初の紅白戦 ―― 規格外の片鱗
一
五月の第一週、黒田が紅白戦を組んだ。
三年生中心のAチームと、二年生・一年生混合のBチーム。力の差は明らかだった。Bチームの一年生にとっては、力試しというより洗礼に近かった。
剛志の守備位置は、レフトだった。
前日に黒田から告げられた。捕手でも内野でもなく、外野。剛志は理由を聞かなかった。今回は聞かないと決めていた。聞くより先に、グラウンドで答えを出す。先週自分に言い聞かせたことだった。
当日の朝、剛志はグラウンドの隅で一人、外野からの送球練習をした。
フェンス際から、矢のような軌道でホームへ投げる。捕手役のボールボーイが毎回うしろに弾いた。強すぎた。剛志は七割に落とした。それでも弾いた。五割にした。ようやく収まった。
本番は七割でいい。
そう決めた。
二
一回の表、Aチームの攻撃。
先頭打者は三年生の一番・中田。足が速く、バントも上手い、いやらしい打者だと村上から聞いていた。
初球、外野フライ。レフトへの浅い打球だった。
剛志は二歩前に出て、難なく捕った。送球の必要はなかった。
二番、三番が凡退してスリーアウト。外野に打球は来なかった。
剛志はポジションに立ちながら、内野の動きを見ていた。Aチームの内野手がどこに立つか、どちらに動くか。ただ眺めて、体に入れた。
三
三回の表、Aチームが動いた。
四番の三年生・古賀がライト線への二塁打を放った。続く五番が四球で一死一、二塁。六番は長距離打者だと聞いていた。
打球はレフトへ飛んだ。
深かった。フェンス手前まで転がるかと思われた打球が、剛志の目には最初から軌道が見えていた。
一歩目が速かった。
フェンス際まで全力で走り、背走しながら打球を追い、フェンスの二歩手前で振り返った。グローブを伸ばした。
捕った。
同時に、剛志の頭の中で計算が走った。
二塁走者・古賀は飛び出している。タッグアップが遅れた。返球すれば間に合う。三塁ではなく、ホームを狙っている。
体が勝手に動いていた。
四
送球は放物線を描かなかった。
低く、速く、一直線に。
レフトからホームまで、距離にして九十メートル近い。その距離を、ボールは失速せずに届いた。
バシィン、と捕手のミットが鳴った。
古賀は三塁で止まった。タッグアップを諦めていた。本能的に無理だと判断していた。
グラウンドが静かになった。
一秒の静寂のあと、Bチームのベンチから声が上がった。Aチームの選手たちが顔を見合わせた。黒田がスコアブックから顔を上げた。
村上がフェンス際から剛志を見ていた。何も言わなかったが、目が変わっていた。
坂本が捕手のマスクを上げて、レフトを見た。
「……今のは何や」
誰に言うでもなく、呟いた。
五
五回の裏、剛志の第二打席。
第一打席は四球だった。Aチームのエースが、初対面の一年生に対してストライクゾーンを外し続けた。警戒か、それとも一年生相手に本気を出したくなかったか。どちらにせよ、剛志には関係なかった。
二打席目、エースは変わっていた。
代わりに上がったのは二年生の右腕。速球派で、真っすぐに自信があると聞いていた。
初球、インハイへの速球。剛志は見逃した。ストライク。
二球目、アウトローへのスライダー。これも見逃した。ボール。
三球目、真ん中高めへの速球。
来た。
バットが出た。芯で捉えた確信があった。打球はライト線へ伸びた。フェンスを直撃した。走者一人が還り、剛志は二塁に立った。
四球目を待たずに、右中間への二塁打。
次の打席、今度はレフト方向へ。広角だった。どこへでも打てた。
六
問題は七回に起きた。
Bチームが一点リードで迎えた七回の表、黒田がサインを出した。
剛志にではなく、内野全体への守備シフトだった。サードを前に出し、ショートを二塁寄りに。バントに備えた守備体形だった。
剛志はそのサインを、レフトから見ていた。
違う。
直感が走った。
Aチームの七番打者は、前の打席でインハイを引っ張っていた。シフトを見て、逆に引っ張ってくる。バントのフォームを見せてからヒッティングに切り替えるタイプだと、この試合を通して感じていた。
打球はレフト線へ来る。
剛志は三歩、フェンス寄りに動いた。
黒田のシフトから、明らかに外れた位置だった。
七
打者が構えた。
バントの構えを見せた。内野が前に出た。
次の瞬間、バットが引かれてフルスイングに切り替わった。
打球はレフト線へ飛んだ。
剛志はすでに動いていた。三歩分の先読みがあった。難なく追いつき、ランニングキャッチした。
