孤立の始まり ―― チームメイトの嫉妬
一
五月の終わり、梅雨の前。
博多の空が低くなり始めた頃、剛志はグラウンドで笑っていた。
別に特別なことがあったわけではなかった。キャッチボールの最中、ボールが手を弾いてころころと転がり、それを追いかける格好がおかしくて笑った。ただそれだけだった。
隣で練習していた同級生の田所が、その笑顔を見ていた。
田所は入学当初から剛志と比べられていた。同じポジション志望の内野手。肩の強さでは剛志に及ばないが、守備の安定感では上だと言われていた。まじめな選手だった。
田所はその笑顔を見て、目を逸らした。
何も言わなかった。グローブを叩いて、次の球を待った。
それが始まりだった。
二
六月に入って、剛志を取り巻く空気が変わり始めた。
変化は小さかった。練習中に声をかけられる回数が減った。昼食の席で、自然と隣が空くようになった。更衣室で誰かが話していても、剛志が入ると話が途切れた。
悪意のある無視ではなかった。
もっと静かな、もっと根深い何かだった。
剛志はその変化に気づいていた。気づいていないふりをしていたのではなく、どう対処すればいいか分からなかった。
笑っていれば丸く収まる。子供の頃からそう思っていた。機嫌よくいれば、場の空気は悪くならない。それが剛志の経験則だった。
だから練習中も、失敗しても、上手くいっても、剛志は笑っていた。
それが逆効果だと、まだ知らなかった。
三
水曜日の昼休み、剛志が廊下を歩いていると、曲がり角の向こうで声が聞こえた。
野球部の二年生、二人の声だった。
「あいつ、また外野で勝手に動いたらしい」
「黒田さんに怒られても懲りないよな」
「懲りてないというか、分かってないんやろ」
「好き勝手やってるだけやん」
「実力があるから許されてると思ってんじゃないの」
「笑いながらやってるの一番腹立つわ。こっちは必死やのに」
剛志は足を止めた。
曲がり角の手前で、壁に背中をつけた。声は続いていた。
「同学年でもそういう空気やろ」
「田所とか、完全に心閉じてるやん」
「まあ、あれだけ差つけられたら」
「かわいそうに」
声が遠ざかった。
剛志はそのまま、しばらく動かなかった。廊下の窓から、曇り空が見えた。
四
その日の練習、剛志は笑わなかった。
笑うまいと意識したわけではなかった。ただ、朝の廊下の声が頭に残って、自然に顔が固くなった。
打撃練習で柵越えを打っても、黙ってベンチへ戻った。守備練習でいい動きをしても、特に何も言わなかった。
それを見た同級生の一人が、帰り際に言った。
「今日、どうしたん。らしくないやん」
「別に」
「なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「ならいつもみたいに笑えばいいやん。笑ってる方が剛志らしいよ」
剛志は何も言えなかった。
笑っていると腹立つと言われた。笑っていないと「らしくない」と言われた。
どちらが正しいのかではなく、どちらでも何かが正しくないのだと、剛志は思った。
五
田所に話しかけたのは、その翌日だった。
放課後、田所が一人でグラウンドの隅でゴロ捕りの練習をしていた。壁に向かってボールを投げ、跳ね返りを捌く、一人でできる練習だった。
剛志は近づいた。
「一緒にやっていいか」
田所は手を止めた。振り返って、剛志を見た。警戒しているわけではなかった。ただ、意外そうだった。
「別に構わんけど」
二人で並んで壁当てをした。しばらく無言だった。
「俺、お前に何かしたか」
田所の手が一瞬、止まった。
「何もしてない」
「空気が変わった気がするから」
「気のせいやろ」
「そうか」
また沈黙が続いた。
田所がボールを捕って、投げずに持ったまま言った。
「何もされてないよ。ただ」
「ただ?」
「俺が勝手に、しんどいだけや」
六
田所はボールを壁に投げた。
「お前と同じポジション志望で、お前と同じ練習して、差が開くばっかりや。お前は楽しそうにやってて、俺は必死にやっても追いつかない」
剛志は黙って聞いた。
「お前のことが嫌いなわけやない。むしろ、お前のこと嫌いやったら楽やのに、と思う。嫌いになれたら、比べなくて済む」
