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帝国の至宝

白銀の世界に、奇跡の春が定着しようとしていた。

 ギルフォード帝国、辺境領。かつて「死の荒野」と呼ばれたその土地は、今やエレナが開発した常春の結界魔道具『アエテルヌス』によって、柔らかく暖かい光のヴェールに包まれている。

「……信じられない。本当に、雪の中で小麦が芽吹いている」

 アルベルト閣下は、自身の領地を視察しながら、信じられないものを見るように地面を見つめていた。

 通常、帝国の冬は厳しく、作物の栽培など不可能だ。しかし、エレナが設置した魔道具から放たれる微細な魔力波は、大地の底に眠る熱を呼び覚まし、植物の成長を劇的に促進させていた。

「閣下、見てください。あちらにはハーブの苗も植えてみたんです。春になったら、とても良い香りが領内に広がると思いますわ」

 エレナが、アルベルト閣下の腕にそっと手を添えて、嬉しそうに微笑む。

 かつての「陰気姫」の面影は、もうどこにもない。

 呪いの重圧から解放された彼女の魔力は、彼女自身の細胞一つひとつを活性化させ、その美貌を神格化させていた。プラチナブロンドの髪は陽光を弾いて七色に輝き、瑠璃色の瞳は知性と慈愛に満ちている。

「エレナ……。君は本当に、この国の、いや、私の命の恩人だ。君が来てからというもの、領民たちの生活は一変した。……それ以上に、私自身の心も、君によって救われたのだ」

 アルベルト閣下は、エレナの手を優しく握り返すと、その美しい氷色の瞳に深い情熱を宿して彼女を見つめた。

 冷徹と恐れられた公爵は、今やエレナを一瞬たりとも視界から外したくないというほど、彼女を深く、激しく溺愛していた。

「私は決めた。エレナ、君をただの魔導顧問としてではなく、正式に私の『公爵夫人』として迎えたい。……君のこれまでの苦労を、私が一生をかけて、最高の幸福へと塗り替えてみせると誓おう」

「閣下……」

 エレナの瞳に、じわりと涙が浮かぶ。

 これまで誰にも必要とされず、ただ「避雷針」として使い潰されるだけだと思っていた人生。

 その人生が、今、この誇り高い男性によって、最高の形で祝福されようとしている。

 エレナが「はい、喜んで……」と答えようとした、その時だった。

「――閣下! 申し訳ありません、至急の報告です!」

 一人の帝国騎士が、馬を飛ばして駆け込んできた。

「エルランド王国の第一騎士団長、レオン・バルドールを名乗る男が、数名の従者を連れて国境の検問所に現れました! 『帝国に奪われた俺の婚約者を返せ』と喚き散らし、武力行使も辞さない構えです!」

 その報告を聞いた瞬間、アルベルト閣下の表情から温かな色が消え、凍てつくような冷徹な「氷の公爵」の顔へと戻った。

「奪った、だと?……ふっ、寝言は寝てから言うものだ」

 アルベルト閣下はエレナの肩を抱き寄せ、守るように引き寄せた。

「エレナ、安心しろ。あの愚か者に君の指先一本触れさせはしない。……だが、せっかくだ。君を捨てた者たちが、今どのような無様な姿になっているか、その目で確かめてみるか?」

 エレナは静かに頷いた。

 逃げる必要などない。今の自分には、信じてくれる仲間と、何より自分自身の「真の力」があるのだから。

 一方、国境の検問所。

 そこにいたのは、もはや「英雄」とは呼べないほどに没落した、一塊の肉の塊のような男だった。

「ハァ、ハァ……出せ! エレナを出せ! あいつは俺の、俺のモノだ!」

 レオン・バルドールは、くすんだ甲冑を引きずりながら、検問所の兵士たちに怒鳴り散らしていた。

 髪はボサボサに汚れ、瞳は血走り、口元からは絶えずよだれが垂れている。魔剣『グラム』から放たれる精神汚染の呪いは、すでに彼の脳の半分を破壊し、まともな判断力を奪っていた。

 彼の背後に控える数名の騎士たちも、同様に悲惨な姿だった。

 呪いで手足が麻痺し、馬の背にしがみつくのが精一杯。かつての精鋭の面影など微塵もない。

「騎士団長殿、お静かに! ここは帝国の領土です!」

「うるさいうるさいうるさい! エレナさえいれば……あいつが俺の代わりにこの痛みを吸い取ってくれさえすれば、俺はまた最強に戻れるんだ! あいつは俺を愛している! 俺が『戻れ』と言えば、喜んで俺の足元に跪くんだ!」

 レオンは狂ったように笑いながら、魔剣を抜こうとした。

 だが、その瞬間。

 ――ズドォォォォォォォォンッ!!!