アウト。
ベンチが沸いた。Bチームの一年生たちが声を上げた。
剛志がポジションへ戻ったとき、黒田の声が飛んだ。
「新庄、タイム」
八
黒田はグラウンドへ出てきた。
珍しいことだった。紅白戦で監督がグラウンドに出るのは、よほどのことだと後で知った。
剛志の前に立った。
目が細かった。いつもより細かった。
「守備位置のシフト、出したのを見たか」
「見ました」
「なぜ無視した」
「打球がレフト線へ来ると思ったからです」
「なぜ来ると思った」
「前の打席の引っ張りと、バントフェイクのタイミングを見ていたら、そう読めました」
黒田は一歩、剛志に近づいた。
「結果は合っていた」
「はい」
「ではもう一度聞く。なぜシフトを無視した」
剛志は答えようとした。
「お前は野球を舐めているのか」
黒田の声は、荒げていなかった。低く、静かで、それがかえって重かった。
九
「舐めていません」
剛志は真っすぐ答えた。
「ではなぜ指示を無視する」
「指示が間違っていると思ったからです」
グラウンドが凍りついた。
Aチームの選手が固まった。Bチームのベンチが静かになった。村上が目を細めた。坂本がマスクの下で息を呑んだ。
黒田は表情を変えなかった。
「監督の指示が間違っていると、お前が判断したのか」
「結果として、正しかったと思います」
「結果が正しければ、指示を無視していいのか」
「……」
「答えろ」
剛志は答えに詰まった。
答えが出なかった。結果は正しかった。でも指示を無視したことが正しかったかどうかは、別の問いだと分かっていた。でもその二つをどう分けて言葉にすればいいか、今の剛志には届かなかった。
十
「言えません」
剛志は正直に言った。
「なぜ言えない」
「結果が正しくても、指示を無視したことが正しかったかどうか、俺にはまだ分からないからです」
黒田は、剛志を見た。
「正直に言ったことは評価する」
「はい」
「だが今日の守備位置の無視は、記録する。次にやったとき、お前をベンチから外す」
「分かりました」
「分かりましたで終わらせるな。なぜ指示があるか、今夜考えろ。答えが出たら俺のところへ来い」
黒田はそれだけ言って、ベンチへ戻った。
グラウンドの空気が、ゆっくりと戻ってきた。
剛志はレフトのポジションへ戻った。
背中に視線が集まっていた。敵意のある視線と、好奇心の視線と、評価する視線が混ざっていた。
剛志はそのどれも気にしなかった。
ただ、黒田の問いが頭の中で鳴り続けていた。
なぜ指示があるか。
十一
その夜、剛志は二時間考えた。
ノートを開いて、書いて、消して、また書いた。
指示は統一のためにある。
十八人がバラバラに動いたら、グラウンドに穴ができる。
俺が読み通りに動いても、他の選手が俺の動きを知らなければ連携できない。
今日のプレーは結果として正しかった。でも誰も俺の動きを予測していなかった。
もし打球が違う方向に飛んでいたら、レフト線は完全に空いていた。
ペンが止まった。
そこまで考えて、初めて分かった。
指示は個人の判断より優先される。なぜなら、個人の判断は正しいかもしれないが、チームは個人の判断を知らないから。チームが動けるのは、共通の指示があるときだけだ。
俺は今日、チームに背中を向けて一人で動いた。
書いた。それを三度読んだ。
十二
翌朝、練習前に黒田のところへ行った。
「答えが出ました」
黒田はコーヒーを飲んでいた。カップを置いて、剛志を見た。
「言え」
「指示はチームが共通の動きをするためにあります。個人の判断がどれだけ正確でも、チームに共有されていない判断は、穴を作ります。俺が昨日したことは、結果的に正しかったかもしれないが、チームに穴を作るリスクを勝手に引き受けた行為でした」
黒田は何も言わなかった。
「ただ」
剛志は続けた。
「読みが正しいとき、それを伝える方法が欲しいです。無視するのではなく、サインを出す前に一言言える仕組みか、あるいは守備中に意見を言える場所が欲しい」
黒田はしばらく剛志を見た。
「生意気だな」
「はい」
「だが筋は通っている」
黒田はコーヒーを一口飲んだ。
「村上に言え。守備中のコミュニケーションのルールを、お前と一緒に整理させる」
それだけ言った。
剛志は頭を下げて、グラウンドへ向かった。
朝の光が土を白く照らしていた。
── 中学校編・第3話・了 ──
規律とは自由の反対ではない。規律は、才能をチームの言語に翻訳するための文法だ。




