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新庄剛志物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学校編

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13/15

初の紅白戦 ―― 規格外の片鱗



 五月の第一週、黒田が紅白戦を組んだ。

 三年生中心のAチームと、二年生・一年生混合のBチーム。力の差は明らかだった。Bチームの一年生にとっては、力試しというより洗礼に近かった。

 剛志の守備位置は、レフトだった。 


 前日に黒田から告げられた。捕手でも内野でもなく、外野。剛志は理由を聞かなかった。今回は聞かないと決めていた。聞くより先に、グラウンドで答えを出す。先週自分に言い聞かせたことだった。

 当日の朝、剛志はグラウンドの隅で一人、外野からの送球練習をした。 


 フェンス際から、矢のような軌道でホームへ投げる。捕手役のボールボーイが毎回うしろに弾いた。強すぎた。剛志は七割に落とした。それでも弾いた。五割にした。ようやく収まった。

 本番は七割でいい。

 そう決めた。



 一回の表、Aチームの攻撃。

 先頭打者は三年生の一番・中田。足が速く、バントも上手い、いやらしい打者だと村上から聞いていた。

 初球、外野フライ。レフトへの浅い打球だった。

 剛志は二歩前に出て、難なく捕った。送球の必要はなかった。


 二番、三番が凡退してスリーアウト。外野に打球は来なかった。

 剛志はポジションに立ちながら、内野の動きを見ていた。Aチームの内野手がどこに立つか、どちらに動くか。ただ眺めて、体に入れた。



 三回の表、Aチームが動いた。

 四番の三年生・古賀がライト線への二塁打を放った。続く五番が四球で一死一、二塁。六番は長距離打者だと聞いていた。

 打球はレフトへ飛んだ。 


 深かった。フェンス手前まで転がるかと思われた打球が、剛志の目には最初から軌道が見えていた。

 一歩目が速かった。

 フェンス際まで全力で走り、背走しながら打球を追い、フェンスの二歩手前で振り返った。グローブを伸ばした。

 捕った。


 同時に、剛志の頭の中で計算が走った。

 二塁走者・古賀は飛び出している。タッグアップが遅れた。返球すれば間に合う。三塁ではなく、ホームを狙っている。

 体が勝手に動いていた。



 送球は放物線を描かなかった。

 低く、速く、一直線に。

 レフトからホームまで、距離にして九十メートル近い。その距離を、ボールは失速せずに届いた。

 バシィン、と捕手のミットが鳴った。


 古賀は三塁で止まった。タッグアップを諦めていた。本能的に無理だと判断していた。

 グラウンドが静かになった。

 一秒の静寂のあと、Bチームのベンチから声が上がった。Aチームの選手たちが顔を見合わせた。黒田がスコアブックから顔を上げた。


 村上がフェンス際から剛志を見ていた。何も言わなかったが、目が変わっていた。

 坂本が捕手のマスクを上げて、レフトを見た。


「……今のは何や」


 誰に言うでもなく、呟いた。



 五回の裏、剛志の第二打席。

 第一打席は四球だった。Aチームのエースが、初対面の一年生に対してストライクゾーンを外し続けた。警戒か、それとも一年生相手に本気を出したくなかったか。どちらにせよ、剛志には関係なかった。

 二打席目、エースは変わっていた。


 代わりに上がったのは二年生の右腕。速球派で、真っすぐに自信があると聞いていた。

 初球、インハイへの速球。剛志は見逃した。ストライク。


 二球目、アウトローへのスライダー。これも見逃した。ボール。

 三球目、真ん中高めへの速球。

 来た。


 バットが出た。芯で捉えた確信があった。打球はライト線へ伸びた。フェンスを直撃した。走者一人が還り、剛志は二塁に立った。


 四球目を待たずに、右中間への二塁打。

 次の打席、今度はレフト方向へ。広角だった。どこへでも打てた。 



 問題は七回に起きた。

 Bチームが一点リードで迎えた七回の表、黒田がサインを出した。

 剛志にではなく、内野全体への守備シフトだった。サードを前に出し、ショートを二塁寄りに。バントに備えた守備体形だった。

 剛志はそのサインを、レフトから見ていた。

 違う。


 直感が走った。

 Aチームの七番打者は、前の打席でインハイを引っ張っていた。シフトを見て、逆に引っ張ってくる。バントのフォームを見せてからヒッティングに切り替えるタイプだと、この試合を通して感じていた。

