第十一話 原点
佑平────私の兄さんは、《《天才》》と呼ばれていた。
幾星霜、数多の選手に使い古され、サッカー史上で錆びついた賛辞。
だけど、私にとっては。
その言葉は、兄さんに降り注ぐ瞬間、輝いて見えた。
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"ジダン"のように繊細で支配的なボールコントロール。"グティ"のように相手の意識の裏をかくセンス。FWとしては"フィルミーノ"を彷彿とさせる献身性と創造性を有しながらも、より"ロナウジーニョ"めいた楽しさ、遊びがある…………。
神に愛された人間とは、ああいう才能を持つ人のことなのだと。そう思わせてくれるのが、白銀佑平という選手だった。
本質は"ロナウジーニョ"的な部分にあったと思う。
敵の守備網に僅かに風穴を開けるノールックパス。常にへそ下の重心に向けて自走し、収まり続け、如何なるアドリブめいた動きを赦すボール。試合中によく見せる、軽薄な微笑み──。生粋のエンターティナーだった。
なのに現代サッカーにも適応できる献身性、インテリジェンスを備えていた。兄さんはアーティストであり、生粋のアスリートでもあった。
兄さんは、明確に《《違う》》。
そう思わせるプレーが毎試合飛び出す。現代サッカーの組織論をあざ笑うかのように、ボールを持てば破壊的な何かが起こる、セイラーズの至宝。
この期待に誰もが疑う余地を持たなかった。
いつか。兄さんは、トップチームでも華々しいデビューを飾り、そして世界に羽ばたいていくのだろう。そんな確信めいた期待に私だって満ちていた。
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サルヴィースユースとの試合で、FWの兄さんはすでに前半で2得点を決めていた。1つは裏への抜け出しからの、シンプルなゴール。もう1つは、ニアに差し込むコーナーキックに合わせ、逸らした見事なヘディング。
ハットトリックを期待せずにはいられない。
だが、後半開始から長らく、膠着状態になった。セイラーズの攻撃のリズム、狙いに相手チームのサルヴィースが対策を講じ、対応し始めていたからだ。
セイラーズによる、前線選手の高い技術を駆使した、狭い位置関係でのショートパス。この、今やクラシカルなポゼッション戦術に対し、サルヴィースはグッとバイタルエリアを締めるように、中央のゾーンに人を寄せることでスペースを潰した。よりコンパクトな陣形。これが功を奏し、エースである兄さんにボールを渡すことがそもそも困難になっていた。
後半20分。攻めあぐねるセイラーズのリズムに綻びが生まれ始めていた。焦りもあるのか、奪われた際・非保持時のプレッシングが前のめりで間延びし始めていた。
そこで、中央から攻め立てる選択肢を諦めたセイラーズは、サイドを経由した攻めに切り替えた。陽仁くんが左サイドをオーバーラップし、深い位置からクロスを供給する。フィールドにまとわりつく、サルヴィースの反撃の気配に抗うように。
だが、ボールが上手く浮かずに、相手DFに右足で思い切り中央にはじき返された。
セカンドボールを拾ったのは相手前線の選手だった。
「カウンターー!!」
サルヴィースユースの監督がテクニカルエリアから片足を出し、叫んだ。
相手の目の色が、変わる。対してセイラーズのトランジションは……鈍い。一瞬迷いがあった。相手の迫力にあてられて、初めて守備のスイッチが入ったような。そんな感じ。
特に……陽仁くんは試合終盤になって運動量がかさみ、疲労が蓄積してるようだった。足がもつれ、正確なクロスを供給できなかったのだ。相手が陽仁くんの上がったスペースを活用しようと、右サイドに開いた選手にボールを展開する。敵ながら目敏く的確な判断に、思わず感嘆した。
「休んどけ!」
必死にディレイをかける味方CBに追いつくために、陽仁くんに声を張り上げて指示を出し、走り始めたのは兄さんだった。誰よりも速く。その姿に、セイラーズ守備陣の空気が引き締まった。
最適なプレスバックの判断だった。
陽仁くんは代わりにFWの位置に入り、歩いて呼吸を整える。
そして、間に合った。左サイドバックの位置に入ったCBをカバーするように、兄さんは数的不利を補った。
だが、前がかりだった陣形は、まだ混乱の最中にあった。
カバーに入った左サイドのCBが抜かれ、ポケットに侵入を許す。ニアサイドに走り込む相手FW。
その間に滑り込み、ボールに触らせまいとする兄さん────
────────がしゃ。
そんな音だったと思う。
未来を奪った、音は。
最初、私は線審がコーナーフラッグを指し示すのに興味があった。
そのあとで、誰かが叫ぶ声に気が付いたんだ。
それが兄さんの声だと受け入れられるまで、少しの時間を要した。
倒れ、動けない兄さんを見て頭を抱える、接触した相手選手。
メディカルスタッフに早く来るよう声を荒げる、味方選手。
そこで初めて、尋常ではないという予感に駆られた。
肌が粟だつ。私は駆け出した。
助けなければ、守らなければ。そう思って。空回りしそうな足をどうにか制御して。
制服のスカートがめくれることも辞さず、手すりを超えた。
陸上トラックを躊躇なく踏んで、駆け抜けた。
