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新庄剛志物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学校編

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14/15

孤立の始まり ―― チームメイトの嫉妬



 五月の終わり、梅雨の前。

 博多の空が低くなり始めた頃、剛志はグラウンドで笑っていた。

 別に特別なことがあったわけではなかった。キャッチボールの最中、ボールが手を弾いてころころと転がり、それを追いかける格好がおかしくて笑った。ただそれだけだった。


 隣で練習していた同級生の田所が、その笑顔を見ていた。

 田所は入学当初から剛志と比べられていた。同じポジション志望の内野手。肩の強さでは剛志に及ばないが、守備の安定感では上だと言われていた。まじめな選手だった。 


 田所はその笑顔を見て、目を逸らした。

 何も言わなかった。グローブを叩いて、次の球を待った。

 それが始まりだった。 



 六月に入って、剛志を取り巻く空気が変わり始めた。

 変化は小さかった。練習中に声をかけられる回数が減った。昼食の席で、自然と隣が空くようになった。更衣室で誰かが話していても、剛志が入ると話が途切れた。 


 悪意のある無視ではなかった。

 もっと静かな、もっと根深い何かだった。

 剛志はその変化に気づいていた。気づいていないふりをしていたのではなく、どう対処すればいいか分からなかった。


 笑っていれば丸く収まる。子供の頃からそう思っていた。機嫌よくいれば、場の空気は悪くならない。それが剛志の経験則だった。

 だから練習中も、失敗しても、上手くいっても、剛志は笑っていた。

 それが逆効果だと、まだ知らなかった。



 水曜日の昼休み、剛志が廊下を歩いていると、曲がり角の向こうで声が聞こえた。

 野球部の二年生、二人の声だった。


「あいつ、また外野で勝手に動いたらしい」

「黒田さんに怒られても懲りないよな」

「懲りてないというか、分かってないんやろ」

「好き勝手やってるだけやん」

「実力があるから許されてると思ってんじゃないの」

「笑いながらやってるの一番腹立つわ。こっちは必死やのに」


 剛志は足を止めた。

 曲がり角の手前で、壁に背中をつけた。声は続いていた。


「同学年でもそういう空気やろ」

「田所とか、完全に心閉じてるやん」

「まあ、あれだけ差つけられたら」

「かわいそうに」


 声が遠ざかった。

 剛志はそのまま、しばらく動かなかった。廊下の窓から、曇り空が見えた。



 その日の練習、剛志は笑わなかった。

 笑うまいと意識したわけではなかった。ただ、朝の廊下の声が頭に残って、自然に顔が固くなった。

 打撃練習で柵越えを打っても、黙ってベンチへ戻った。守備練習でいい動きをしても、特に何も言わなかった。

 それを見た同級生の一人が、帰り際に言った。


「今日、どうしたん。らしくないやん」

「別に」

「なんか怒ってる?」

「怒ってない」

「ならいつもみたいに笑えばいいやん。笑ってる方が剛志らしいよ」


 剛志は何も言えなかった。


 笑っていると腹立つと言われた。笑っていないと「らしくない」と言われた。

 どちらが正しいのかではなく、どちらでも何かが正しくないのだと、剛志は思った。



 田所に話しかけたのは、その翌日だった。

 放課後、田所が一人でグラウンドの隅でゴロ捕りの練習をしていた。壁に向かってボールを投げ、跳ね返りを捌く、一人でできる練習だった。

 剛志は近づいた。 


「一緒にやっていいか」


 田所は手を止めた。振り返って、剛志を見た。警戒しているわけではなかった。ただ、意外そうだった。


「別に構わんけど」


 二人で並んで壁当てをした。しばらく無言だった。


「俺、お前に何かしたか」


 田所の手が一瞬、止まった。


「何もしてない」

「空気が変わった気がするから」

「気のせいやろ」

「そうか」


 また沈黙が続いた。

 田所がボールを捕って、投げずに持ったまま言った。


「何もされてないよ。ただ」

「ただ?」

「俺が勝手に、しんどいだけや」



 田所はボールを壁に投げた。


「お前と同じポジション志望で、お前と同じ練習して、差が開くばっかりや。お前は楽しそうにやってて、俺は必死にやっても追いつかない」


 剛志は黙って聞いた。


「お前のことが嫌いなわけやない。むしろ、お前のこと嫌いやったら楽やのに、と思う。嫌いになれたら、比べなくて済む」

「……そうか」

「お前には関係ない話や。俺が勝手にしんどいだけやから」

「関係ないことはない」


 田所が振り返った。

 剛志は壁を見たまま言った。 


「俺が楽しそうにしてるのが腹立つって、他の人も思ってる。俺は楽しいから笑う。それだけのことやけど、それが誰かをしんどくさせてるなら、俺のせいやとは言えんけど、無関係でもない」


