第1章 第6話 幸せな明日が、炎に包まれましたわ!
「レオハルト様って、本当に素晴らしい方ね」
レオ様がお帰りになったあと、お母様はうっとりとした表情でそう言った。
「ええ。わたしには、もったいないくらいですわ」
「まあ、エレノアったら」
「こほん」
楽しそうにおしゃべりする私たちに、父はわざとらしく咳払いをした。
「あんなことがあったんだぞ。お前たちはどうしてそう、能天気なのだ」
「ですがお父様。あの後、レオ様が騎士団の精鋭を呼び寄せて、守っていただいたので安心でししたわ」
「頼りになる殿方がいらっしゃるって、素敵ですわね。ねえ、あなた」
「ブッ、ゴホッツ」
母はむせる父の背中をさすった。
「詳しいことは分からないが、あの矢は、エレノアに向けられたものかもしれん。それに盗賊たちもいたのだろう。とにかく明日、私は王都に行ってくる」
父は、そう言ってわたしの肩にそっと手を置いた。
「お前たちも、しばらくは十分に注意しなさい。屋敷の者たちにも警戒を怠らないよう伝えておく」
「わかりましたわ」
「はい、お父様。わたしも気をつけますわ」
◆◇◆
翌朝、お父様は王都へ向けて出発した。
玄関先で馬車を見送り、屋敷の中へ戻ろうとしたときだった。
ふと、背中に視線を感じた。
誰かに見られている。
そう感じた瞬間、わたしの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
屋敷の裏手へ続く小道。その脇には、きれいに手入れされた植え込みが並んでいる。
葉の陰で、何かが動いたように見えた。
「……誰かいるの?」
返事はない。
わたしは目を凝らした。
けれど、植え込みの向こうには誰の姿もなかった。
風で葉が揺れただけなのかもしれない。
そう思いかけた、そのとき。
「エレノアお嬢様!」
明るい声が響いた。
振り向くと、小柄な少女がこちらへ駆け寄ってくる。
「リナ?」
「はい!」
リナは屋敷の料理人の娘で、まだ九歳。母親の手伝いで屋敷に出入りしている、元気な女の子だ。
以前、彼女のお母さんが体調を崩したとき、わたしが医師を手配するよう取り計らったことがある。それ以来、リナはわたしを見かけるたび、嬉しそうに声をかけてくれるようになった。
「どうしたの?」
「お嬢様に、お礼を言いたくて!」
リナは両手で小さな包みを差し出した。
「これ、お母さんと一緒に焼いたんです。お嬢様に食べてもらいたくて」
包みを開くと、小さな焼き菓子が二つ入っていた。
「まあ、ありがとう。とても美味しそうね」
「お母さん、すっかり元気になりました。お嬢様のおかげです!」
リナは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
わたしがしたことは、医師を手配するよう頼んだだけだ。それでも、こんなふうに喜んでもらえるのは嬉しい。
「それはよかったわ。お母さんを大切にしてあげてね」
「はい!」
わたしはリナの頭を優しく撫でた。
「これからも何か困ったことがあったら、遠慮せずにわたしを頼りなさい。お母さんのことでも、あなた自身のことでもね」
「本当ですか?」
「ええ。約束するわ」
リナは嬉しそうにうなずいた。
そのとき、彼女の胸元で小さなペンダントが揺れた。
銀色の飾りには、見慣れない細かな模様が刻まれている。
「それは?」
「お母さんからもらった大切なものなんです。絶対になくしちゃいけないって言われているんです」
リナはペンダントをそっと握りしめた。
「そう。大事なものなのね」
「はい! 絶対になくしません!」
リナは誇らしげに胸を張った。
「それなら、しっかり身につけておくのよ」
「はい、お嬢様!」
リナはぺこりと頭を下げ、屋敷の裏手へ戻っていった。
手の中の焼き菓子を見つめ、わたしは微笑んだ。
◆◇◆
その夜。
わたしは自室で、レオハルト様から贈られた婚約指輪を眺めていた。
指にはめると、宝石が蝋燭の光を受けてきらりと輝く。
美しい。
これが将来の南領伯夫人への第一歩なのだと思うと、自然と頬が緩んでしまう。
この指輪も、これからの幸せも、絶対に手放したくない。
「うふふ……」
思わず笑みがこぼれた、そのときだった。
――焦げ臭い。
鼻をつく異臭に、わたしは顔を上げた。
最初は、どこかで何かを焦がしたのかと思った。
けれど、臭いは次第に強くなる。
わたしは扉を開け、廊下へ出た。
薄暗い廊下の向こうに、白い煙が流れ込んできていた。
その先が、赤く揺れている。
「……まさか」
「火事だ! 火事だあっ!」
大きな叫び声が起こり、屋敷の中が、一気に騒然となった。
わたしは部屋へ引き返すことも忘れ、廊下を走った。
階段の近くでは、炎が壁をなめるように燃え上がっている。火の手はすでに広がり、正面玄関へ向かう道を塞いでいた。
「エレノア!」
煙の向こうから、お母様がハンナに支えられて現れた。
「お母様、ご無事ですか!」
「ええ、私は大丈夫。でも、ハンナが……!」
「まあっ、ハンナ大丈夫なの?!」
「すいません。足をくじいてしまいました」
最初、お母様をハンナが支えていると思っていたけれど、どうやら逆の様だ。
わたしは、足をひきずるハンナの手を取り、肩をかした。
「お嬢様、お役に立てず申し訳ありません」
「こんな時に何言ってるの!」
正面の階段は使えない。ならば、別の道を探すしかない。
そのとき、ふと思い出した。
物置部屋の奥に、使用人たちが使う細い通路があったはずだ。幼いころ、屋敷でかくれんぼをしていたときに偶然見つけた通路で、裏手へ抜けられるはずだった。
「こちらです!」
わたしは煙の薄い廊下を選び、物置部屋へ向かった。
煙が目にしみる。喉が焼けるように痛い。
早く、早くしなければ。
物置部屋にたどり着き、積み上げられた荷物を押しのける。
けれど、すぐには通路が見つからなかった。
「どこ……? 確か、この奥のはず……!」
焦る気持ちを抑え、荷物を一つずつ脇へどかす。
幼いころ、かくれんぼの途中で見つけた狭い扉。あのときは秘密の隠れ場所を見つけたつもりで、誰にも教えずにいた。
まさか、こんなときに役立つなんて。
やがて、壁際に狭い扉が現れた。
「あった!」
扉を開くと、人が一人ずつ通れるほどの暗い通路が伸びていた。
「この先から外へ出られるはずです。急ぎましょう!」
わたしたちは身をかがめ、通路へ入った。
煙は薄いものの、息を吸うたびに胸が苦しくなる。お母様もハンナも、足元を確かめながら進んでいた。
「もう少しです。頑張ってください!」
わたしは二人を気遣いながら、必死に前へ進んだ。
やがて、通路の向こうに夜の空が見えた。
「出口です!」
最後の力を振り絞り、わたしたちは屋敷の外へと逃げ出した。
◆◇◆
外では、使用人たちが逃げ遅れた者を探し、消火にあたっていた。
屋敷から立ち上る炎が、夜空を赤く染めている。
わたしは咳き込みながら、お母様の無事を確かめた。
「お母様、お怪我はありませんか?」
「ええ……あなたこそ、大丈夫?」
「わたしは平気です」
そう答えたものの、全身が震えていた。
怖かった。また命を失うかもしれないと思った。
……そのときだった。
「リナを見ませんでしたか!?」
母親のリサが娘のリナを探す声が、わたしの耳に入ったのだった。