そう遠くはない距離が、果てしなく思えた。
「兄さん、兄さん!どこか痛むの?なにが……」
ようやく、うつ伏せで叫ぶ兄の横に膝をつき、体に触れる。
「足が、動かない、感覚が無い……!こんな……!」
「なんで、どうしたら……」
私を見上げた兄さんの瞳が涙にぬれ、悲壮と絶望に染まっていた。
今でもずっと、その瞳の深い絶望を思い出す。
その絶望にあてられて、それでも何もできない。
私の無力さに、吐息の通る喉が震えた。
「……!……君、どいて!」
メディカルスタッフに押しのけられ、そのまま彼らが何をしているのか分からず、私は呆然と立ち尽くすだけ。
立ち尽くすだけ。
救う権利も技術もなく、ただ、壊れた兄を見下ろした。
ふと、ペナルティエリアの外に、陽仁くんが見えた。
座りこみ、自分の頭をぐしゃっと掴んでいて。その表情は隠れていた。
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腰椎圧迫骨折。
兄さんは一時、下半身不随となり、懸命なリハビリにより運動能力を取り戻した。フィールドに立てる様になるまで、のべ二年。その間にユースを去り、地元クラブチームから、再生を志した。
そして、紆余曲折を経てプロカテゴリに復帰するまでになった。それだけでも奇跡だった。
だが、後遺症が残った。
慢性的な強い神経痛を抱え、プレーにムラを抱える不安定な天才選手。それが、兄さんの現在のプロでの評価だった。上のカテゴリに戻ることはきっと、もう無いだろう。
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……夢だった。
そう、たまに今でも夢に見る。
肩を揺さぶられる感触で、現実に引き戻されたことがありがたい。
ぼやける視界で捉えた像は見覚えがある。
陽仁くんだった。
彼と視線を合わせることをためらった。
ジャージの裾で私は、首筋の汗の感触を拭う。
「あ、起きた」
「……おはよう」
「うなされてたよ」
「マジか……」
陽仁くんは、それ以上は詮索しようとしなかった。
暑くなり始めていた室内の空調を入れながら、平然と話題を変える。
「にしても早いね……」
「互いにね」
「いやさっきミッチーとすれ違いざま少し話したんだよ。5時には来てたって」
「まあ、用があったしなぁ」
「そっか」
陽仁くんはパイプ椅子に深く腰掛け、私と向かい合って一息ついた。
「昨日ドタバタしてたし改めて、久しぶりだね」
「うん、本当に。兄さんがユースいた時期以来かな」
「もう随分前だけどさ、裕平からトレーナーを目指してる聞いた時は驚いたよ。てっきり女子プロ目指すものかと」
「私も迷ったけどね。でも……」
「……やっぱ、佑平の怪我、か」
黙って頷く私に、陽仁くんは納得するように目を細めた。
私の現職への想い。原点はその事故にある。
目の前で「足が動かない」と慟哭する兄をただ見ていることしかできなかった、あの日の記憶に。
「しかし、あの状態からプロの舞台に戻ってこれるなんて。相変わらずとんでもない奴だよな……」
「まあ、我が兄ながらしぶといな、と」
「今でもよく会うけどまあ、あのメンタリティは尊敬するよ」
「だよね」
会話が途切れた。
普段どうってことない沈黙が嫌に冷たく感じた。
あの日の記憶を共有してるからか。
私たちを最も結びつけるのは、大部分が兄の記憶。
でも、そこに踏み込むことは、私たちにとって怖い事だった。
きっとあの日以降、私たちの間にあったこの恐怖が、かつての幼馴染としての、友達としての関係を途絶えさせたのだろう。
「……俺ってさ、死ぬほど走るでしょ」
不意に、陽仁くんが切り出す。
その表情に、普段の柔らかな表情は無く。テーブルの上では固く手が握られていた。
脈絡の無さに戸惑いながらも、私は肯定する。
陽仁くんの運動量は誰もが知るところだから。
「嫌だったからね。もう、走れないせいで誰かに迷惑をかけるなんて。誰かが怪我するとか。そういうしわ寄せが起こることが」
「……そう、なんだ」
「だから、俺はずっと走ってんだ」
「でもさ。陽仁くんの責任じゃない。あれは、不幸だった」
「でも俺が走れなかったのは事実だよ。ただの不幸だと思うなら……君も、トレーナーなんて志さなかったでしょ」
「まあ、それは……そうだね」
私もそうだ。確かに、陽仁くんと同じだ。
何もできなかった私を悔いていた。
家族なのに、無力な私そのものが、罪であるかのように思っていた。
そして……心の奥が少し暖かくなって、微笑みが漏れた。
それは陽仁くんも同じだったらしい。肩をすくめて彼は云う。
「因果なもんだね」
「まったく」
陽仁くんのことを理解できた気がした。
きっと、今私が握ってるノートの中のトレーニングメニューを、陽仁くんが勝手にアレンジしていた理由は、その脅迫めいた責任感にあるのではないだろうか、と。
理解はする。私にもそういうところはある。ちょっと似た者同士ってことが分かったし。
……だからこそ、釘は刺しておかなければ。
「それゆえに陽仁くんは、無茶しがちなのかね?」
「ん?!」
話の流れが急激に変化したことで、陽仁くんの表情が戸惑いに固まる。
私は、トレーニングメニューが記されたノートのページを広げ、彼の前に突き出した────。