 空気を切り裂くような凄まじい魔力の波動が、検問所全体を包み込んだ。

 あまりの重圧に、レオンの背後の騎士たちは馬から転げ落ち、レオン自身も膝を突いて地面に這いつくばった。

「な、なんだ……この圧倒的な魔力は……!? エルランド王国の宮廷魔導士ですら、これほどの魔法は使えんはず……!」

 雪煙の向こうから、一台の豪奢な馬車が静かに現れた。

 馬車の扉が開くと、そこから真っ白な毛皮のコートをまとった、一人の女性が降り立つ。

 プラチナブロンドの髪が太陽に透け、瑠璃色の瞳が冷ややかにレオンを見下ろす。

 

「……久しぶりですね、レオン様。いえ、もう私とは関係のない方でしたか」

「え、エ……レナ……?」

 レオンは、目の前の女性が誰であるか、一瞬理解できなかった。

 あまりにも、美しすぎる。

 かつての、煤に汚れ、隈に沈んだ「陰気な女」の面影が、一点の曇りもない宝石のような輝きへと進化していた。

「な、なんだその姿は……! まるで、本物の聖女のような……。ああ、そうだ! やっぱりお前は、俺のためにその力を隠していたんだな!」

 レオンは、這いつくばったまま、狂喜に顔を歪めた。

「エレナ! よく聞け! 俺は寛大だ。お前が帝国にたぶらかされたことは不問にしてやる! だから今すぐ俺の元に戻ってこい! そして、俺のこの身体の痛み、騎士団の呪い、王宮の瘴気……すべてを、以前のように吸い取れ! お前の役目はそれだろ!? 早くしろ!」

 エレナは、その言葉を聞いて、可笑しそうにクスリと笑った。

 それは慈悲の笑みではなく、愚かな存在への、心からの憐れみの笑いだった。

「レオン様。まだ、そんな夢を見ていらっしゃるのですか? ……私が、なぜあんなにボロボロになっていたか、本当に理解していなかったのですね」

 エレナは一歩、レオンへと歩み寄った。

 彼女の身体から溢れ出す清らかな魔力は、レオンがまとっているドロドロとした黒い呪いと反発し、パチパチと音を立てて火花を散らす。

「私があなたたちの呪いを引き受けていたのは、私が『無能』だったからではなく、私が『最強の避雷針』として、あなたたちという不燃ゴミをせめて人間に見せるために、泥を被っていただけです。……でも、もうその仕事は辞めました。今の私には、守るべき大切な人がいますから」

 エレナがそう言うと、馬車からもう一人、長身の男性が降りてきた。

 アルベルト・フォン・ギルフォード公爵。

 彼はエレナの腰に手を回し、レオンをゴミを見るような目で見下ろした。

「我が婚約者に、無様な姿を見せるな、エルランドの敗残兵。……君がエレナに強いてきた苦痛の代償、今この場で、その身で支払ってもらうぞ」

「こ、婚約者だと……!? ふざけるな! エレナは俺のモノだ! 返せ、エレナを俺に返せえええっ!」

 逆上したレオンが、狂気に任せて魔剣『グラム』を振り上げた。

 呪いの黒い雷が魔剣から噴き出し、エレナたちに向かって放たれる。

 だが、エレナは微動だにしなかった。

「――【神聖なる返却リターン・トゥ・オーナー】」

 エレナがそっと右手をかざすと、魔剣から放たれた黒い雷が、目に見えない鏡に当たったかのように、一瞬で、そして何倍もの威力となってレオンへと跳ね返った。

「ぎゃああああああああああああああああああああっ!!!」

 自身の呪いに焼かれ、レオンは地面を転げ回った。

 魔剣『グラム』は真っ二つに砕け散り、そこから漏れ出た数十年分の怨念が、一斉に元の主であるレオンへと襲いかかる。

「いたい、いたいいたいいたい! 頭が、身体が、溶けるぅぅぅぅぅ!!」

 一方、王都エルランド。

 国境での惨劇を知る由もない王太子は、さらなる絶望に直面していた。

「報告します! ディザスター・ギガントが国境を突破! すでに第二都市まで三日の距離です! 防衛騎士団は瘴気の影響で全滅……っ! 王都の結界も、維持不可能です!」

「な……っ!? レオンは何をしている! エレナはまだ連れてこれないのか!?」

 王太子が叫ぶ中、王宮の地下から、ついに「それ」が噴き出した。

 

 これまでエレナが一人でせき止めてきた、王国の全呪具の瘴気。

 その総量は、もはや誰にも制御できない「呪いの洪水」となって、王宮全体を飲み込み始めたのだ。

「いやあああああああああ! 助けて、誰か助けてえええ!」

 聖女ミリアの悲鳴が響き渡るが、彼女の身体はすでに、呪斑に覆われ、醜い泥の塊のようになり果てていた。

 王国の滅亡が、今、秒読み段階に入った。

 そして。

 雪原の国境。

 自身の呪いに焼かれ、虫のように這いずり回るレオンを見つめながら、エレナは静かに、しかし決然と言い放った。

「レオン様。あなたが捨てたものは、ただの『お荷物』ではなく、この国の『未来』だったのですよ。……さようなら。もう二度と、私の前に現れないでください」

 エレナとアルベルトは、二度と後ろを振り返ることなく、光り輝く帝国の深部へと馬車を走らせるのだった。

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