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身勝手な妄想

白銀の荒野をわずか数分で瑞々しい緑の沃土へと変えてみせた「奇跡」。

 その噂は、ギルフォード帝国の北方に位置する辺境領だけでなく、あっという間に帝国全土、そして帝都の宮廷にまで届くこととなった。

 しかし、私にとってそれは「奇跡」などではなく、本来の魔力を少し解放しただけの、ごく当たり前の仕事に過ぎなかった。

 

「――うーん、やっぱりこの術式だと、変換効率が少し落ちるわね」

 暖炉の薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜる、広々とした私室。

 私はアルベルト閣下に用意してもらった上質な羊皮紙に、羽ペンで複雑な魔方陣を書き込んでいた。

 

 呪いの束縛から解放された私の頭脳と魔力は、日を追うごとに冴え渡っている。

 かつては瘴気に当てられて常に頭痛がしていたけれど、今は視界も思考も驚くほどクリアだ。

 

 私が今作っているのは、辺境領の寒冷な気候を克服するための新しい魔道具の設計図だった。

 帝国の北方は、夏が極端に短く冬が長い。そのため、どれだけ土壌が肥沃になっても、日照時間と気温のせいで作物の種類が限られてしまう。

 

「なら、大地の魔力を熱に変換して、緩やかに領地全体を温める『結界魔道具』を作ればいいじゃない」

 エルランド王国では、呪具という「悪意の結晶」をどうにかして安全に処理することばかりを考えていた。

 けれど、あの最悪な環境で培った「負の魔力を正の魔力へ反転させる技術(逆変換術式)」を応用すれば、逆にどんな過酷な環境でも極上の楽園に変える魔道具を、いくらでも作り出すことができるのだ。

「エレナ、入っても良いか?」

 控えめなノックの音と共に、低く心地よい声が響いた。

 扉を開けて入ってきたのは、仕事用の黒い執務服をまとったアルベルト閣下だった。

 その端正な手には、湯気を立てる淹れたての紅茶と、可愛らしい焼き菓子が載った銀のトレイがある。

「アルベルト閣下! お忙しいのに、またご自分で持ってきてくださったのですか?」

「ああ。君の様子が気になってな。使用人に任せるよりも、私の手で君に温かいものを届けたかったんだ」

 アルベルト閣下は少しだけ視線を彷徨わせ、耳たぶを薄く赤くしながらトレイをテーブルに置いた。

 この「氷の公爵」と恐れられる男が、私のためだけにこうして給仕をしてくれる。その健気で不器用な優しさに、私の胸の奥がくすぐったいような甘い痛みを覚える。

「何を書いていたんだ?」

「ふふ、これを見てください。帝国の北方でも、一年に何度も作物を収穫できるようにするための『常春の結界アエテルヌス』の設計図です。領地中に配置された魔石と連動させて、温度と湿度を常に最適に保つことができるんですよ」

 私が楽しそうに説明すると、アルベルト閣下は設計図を手に取り、その氷色の瞳を大きく見開いた。

 彼は優秀な魔導戦士でもある。だからこそ、私の描いた術式がどれほど規格外で、歴史を覆すレベルの発明であるかが瞬時に理解できたのだろう。

「……信じられない。これほどの複雑な多重並列術式を、たった一人で、しかもこれほど短時間で書き上げたというのか? 宮廷の国家魔導士たちが総出で百年研究しても、これには届くまい」

「ええ? そうでしょうか。王宮の地下宝物庫にあった『暴食の魔釜』の呪いを解きほぐす術式に比べれば、このくらいは算数のパズルみたいなものですよ?」

 私が小首を傾げると、アルベルト閣下は深い溜息をつき、それから愛おしそうに私の頭を優しく撫でた。

 大きくて温かいその手が、私のプラチナブロンドの髪をそっと梳いていく。

「エレナ。君は本当に、自分の価値を分かっていないな。……いや、その無自覚なところが愛らしくもあるのだが。君が我が領に来てくれてから、領民たちの笑顔が目に見えて増えた。誰もが君を、暗闇を照らす『暁の女神』と呼んで崇めているんだ。もちろん……私にとっても、君は誰よりも輝かしい存在だ」

