第1章 第8話 小さな命を見捨てるわけにはいきませんわ!
屋敷が燃えていた。
窓から噴き出す炎が、夜の空を赤く染めている。黒煙が立ち上り、火の粉が風に乗って庭へと降り注いでいた。
つい先ほどまで、そこにはわたしの日常があった。
お母様とお茶を飲み、お父様の帰りを待ち、侍女たちと明日の予定を話す。そんな当たり前の暮らしが、炎の向こうで音を立てて崩れていく。
「エレノア!」
聞き慣れた声に振り返ると、父が駆け寄って来た。
後ろにはレオ様もいる。
二人とも王都から戻ってきたばかりなのだろう。息を切らし、燃え盛る屋敷を見つめていた。
「お父様! レオ様!」
「無事だったか!」
父はわたしの肩に手を置き、顔や腕を確かめた。
「怪我はないか?」
「はい。お母様も無事です。ハンナが足をくじいたみたいで手当てを受けていますが、他の者は無事です」
「そうか……」
「ただ、リナが、まだ見つからないのです」
「リナだと?」
「料理人の娘です。九歳の女の子で、今朝、わたしに焼き菓子を届けてくれた子なのですが……」
「捜索を始めましょう」
レオ様は短く答えると、すぐに騎士団を呼び寄せた。
「まだ中に人がいる可能性がある。無理な突入は避け、退路を確保しながら探せ!」
「はっ!」
レオ様の指示で、バランタイン家の騎士たちが動き始めた。
「わたしも行きます」
「エレノア?」
「屋敷の構造は、わたしがよく知っています。リナが行きそうな場所にも心当たりがありますわ」
「ですが、危険です」
「分かっています。それでも、あの子を見捨てることはできません」
レオ様は、わたしをじっと見つめた。
その顔には、反対したい気持ちがはっきりと表れていた。
やがて彼は、わたしに騎士を一人つけるよう指示した。
「決して一人になりませんように。危険を感じたら、すぐに戻ってください」
「はい」
◆◇◆
屋敷の裏手に回ると、煙はさらに濃くなっていた。
熱風が頬を焼き、焦げた木材の臭いが鼻を刺す。
「お嬢様、これ以上は危険です。わたしのそばを離れないでください」
同行してくれた騎士が、わたしをかばうように前へ出た。
「分かっています。物置の裏に、使用人用の通路があるのです。あの近くを探したいのですが……」
そのときだった。
「……だれか……」
かすかな声が聞こえた。
わたしは足を止めた。
「今の声……!」
「お嬢様、待ってください!」
声がしたのは、物置の向こう側だった。
「リナ! そこにいるの?」
「……エレノア、さま……」
間違いない。
リナの声だ。
わたしは騎士に向き直った。
「子供がいます。応援を呼んでください!」
「承知しました。お嬢様は安全な場所へ! わたしが応援を呼びます!」
騎士は周囲を警戒しながら、近くにいた仲間へ合図を送り、応援を呼びに走った。
わたしは、その場にとどまった。
勝手に動いてはいけない。助けを呼び、みんなで安全に救出する。それが一番確実な方法だ。
分かっている。
分かっているのに……。
「……たすけて……」
リナの声が、また聞こえた。
さっきよりも弱い。
「リナ! もう少しだけ待っていて!」
返事はなかった。
煙が渦を巻き、物置の向こうから激しい音が響いた。
直後、燃えた梁が崩れ落ちた。
轟音とともに火の粉が舞い上がる。
「きゃっ!」
熱風が押し寄せ、わたしは思わず身を伏せた。
顔を上げると、崩れた木材が騎士が戻っていった通路を塞いでいた。
煙の向こうから、かすかに人の声が聞こえる。けれど、何を言っているのかまでは分からない。
そのとき。
「……エレノア……さ……ま」
リナの声が聞こえた。
小さく、か細い声だった。
助けが来るまで、あとどれくらいかかるのだろう。
リナの声は、もう一度聞こえるかどうかも分からないほど弱かった。
わたしは、震える手をぎゅっと握りしめた。
わたしは、あの子に言ったのだ。
