第四話
「怜南。ここからはメニュー通りに、陽仁を頼む」
ミッチーくんから黒いゴムバンドを5つ受け取り、私は陽仁くんに駆け寄る。
陽仁くんは少し息があがりながらも、涼しい微笑みをたたえて一つ、ゴムバンドを受け取った。
「これから人数割り振るらしいけど、とりあえず陽仁くんは私固定だから、腰に巻いといて」
「わかった、ありがとう」
これから行うトレーニングは、スプリント走力向上と、競り合いで相手より前に出る力を鍛えるためのものだ。
手順としては
①選手はゴムバンドを腰に巻く。
②コーチは背中側から延びる、バンドについてるゴム紐を手に取る。
③選手は合図とともにスプリントする。
④コーチは3秒間紐を引っ張り続け、選手に負荷をかけてから手を離す。
⑤そのまま選手は10m先までダッシュ。
となる。
これを10周行う。
しばらくすると、私の元に振り分けられた選手たちが集まる。
彼らにゴムバンドを手渡し、陽仁くんの腰に下がる紐を取る。
────その瞬間。
なぜか幼少期の頃の、7歳くらいの頃の記憶が蘇る。
私の実家には昔、犬がいた。
ゴールデンレトリバーのジョン。
いつも父親が散歩に行っていたけど、その日は私が駄々をこねて、ジョンの手綱を握ったんだ。
しばらくして、近所にいた美犬。たしかボーダーコリーのリリィが姿を見せたんだ。彼女もまた散歩中だった。
ジョンの目の色が、雰囲気が変わる。
そう思った時には私は、猛然とリリィに向かって走り出すジョンに飛ばされるように引き摺られていった。
大人達の悲鳴と私の悲鳴が、桜舞う公園にこだました。
ハッと我にかえる。
すでに、陽仁くんはいつでもスタートできるように背を向けている。
「か、カウントするよ!2!1!はい!」
慌てながらも。力負けして吹っ飛ばされないように、重心を低く保つ。
そして、爆ぜるようなスタート。
世界レベルの加速。推進力。
その想像を遥かに上回る力に私は……
「あぁーーー!?」
引きずられるように吹っ飛ばされた。
なんとか脚を前に出すが、体勢がつんのめり、こける…………目を瞑って衝撃に備える……が。
身体が落ちた先にあったのは地面の冷たい感触ではなく、もっと温かくて構造的な、人の体の感触だった。
「セーフ」
陽仁くん?マジか………。
どよめきと歓声の中でうすら、羞恥に耐えながら目を開けた。
完全に抱き止められているのが分かった。
「あああ。ごめん!ごめん!!」
跳ね起き、彼の腕の中からはじかれるように立ち上がる。
誰だよ指笛吹いてる奴は。後でシメるか。
「いや、こっちこそ、最初から本気でやるべきじゃなかったかって……」
「いーやいや、私もプロだし!同じ失敗はせん、なめんなって」
耳まで熱くなる羞恥心を隠すように、私は陽仁くんの手を取り、力強く立ち上がらせた。
「それじゃ、信じるよ?」
陽仁くんは不安そうに、案じる様に眉根を潜めた。
その煮え切らない態度に腹が立って、私は彼の肩をつかんで無理やり前を向かせる。
私もプロだって言ってんでしょーが。手加減しちゃトレーニングにならんでしょーが。
「うるさい!いいからやれ。2、1」
「え、マジ!?」
「はよ行け!」
「はい!」
私の照れ隠し同然な大声に、反射的に彼はスタートを切った。
今度はより私も力強く。体幹を後ろに倒し込み、トップクラスの推進力に備える。
大丈夫。さっきので、強さは把握できた。
黒いゴム紐が強く引き伸ばされていく。
スパイクを芝に食い込ませ、両の手に渾身の握力を込める。
3秒この状態を維持する。そして……手を放す。
解き放たれた陽仁くんは持ち前の加速力でもって、10m先のスポットまで走り切った。
「おー!」と拍手が周囲から沸き起こる。陽仁くんも手を高く掲げて私を称える。素直な祝福だが、それが歯がゆい。少し悔しい。
この光景を当たり前のものとして、受け入れさせてやる。絶対に。
「ほら次来い!はよ」
のんきに拍手している後列の選手にぴしゃりと鋭く声をかけると、慌てて私に紐を手渡しに来てくれた。
私の取り組みを見て、我に返ったように、他のグループもとトレーニングに集中し始める────。
***
午前のトレーニングが終了した。
あのゴム紐のトレーニングが響いているのか、私の手はまだ少し震えている。
それにしても、陽仁を付ききりで補助して思う。
フィジカル能力についてはやはり、他の選手と比べても次元が違う。
正直もう既に疲れた。早く慣れなくては……。
ちなみに、選手に着けていた測定機器は、ミッチーくんと共に一時回収した。
「興味があれば、各選手の測定データをアプリで確認してな」
「了解」
私はスマホの電源ボタンを押そうとして……押せなかった。
握力が、もう、ない。両手でも、だめだ。
やむなし……。
そう思い、私は芝生にスマホの側面を押し付け、体重をかけて電源をつけようとした。
「なにしてんの」
ミッチーくんが、私の奇行を苦笑いで見つめていた、
「握力が限界の民」
「ははは……大丈夫かよ」
「すごいね、これがトップクラスの選手たち……」
「こんなことで驚いてちゃ、今日帰るころには心臓止まっちまうぜ」
「どういうこと?」
「今から昼休憩だが、トレーニングルームを見てまた驚くだろうな」
その言い草にハッとする。
「まっさかぁーいやいや、ミッチーくんてば冗談が上手いんだから、HAHAHA」
「冗談ならどれだけよかったか」
「マですか」
「マです」
「マァ……」
彼らは、隙間時間を有効活用し、トレーニングルームに集まっているという。
しかも一部選手というわけでもなさそう、という。
「陽仁もいるはずだから、いい機会だろ。話してこいや」
「た、たしかに」
プライベートトレーナーとして、普段の彼のトレーニングルーティンを把握することは必須だ。
「そういえば陽仁くんって、普段誰に見てもらってるの?」
「メディカル側の担当分けを全部把握してるわけじゃないが……。琥太郎くんじゃね?」
「ありがとう、わかった」
昼飯を済ませたら、トレーニングルームを覗きに行こう。