「……そうか」
「お前には関係ない話や。俺が勝手にしんどいだけやから」
「関係ないことはない」
田所が振り返った。
剛志は壁を見たまま言った。
「俺が楽しそうにしてるのが腹立つって、他の人も思ってる。俺は楽しいから笑う。それだけのことやけど、それが誰かをしんどくさせてるなら、俺のせいやとは言えんけど、無関係でもない」
田所は何も言わなかった。
「でも、楽しいのを隠すのも違う気がする。俺にはまだ、答えが出てない」
正直に言った。
田所はしばらく剛志を見て、それから小さく笑った。初めて見る笑顔だった。
「お前、正直やな」
「それしかできん」
「……まあ、それはいいことやと思う」
七
その夜、リナが剛志の部屋に来た。
いつものように、黙って隣に座った。
剛志は天井を見ていた。
「なんか、しんどいね」
リナが言った。
「なんで分かるの」
「顔が違う」
剛志は天井を見たまま言った。
「笑ってると腹立つって言われた。でも笑うのが俺やし、笑うのやめたら俺やなくなる気がする」
リナは黙って聞いた。
「チームにいるのに、なんか一人な感じがする。小学校のときはそんなことなかったのに」
「小学校のとき、お前は一番じゃなかったから」
剛志が振り返った。
「今は一番やろ。一番は、孤独なんよ」
「孤独でいたくない」
「そうやね」
リナは少し間を置いた。
それから、静かに言った。
「ファファン、あなたはあなたのままでいい」
八
「あなたのままでいい、って、それだけ?」
「それだけ」
「笑ってて誰かがしんどくなっても?」
「あなたが笑わなくなっても、その人はしんどいよ。原因はあなたの笑顔やなくて、その人の中にある」
剛志は黙った。
「でも、その人の気持ちは大切にしたい」
「大切にできる。あなたのままで」
「どうやって」
リナはしばらく考えた。
窓の外で雨が降り始めた音がした。梅雨が来ていた。
「私の村にね、こういう考え方がある。太陽は全員に同じように光を当てる。でも花になる種もあれば、日陰を好む草もある。太陽が悪いわけやない。草が悪いわけでもない。ただ、太陽は光り方を変えなくていい」
剛志はその言葉を、すぐには返さなかった。
「俺が太陽ってこと?」
「そうやないよ」リナは少し笑った。「あなたはまだ、太陽になる前の、ちょっと眩しい朝日くらいやろ」
剛志は少し、口の端が上がった。
五月ぶりくらいの、自然な笑顔だった。
九
翌朝、正雄が珍しく声をかけてきた。
朝食を食べている剛志の横に座り、新聞を開きながら言った。
「最近、覇気がないな」
「そうか」
「チームか」
「まあ」
正雄は新聞から目を上げなかった。
「プロでも同じことがある」
「うん」
「才能がある奴は最初に孤立する。それが普通や」
「それは慰めになってない」
「慰めとるんやない、事実を言っとる」
正雄は新聞を一枚めくった。
「孤立した奴がどうなるか、二通りある。潰れるか、もっと強くなるかや。お前はどっちになりたいんや」
剛志は味噌汁を飲みながら答えた。
「強くなる方」
「なら今やることは一つや」
「グラウンドで示す」
正雄は何も言わなかった。
言わなかったが、新聞の陰で、口の端が少し動いた。
リナだけがそれを見ていた。
十
その日の練習、剛志は笑っていた。
いつも通り笑っていた。
ただ一つだけ、変えたことがあった。
自分が笑うとき、周りも一緒に笑えるか、一瞬だけ確認した。
一瞬だけでよかった。大きく変える必要はなかった。ただその一瞬が、これまでになかった一瞬だった。
田所がいい動きをしたとき、剛志は言った。
「今の、めっちゃよかった」
田所は少し驚いた顔をして、それから「そうか」と言った。
短かった。でも確かに、何かが届いた。
練習が終わって、帰り道。
剛志は空を見上げた。梅雨の雲が低く垂れていたが、その切れ間から夕焼けが少しだけ見えた。
孤独は消えていなかった。
でも昨日より、少しだけ軽かった。
それで十分だと思った。今日は。
── 中学校編・第4話・了 ──
孤独は才能の影だ。光が強いほど、影は濃くなる。だが影は、光がなければ生まれない。