 田所は何も言わなかった。


「でも、楽しいのを隠すのも違う気がする。俺にはまだ、答えが出てない」


 正直に言った。

 田所はしばらく剛志を見て、それから小さく笑った。初めて見る笑顔だった。


「お前、正直やな」

「それしかできん」

「……まあ、それはいいことやと思う」



 その夜、リナが剛志の部屋に来た。

 いつものように、黙って隣に座った。

 剛志は天井を見ていた。


「なんか、しんどいね」


 リナが言った。


「なんで分かるの」

「顔が違う」


 剛志は天井を見たまま言った。


「笑ってると腹立つって言われた。でも笑うのが俺やし、笑うのやめたら俺やなくなる気がする」


 リナは黙って聞いた。


「チームにいるのに、なんか一人な感じがする。小学校のときはそんなことなかったのに」

「小学校のとき、お前は一番じゃなかったから」


 剛志が振り返った。


「今は一番やろ。一番は、孤独なんよ」

「孤独でいたくない」

「そうやね」


 リナは少し間を置いた。

 それから、静かに言った。


「ファファン、あなたはあなたのままでいい」



「あなたのままでいい、って、それだけ?」

「それだけ」

「笑ってて誰かがしんどくなっても?」

「あなたが笑わなくなっても、その人はしんどいよ。原因はあなたの笑顔やなくて、その人の中にある」


 剛志は黙った。


「でも、その人の気持ちは大切にしたい」

「大切にできる。あなたのままで」

「どうやって」


 リナはしばらく考えた。

 窓の外で雨が降り始めた音がした。梅雨が来ていた。


「私の村にね、こういう考え方がある。太陽は全員に同じように光を当てる。でも花になる種もあれば、日陰を好む草もある。太陽が悪いわけやない。草が悪いわけでもない。ただ、太陽は光り方を変えなくていい」


 剛志はその言葉を、すぐには返さなかった。


「俺が太陽ってこと?」


「そうやないよ」リナは少し笑った。「あなたはまだ、太陽になる前の、ちょっと眩しい朝日くらいやろ」


 剛志は少し、口の端が上がった。

 五月ぶりくらいの、自然な笑顔だった。



 翌朝、正雄が珍しく声をかけてきた。

 朝食を食べている剛志の横に座り、新聞を開きながら言った。


「最近、覇気がないな」

「そうか」

「チームか」

「まあ」


 正雄は新聞から目を上げなかった。


「プロでも同じことがある」

「うん」

「才能がある奴は最初に孤立する。それが普通や」

「それは慰めになってない」

「慰めとるんやない、事実を言っとる」


 正雄は新聞を一枚めくった。


「孤立した奴がどうなるか、二通りある。潰れるか、もっと強くなるかや。お前はどっちになりたいんや」


 剛志は味噌汁を飲みながら答えた。


「強くなる方」

「なら今やることは一つや」

「グラウンドで示す」


 正雄は何も言わなかった。

 言わなかったが、新聞の陰で、口の端が少し動いた。

 リナだけがそれを見ていた。



 その日の練習、剛志は笑っていた。

 いつも通り笑っていた。

 ただ一つだけ、変えたことがあった。

 自分が笑うとき、周りも一緒に笑えるか、一瞬だけ確認した。

 一瞬だけでよかった。大きく変える必要はなかった。ただその一瞬が、これまでになかった一瞬だった。

 田所がいい動きをしたとき、剛志は言った。


「今の、めっちゃよかった」


 田所は少し驚いた顔をして、それから「そうか」と言った。

 短かった。でも確かに、何かが届いた。

 練習が終わって、帰り道。

 剛志は空を見上げた。梅雨の雲が低く垂れていたが、その切れ間から夕焼けが少しだけ見えた。

 孤独は消えていなかった。

 でも昨日より、少しだけ軽かった。

 それで十分だと思った。今日は。


── 中学校編・第4話・了 ──


孤独は才能の影だ。光が強いほど、影は濃くなる。だが影は、光がなければ生まれない。

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