ポジション問題 ―― 多才ゆえの混乱
一
四月の第二週、黒田がポジション分けを行った。
一年生十八人を並ばせ、一人ずつ希望を聞いた。ピッチャー志望が六人、キャッチャーが二人、内野が七人、外野が三人。だいたい例年通りの比率だと、後から村上が教えてくれた。
剛志の番が来た。
「新庄、希望は」
「全部やりたいです」
黒田の眉が動いた。
「全部とは」
「内野も外野も捕手も。全部守れます」
一瞬、沈黙があった。
隣に並んでいた一年生が、小さく息を呑んだ。二列後ろで誰かが笑いを堪えるような気配があった。
黒田は表情を変えなかった。
「理由を言え」
「どこでも出られる選手の方が、チームの役に立てると思うからです」
黒田はそれ以上聞かなかった。次の一年生に視線を移した。
答えを保留した、という空気だった。
二
実際、剛志は全部できた。
これは本人の思い込みではなかった。
内野はショートを小学校から守ってきた。打球への反応、送球の精度、どれも一年生の中では抜けていた。外野は肩の強さと走力があった。深い打球を追い、正確に中継へ返す。それだけで外野手として機能した。
問題は捕手だった。
経験は少なかった。小学校のとき、人手が足りない練習試合で何度か入っただけだった。だが剛志には捕手に必要な二つのものが、生まれつき備わっていた。
強肩と、投手を見る目だった。
二球目のキャッチャーミットの構え方を見ただけで、投手の調子が分かった。投球フォームのどこが乱れているか、言語化はできないが体で分かった。
これは剛志にとって当然のことだった。誰でもそうだと思っていた。
違うと知るのは、もう少し後のことだった。
三
黒田が動いたのは二週間後だった。
「新庄、今日から捕手の練習に入れ」
剛志はその日、内野の練習に参加していた。
「内野はどうするんですか」
「内野は続ける。外野も入れる。ただし捕手を優先しろ」
「全部やれるということですか」
「試している」
それだけ言った。
黒田のやり方は説明が少なかった。意図を語らず、選手を動かし、結果を見る。小川とは真逆だった。小川はノートに書いて、言葉で説明した。黒田は言葉より先に状況を作った。
剛志はその意図を掴もうとしながら、とりあえず従った。
四
捕手の練習に入った翌日、問題が起きた。
三年生の正捕手・坂本が、練習後に剛志を呼んだ。
坂本は背が低く、がっしりしていた。二年間正捕手を守ってきた。声が大きく、グラウンドでは常に中心にいた。
「一年、ちょっといいか」
「はい」
「なんで捕手やりたいん」
「やりたいというより、監督に言われました」
「その前に、全部やりたいって言ったやろ」
「言いました」
坂本は剛志を見た。値踏みするような目ではなかった。もっと率直な、確認するような目だった。
「正直に聞く。ポジション取りに来てるか」
「違います」
「じゃあなんで全部やりたいんや」
剛志は少し考えた。
「どこでも出られる方が、試合に出られる確率が上がると思ったからです」
坂本は一瞬だけ黙った。
「チームのためか、自分のためか、どっちや」
今度は剛志が黙った。
正直なところ、両方だった。でもどちらが先かと言われると、答えに詰まった。
五
その夜から、陰口が増えた。
剛志の耳には断片的に届いた。
目立ちたいだけやろ。
全部やりたいって、坂本さんのポジション狙ってるやろ。
一年のくせに。
監督に気に入られようとしてるんちゃうか。
悪意の温度は様々だった。本気で嫌っている声もあれば、ただの噂話の延長もあった。
剛志は否定しなかった。
否定するために声を荒げるのは違うと思った。言葉で説明できることなら説明するが、誤解を解くために動き回るのは、何か本質を外している気がした。
グラウンドで示す。
先週自分に言い聞かせた言葉を、また繰り返した。
でも今週は、その言葉が少し重かった。
六
水曜日の練習後、村上が来た。
前回のキャッチボール以来、村上は時々剛志に声をかけた。監視しているわけでもなく、かといって仲間として扱うわけでもない、微妙な距離感だった。
「坂本と話したか」
「はい」
「どうだった」
「怒ってるわけじゃないと思いました。ただ、確認したかったんだと思います」
