を助けてください……!」
パーティーにいた頃の俺なら、フレンが全てを告げる前に駆け出していたのだろう。だけど俺は、じりじりと後ろに下がった。
魔力が底をついたから、なんて言い訳が初めに浮かんできた。本当はあいつらを助けても、俺の命が保証されるわけでもないからなのに。
罪悪感を抱いてしまったのは、逃げ出そうとする俺を見つめるフレンが、絶望でも怒りでもなく寂しそうな顔をしていたからだ。
俺は重い足を引きずりながらナターシャの後を追う。感覚が麻痺してきたからか、何度も階段に躓いては転倒を繰り返した。その度、サリーの手を借りて立ち上がる。
聞こえてくるのは、自らの荒い息づかいと剣撃の音だけ。地下牢から出ていく俺に、フレンはもう、何も求めることはなかった。
◇◇◇
長く続く石レンガの階段は、騎士団の詰所の中へと続いていた。
潰された長テーブルに、散乱した椅子と剣。その上から、赤黒い血がこれでもかと塗りたくられている。やはりと言うべきか、ナターシャとレスティーの姿はどこにも見当たらない。
チャプンと踏みつけた血溜まりから、生臭い鉄の臭いが立ち上がる。途切れることのない赤い道は、外までの通路を教えてくれた。
どこにも死体が見当たらないところから察するに、ナターシャはここにいた全ての騎士を自分の手駒にしたのだろう。だが部屋を進むごとに、胸の中がざわついていく。
数が合わない。
俺は目をぱっと見開き、違和感の正体にたどり着いた。
地下牢に降りてきた騎士は十数体ほどだった。けれどこの血の量は異常だ。首を切り落としたぐらいじゃ、こうはならないんじゃないのか。
思考を続けながらも、俺は懸命に足を動かす。今はそんなことよりもナターシャだ。ここで見失う訳にはいかない。
少し歩いて、破壊された詰所の出口を視界に捉える。その瞬間、焦げたような臭いとともに、女性の悲鳴が飛び込んできた。
俺は血の付着した壁を伝い、腕の力をいっぱいに使って足を前に出す。
開け放たれた出口から見えたのは、燃えさかる街並みと青い空を埋める黒煙。
そして――
ふらふらとよろめきながら住人を追う、頭部のない騎士たちだった。