 まっすぐに見つめてくる、熱を帯びた氷色の瞳。

 

「あ、ありがとうございます、閣下……」

 私は赤くなる顔を隠すように、温かい紅茶に口をつけた。

 エルランド王国では、どれだけ命を削って呪いを抑え込んでも、誰からも感謝されず、ただ「不吉だ」「お荷物だ」と蔑まれるだけだった。

 なのに、この国では、この人の前では、私はただ「エレナ」としてまっとうに評価され、驚くほど大切に、甘やかされている。

 

 失ったものが大きければ大きいほど、今得ている温かさが身に染みて、私は「生きていて良かった」と心から思えるのだった。

 一方、そんな温かな光に包まれた帝国とは対照的に、エルランド王国の王都は、泥濘のような「絶望」の底へと急速に沈み込んでいた。

「ハァ、ハァ……くそっ! なぜ、なぜだ……!」

 薄暗い第一騎士団の執務室で、レオン・バルドールは、重い息を吐きながら書類を睨みつけていた。

 かつてのまばゆい黄金の甲冑はくすみ、何日も風呂に入っていない身体からは、じっとりとした嫌な汗の臭いが漂っている。

 目の前にあるのは、騎士たちの「大量退役願」の山だった。

「団長、もう限界です。身体が、まるで鉄を埋め込まれたように重くて動きません……」

「朝、起き上がろうとすると、全身に虫が這い回るような激痛が走るんです。これでは剣を握るどころか、歩くことすら……」

 昨日も、今日も、名だたる精鋭騎士たちが、涙を流しながらそう訴えて騎士団を去っていった。

 レオンは、激しい苛立ちのままに、退役願の紙束を掴んで床に叩きつけた。

「ふざけるな! 揃いも揃って怠け病か!? 俺たちの騎士団は、大陸最強と謳われたバルドール騎士団だぞ! こんな、ただの体調不良ごときで逃げ出すなど、騎士の風上にもおけん!」

 怒鳴り散らすレオンだが、彼自身が最も理解していた。

 ――自分自身の身体も、すでに限界を迎えているということを。

 腰に下げた国宝の魔剣『グラム』。

 かつては羽毛のように軽かったその剣が、今では持ち上げるだけで右腕の筋肉が悲鳴を上げ、全身から脂汗が噴き出す。

 それだけではない。最近では、夜眠ろうとすると、耳元で「お前を呪ってやる」「すべてを奪ってやる」という、かつて魔剣で切り伏せてきた魔獣や罪人たちの怨念の声が、幻聴となって絶え間なく響くのだ。

「う、うるさい! 消えろ、消え失せろ!」

 頭を抱えて叫ぶレオン。

 精神汚染の呪いは、じわじわと彼の理性を削り取っていた。

「レ、レオン様ぁ……」

 執務室のドアが開き、ミリアが這いずるようにして入ってきた。

 かつての「見習い聖女」の可憐な面影は、今や完全に消え去っていた。

 美しかったピンク色のドレスはボロボロに破れ、露出したデコルテや腕には、ドロドロとした黒い呪いの斑点――「黒死呪斑」がびっしりと浮かび上がっている。

 髪はパサパサに乾燥してまとまりがなく、顔色は土色に濁っていた。

「レオン様、お願いです……。神殿の、神殿の浄化室から、早く私を助け出してください……。あそこの瘴気、もう、私の光の魔法じゃ抑えきれないんです……。毎日、呪いのお湯を浴びせられているみたいで、身体が、身体が痛くて、死んじゃいそうですぅ……っ!」