困ったことがあったら、わたしを頼っていいと。
「……リナ」
わたしは顔を上げた。
「今、行くから」
口元を袖で覆い、姿勢を低くする。
煙の薄い場所を選びながら、物置の裏へと進んだ。
◆◇◆
物置の裏手にたどり着くと、見覚えのある細い通路が見えた。
使用人たちが荷物を運ぶために使っていた通路だ。
その入口には崩れた木材が散乱し、炎が迫っていた。
「リナ!」
「……ここ、です……」
通路の脇から、かすかな返事があった。
目を凝らすと、倒れた棚の陰に小さな人影が見えた。
壁際にうずくまり、両腕で頭をかばっている。
「リナ!」
「エレノア、さま……?!」
わたしに気づいたリナの目に、涙が浮かんだ。
「よかった……!」
駆け寄りたい気持ちを抑え、足元を確かめながら近づく。
「怪我はない? 立てる?」
「はい……でも、足に力が入らなくて……」
「大丈夫。ゆっくりでいいから」
リナの腕を肩に回す。
身体が小刻みに震えていた。
「どうして、こんなところに……」
「ペンダントが……なくなっちゃったんです。逃げるときに鎖が切れちゃって……」
リナの声が震えた。
「落としたのに気づいて、探しに戻ったんです。でも、見つからなくて……煙がいっぱいになって、出られなくなって……」
わたしは、リナの手を握った。
「ペンダントは大切なものなのね」
リナは小さくうなずいた。
「でも、今は探さなくていいわ」
「……でも、お母さんの……」
「分かっているわ。だから、あとで一緒に探しましょう」
リナが顔を上げた。
「今は、あなたが無事に帰ることが先よ」
「……はい」
「さあ、行きましょう」
わたしはリナを支え直した。
けれど、出口へ向かおうとしたところで、頭上から嫌な音が響いた。
ミシミシ、と木材がきしむ音。
顔を上げる。
天井の一部が、大きく傾いていた。
「リナ、伏せて!」
わたしはリナをかばうように身をかがめた。
直後、燃えた梁が落下した。
轟音。
火の粉。
舞い上がる灰。
逃げ道が塞がれた。
「そんな……!」
熱気が押し寄せ、息が苦しくなる。
リナが震えながら、わたしの服をつかんだ。
「エレノアさま……」
「大丈夫。出口は、ほかにもあるはずよ」
そう言いながら、周囲を見回した。
確か、荷物を搬出するための小さな扉が、もうひとつ壁際にあったはずだ。
煙で視界が悪い。
足元もよく見えない。
それでも、記憶をたどりながら壁に沿って進んだ。
あった。
壁際に、小さな扉が見える。
「リナ、あそこよ」
わたしは彼女を支え、ゆっくりと進んだ。
そのとき、頭上で再び木材がきしむような音がした。
大きな影が、わたしたちの上に落ちてくる。
「危ない!」
誰かの声が響いた。
次の瞬間、レオハルト様がわたしたちの前へ飛び込み、盾を構えた。
激しい衝撃音が響く。
盾に木材がぶつかり、火の粉が散った。
「レオハルト様!」
「二人とも、無事か!」
「わたしは……。でも、リナが……」
「分かった。もう大丈夫だ」
レオハルト様はわたしたちをかばいながら、崩れた梁を警戒した。
「こちらだ!」
脇の扉の向こうから、父の声が聞こえた。
お父様が扉を開け、外から手を伸ばしていた。
「早く!」
レオハルト様が盾で落下物を防ぐ。
わたしはリナを支え直した。
一歩ずつ。
足元を確かめながら。
あと少し。
お父様が手を伸ばす。
「エレノア!」
「お父様!」
差し出された手をつかむ。
お父様はわたしとリナを力強く引き寄せ、扉の外へと導いた。
最後に、レオハルト様が飛び出してくる。
直後、背後で大きな音がした。
わたしたちが通ってきた場所の一部が、崩れ落ちたのだ。
間一髪だった。
◆◇◆
屋敷の外へ出た途端、わたしはその場に膝をついた。
「エレノア!」
レオ様が駆け寄ってくる。
「大丈夫です……少し、息が苦しくて……」
そう答えた途端、激しく咳き込んだ。
胸が痛い。