村上は少し目を細めた。
「坂本は今年で最後や。三年間、一度もレギュラーを外れたことがない。それがどういうことか、分かるか」
「努力してきたということですか」
「それだけやない。チームを作ってきたということや。キャッチャーはグラウンドの監督や。配球、声掛け、投手との信頼関係。そのポジションに一年生が入ってきたら、どう見えるか」
剛志は黙って聞いた。
「お前が悪意を持ってないのは分かる。でも悪意がなければ何をしても許されるわけじゃない」
それは、先週も聞いた論理だった。
悪意がないことと、影響を与えないことは、別の話。
七
翌日、剛志は黒田に直接聞きに行った。
体育倉庫の前、いつもの場所だった。
「監督、一つ聞いていいですか」
「言え」
「俺を全部のポジションで試している理由を、教えてもらえますか」
黒田は腕を組んだ。
「なぜ聞く」
「チームの空気が悪くなっています。理由が分かれば、俺が説明できます」
「お前が説明する必要はない」
「でも誤解されています」
「誤解は実力で解け」
剛志は一歩踏み込んだ。
「実力で解くのは分かります。でも、監督が何を考えているか分からないまま動くのは、闇の中を走るようで。俺は理由を知った方が、もっとうまく動けます」
黒田は少し間を置いた。
これまでで一番長い間だった。
「器用貧乏という言葉を知っているか」
「はい」
「お前がそうなるかもしれないと思っている。何でもできるから、何かに絞れない。中途半端なまま終わる選手を、俺は何人も見てきた」
「だから試しているんですか」
「お前がどこで本物になるか、見ている」
八
本物になる場所。
その言葉が、練習中もずっと頭にあった。
内野を守るとき、外野を守るとき、捕手のミットをはめるとき。どこが一番、体の中の歯車が噛み合うか。剛志は初めて、自分のポジションを意識しながら動いた。
ショートは好きだった。打球への一歩目、送球の感覚、内野の土の踏み心地。全部が馴染んでいた。
外野は気持ち良かった。広い空間を走り、遠くから返球する。肩の強さを最大限使える。
捕手は、面白かった。
投手の一球一球を受けながら、次の一手を考える。まるでグラウンド全体を上から見ているような感覚があった。ゲームを組み立てる、という感触が、他のポジションとは根本的に違った。
どれも、やめたくなかった。
それが問題だった。
九
週末の紅白戦、剛志は捕手で出場した。
黒田の指示だった。
坂本がスタンドから見ていた。剛志はそれを知りながらミットをはめた。
初回、先発投手は三年生の右腕だった。緊張しているのが分かった。指先が定まっていなかった。剛志は構える位置を少し変えた。低め、真ん中。難しいコースを要求しなかった。投手が投げやすい場所だけを選った。
三者凡退だった。
二回、相手が一番を打ってきた。剛志はインコースを要求した。投手が頷いた。打者は詰まって、サードゴロ。
五回まで、剛志のリードで二失点だった。
試合後、坂本が剛志のところへ来た。
「配球、誰かに習ったか」
「いいえ」
「どこで覚えた」
「打者を見ていたら、なんとなく分かります」
坂本はしばらく剛志を見た。
それから、短く言った。
「明日、一緒に練習するか」
剛志は少し驚いて、頷いた。
十
夜のノートに書いた。
全部やりたいという気持ちは本物だ。でも「全部やりたい」と言葉にすることと、実際に全部やることは違う。
言葉は時に、気持ちより先走る。
監督は俺がどこで本物になるかを見ている。俺自身も、まだ分からない。
でも今日、捕手をやりながら思った。投手を見て、打者を見て、グラウンド全体を見る。それは野球を全部使っている感じがした。
ペンを置いた。
才能が多いことは、地図が何枚もあるようなものだと思った。どの道が正しいか分からない。全部の道が本物に見える。だから迷う。
でも迷うことと、間違えることは違う。
窓の外で虫が鳴いていた。夏が近づいていた。
グローブとミット、二つを並べて眺めた。
どちらも、本物だった。
── 中学校編・第2話・了 ──
才能が多いことは祝福だ。ただし、選ぶ勇気がある者にとってのみ。