 ミリアはレオンの足元にすがりつき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願した。

「うるさい! 近寄るな、この出来損ないの偽聖女が!」

 レオンは、かつてあんなに溺愛していたはずのミリアを、容赦なく足蹴にして蹴り飛ばした。

「お前が『私なら地下のガラクタの呪いなんて簡単に浄化できる』と大口を叩いたから、俺はエレナを追放したんだ! なのに、お前がやったことは何だ!? 地下の瘴気を暴走させ、王宮全体を腐らせ、俺の騎士団を崩壊させただけではないか! お前さえ、お前さえいなければ、俺は……っ!」

「な、何よそれ!?」

 蹴り飛ばされたミリアが、髪を振り乱し、般若のような恐ろしい形相でレオンを睨み返した。

「追放に賛成したのはレオン様じゃない! 『あんな陰気な無能女より、ミリアのほうが何百倍も価値がある』って、私を抱きしめながら言ったのはどこの誰よ!? 自分の無能を、私のせいにしないでよっ!」

「黙れえええっ!」

 二人の醜い罵り合いが、重苦しい執務室に響き渡る。

 

 かつてエレナを理不尽に虐げ、追放した二人は、今や互いを憎み、呪い合うだけの、醜い怪物へと成り下がっていた。

 そこへ、王太子の側近である宮廷魔導士が、顔を真っ青にして飛び込んできた。

「バルドール団長! 大変です! 北方の国境付近に、未だかつてない規模の超巨大魔獣『ディザスター・ギガント』が出現しました! すでに国境の砦が一つ、一瞬にして壊滅したとのことです!」

「な、何だと……!?」

 レオンが目を見開く。

 ディザスター・ギガント。それは、強力な『死の瘴気』を撒き散らしながら進軍し、一国を平気で滅ぼすと言われる伝説級の災厄獣だ。

「ど、どうするのだ! すぐに第一騎士団を出撃させろ!」

「む、無理です! 現在、まともに戦える騎士は二十人もいません! しかも、皆、呪いで身体が動かないのです! 宮廷魔導士たちも、地下の瘴気処理にかかりきりで、戦闘支援など……」

「クソがっ!」

 レオンは激しく拳を壁に叩きつけた。

 戦力は崩壊、自分自身の身体も呪いでボロボロ。こんな状態で、あの伝説級の魔獣と戦えるわけがない。出撃すれば、間違いなく全滅だ。

 だが、その時。

 レオンの濁った脳裏に、かつて王太子が放った「ある言葉」が、稲妻のように閃いた。

『あいつがまだお前を愛しているなら、お前が優しく抱きしめて「戻ってこい」と言えば、泣いて喜んで戻ってくるはずだ』

「……そうだ。そうだ、エレナだ!」

 レオンは、カチリと狂気の歯車が噛み合ったような、不気味な笑みを浮かべた。

「エレナを連れ戻せばいい! あいつの【解呪】の力なら、ディザスター・ギガントの死の瘴気など一瞬で無力化できる! あいつが俺たちの代わりにすべての呪いと疲労を吸い取ってくれれば、騎士団は今すぐにでも全盛期の力を取り戻せるんだ!」

「レ、レオン様……?」

 足元で倒れていたミリアが、その異常な様子に恐怖を覚え、後ずさりする。

「あいつは、俺を愛していた。何年も、どんなに冷たくされても、俺の婚約者として尽くし続けてきたんだ。少し頭を冷やしてやったのだから、俺が直々に『戻ることを許してやる』と言えば、涙を流して感謝し、俺の足元に這いつくばるに決まっている!」

 レオンは、狂乱した瞳にギラギラとした希望の光を宿し、愛剣『グラム』を無理やり引きずるようにして立ち上がった。

「馬車を用意しろ! 今すぐ帝国へ向かう! あの『俺の所有物エレナ』を、連れ戻しに行くぞ!」

 自らの身勝手な妄想に縋り付き、滅びゆく国から這い出そうとする哀れな元英雄。

 彼が向かう先に待っているのが、さらなる絶望の深淵であることなど、狂った彼の頭では、もう一生理解できないのだった。

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