目も喉もひりひりする。
リナも、わたしの隣で苦しそうに咳をしていた。
「すぐに医師を呼べ!」
お父様の声が飛んだ。
駆けつけた使用人たちが、わたしたちを離れの小屋に運んでくれた。
やがて医師が到着し、わたしとリナは診察を受けることになった。
二人とも煙を吸い込んでいたため、しばらく安静にして様子を見る必要があるという。
リナの母親も駆けつけ、娘を強く抱きしめて泣いていた。
「リナ……! よかった、本当によかった……!」
「お母さん……ごめんなさい……」
「もういいの。生きていてくれたら、それでいいのよ……!」
その声を聞きながら、わたしはそっと目を閉じた。
リナは、母親の腕の中にいる。
それを見届けて、ようやく肩の力が抜けた。
「エレノア」
低い声が聞こえた。
目を開けると、レオハルト様が立っていた。
彼の顔から、いつもの穏やかな笑みは消えていた。
「少し、話がある」
「……はい」
「無理に起きなくていい。横になったまま聞いてくれ」
わたしはうなずいた。
「どうして、あんなことをしたんだ」
責めるような声だった。
わたしは思わず息をのんだ。
「リナが、まだ中にいたので……」
「それは分かっている」
レオハルト様は、ぎゅっと拳を握った。
「君があの子を助けたかったことも、見捨てられなかったことも分かっている」
彼は一度、目を伏せた。
「だが、君まで戻ってこられなくなったら、どうするつもりだった?」
答えられなかった。
「君を守るために騎士をつけた。危険を避けて、助けを呼ぶようにした。それなのに……」
レオハルト様の声が、かすかに震えた。
「君がいなくなったと聞いたとき、私は……」
そこで彼は言葉を切った。
握りしめた拳が、わずかに震えていた。
「君に謝ってほしいわけじゃない。誰かを助けようとすることを、やめてほしいわけでもない」
彼は静かに続けた。
「……ただ、無事でいてほしいんだ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
わたしは、何も言えなかった。
レオ様はしばらくわたしを見つめていたが、やがてそっと手を伸ばした。
その手が、わたしの頭に触れる。
「頼むから、無事でいてくれ」
「……はい」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
少し離れた場所で、お父様がこちらを見ていた。
目が合う。
お父様は何も言わなかった。
ただ、いつものようにわたしを見つめ、ほんのわずかに微笑んだ。
叱られると思っていたわけではない。
けれど、その静かな眼差しに、胸がいっぱいになった。
「お父様……」
呼びかけても、お父様は何も言わなかった。
代わりに、わたしの肩にそっと手を置いた。
その手の温かさに、目の奥が熱くなった。
わたしはうつむき、袖で目元をぬぐった。
◆◇◆
「エレノア様……」
しばらくして、リナがこちらへやってきた。
「どうしたの?」
「あの……お話ししたいことがあるんです」
リナは不安そうに周囲を見回した。
「今朝、お菓子を届けに行く前のことなんですけど……」
「今朝?」
「はい。屋敷の裏手で、知らない人を見たんです」
「知らない人?」
「はい。顔はよく見えませんでした。物置の近くにいて……使用人用の通路のほうへ歩いていったんです」
その言葉に、今朝の記憶がよみがえった。
お父様が王都へ出発した朝。屋敷の裏手で、誰かに見られているような気がした。
まさか……。
「その人の顔は、分からなかったのね?」
「はい……。でも、うちの使用人ではなかったと思います」
「話してくれてありがとう、リナ」
わたしは、そっと彼女の肩に手を置いた。
「今は、ゆっくり休んでね」
リナは小さくうなずき、母親のもとへ戻っていった。
わたしは、もう一度屋敷を振り返って、唇をかみしめたのだった。