 打球はレフト線へ来る。


 剛志は三歩、フェンス寄りに動いた。

 黒田のシフトから、明らかに外れた位置だった。



 打者が構えた。

 バントの構えを見せた。内野が前に出た。

 次の瞬間、バットが引かれてフルスイングに切り替わった。

 打球はレフト線へ飛んだ。


 剛志はすでに動いていた。三歩分の先読みがあった。難なく追いつき、ランニングキャッチした。

 アウト。

 ベンチが沸いた。Bチームの一年生たちが声を上げた。


 剛志がポジションへ戻ったとき、黒田の声が飛んだ。


「新庄、タイム」



 黒田はグラウンドへ出てきた。

 珍しいことだった。紅白戦で監督がグラウンドに出るのは、よほどのことだと後で知った。

 剛志の前に立った。

 目が細かった。いつもより細かった。


「守備位置のシフト、出したのを見たか」

「見ました」

「なぜ無視した」

「打球がレフト線へ来ると思ったからです」

「なぜ来ると思った」

「前の打席の引っ張りと、バントフェイクのタイミングを見ていたら、そう読めました」


 黒田は一歩、剛志に近づいた。


「結果は合っていた」

「はい」

「ではもう一度聞く。なぜシフトを無視した」


 剛志は答えようとした。


「お前は野球を舐めているのか」


 黒田の声は、荒げていなかった。低く、静かで、それがかえって重かった。



「舐めていません」


 剛志は真っすぐ答えた。


「ではなぜ指示を無視する」

「指示が間違っていると思ったからです」


 グラウンドが凍りついた。

 Aチームの選手が固まった。Bチームのベンチが静かになった。村上が目を細めた。坂本がマスクの下で息を呑んだ。

 黒田は表情を変えなかった。


「監督の指示が間違っていると、お前が判断したのか」

「結果として、正しかったと思います」

「結果が正しければ、指示を無視していいのか」

「……」

「答えろ」


 剛志は答えに詰まった。

 答えが出なかった。結果は正しかった。でも指示を無視したことが正しかったかどうかは、別の問いだと分かっていた。でもその二つをどう分けて言葉にすればいいか、今の剛志には届かなかった。



「言えません」 


 剛志は正直に言った。


「なぜ言えない」

「結果が正しくても、指示を無視したことが正しかったかどうか、俺にはまだ分からないからです」


 黒田は、剛志を見た。


「正直に言ったことは評価する」

「はい」

「だが今日の守備位置の無視は、記録する。次にやったとき、お前をベンチから外す」

「分かりました」

「分かりましたで終わらせるな。なぜ指示があるか、今夜考えろ。答えが出たら俺のところへ来い」


 黒田はそれだけ言って、ベンチへ戻った。

 グラウンドの空気が、ゆっくりと戻ってきた。

 剛志はレフトのポジションへ戻った。

 背中に視線が集まっていた。敵意のある視線と、好奇心の視線と、評価する視線が混ざっていた。

 剛志はそのどれも気にしなかった。

 ただ、黒田の問いが頭の中で鳴り続けていた。

 なぜ指示があるか。


十一


 その夜、剛志は二時間考えた。

 ノートを開いて、書いて、消して、また書いた。

 指示は統一のためにある。

 十八人がバラバラに動いたら、グラウンドに穴ができる。


 俺が読み通りに動いても、他の選手が俺の動きを知らなければ連携できない。

 今日のプレーは結果として正しかった。でも誰も俺の動きを予測していなかった。

 もし打球が違う方向に飛んでいたら、レフト線は完全に空いていた。


 ペンが止まった。

 そこまで考えて、初めて分かった。

 指示は個人の判断より優先される。なぜなら、個人の判断は正しいかもしれないが、チームは個人の判断を知らないから。チームが動けるのは、共通の指示があるときだけだ。


 俺は今日、チームに背中を向けて一人で動いた。

 書いた。それを三度読んだ。


十二


 翌朝、練習前に黒田のところへ行った。


「答えが出ました」


 黒田はコーヒーを飲んでいた。カップを置いて、剛志を見た。


「言え」

「指示はチームが共通の動きをするためにあります。個人の判断がどれだけ正確でも、チームに共有されていない判断は、穴を作ります。俺が昨日したことは、結果的に正しかったかもしれないが、チームに穴を作るリスクを勝手に引き受けた行為でした」


 黒田は何も言わなかった。


「ただ」


 剛志は続けた。


「読みが正しいとき、それを伝える方法が欲しいです。無視するのではなく、サインを出す前に一言言える仕組みか、あるいは守備中に意見を言える場所が欲しい」


 黒田はしばらく剛志を見た。


「生意気だな」

「はい」

「だが筋は通っている」


 黒田はコーヒーを一口飲んだ。


「村上に言え。守備中のコミュニケーションのルールを、お前と一緒に整理させる」


 それだけ言った。

 剛志は頭を下げて、グラウンドへ向かった。

 朝の光が土を白く照らしていた。


── 中学校編・第3話・了 ──


規律とは自由の反対ではない。規律は、才能をチームの言語に翻訳するための文法だ。

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