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気づきと後悔

馬車を降りた私の足元に広がっていたのは、見渡す限りの「死の世界」だった。

 ギルフォード帝国の北端に位置するこの領地は、かつての大戦の折、敵国によって強力な枯渇と死を呼ぶ「土地汚染の呪い」をかけられた場所だ。

 土は赤黒くひび割れ、草木は炭のように黒ずんで枯れ果てている。空気は冷たく凍てついているだけでなく、吸い込むだけで肺がピリピリと痛むような、微量な瘴気が漂っていた。

「ここだ、エレナ」

 アルベルト閣下が、黒い毛皮の外套を揺らしながら私の隣に立った。

「帝国の高名な魔導士たちを何人も呼んで浄化を試みさせたが、誰一人としてこの大地にこびりついた呪いを取り除くことはできなかった。今では氷雪の魔獣が徘徊するだけの、不毛の死地だ。……どう思う?」

 私は、そっとしゃがみ込み、ひび割れた赤黒い土に手を触れた。

 土の奥底から、ねっとりとした邪悪な悪意――「すべてを拒絶し、枯らせ」という呪いの術式が、私の指先を通じて伝わってくる。

「……確かに、根深い呪いですね。まるで何重もの鎖で、大地の息の根を止めているかのようです」

「やはり、難しいか? 無理を強いるつもりはない。君の身に危険が及ぶなら、今すぐ引き返そう」

 アルベルト閣下が、心底私を心配するように氷色の瞳を揺らした。

 その優しさに、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。エルランド王国の連中なら、私に「早くやれ」「無能」と怒鳴り散らしていただろうに。

「いいえ、閣下。心配してくださってありがとうございます。でも……本当に大丈夫ですよ」

 私は立ち上がり、ふわりと微笑んだ。

「この程度の呪い、私が今まで王宮の地下で毎日抑え込んでいた『国家崩壊級』の呪具たちに比べれば、ただの愛らしい悪戯のようなものですわ」

 そう。王宮の地下宝物庫には、触れるだけで一国を滅ぼすような凶悪な呪具がゴロゴロ転がっていた。それに比べれば、広く拡散して薄まっているこの大地の呪いなど、私にとっては造作もないことだ。

 私は両手をそっと広げ、手袋を外した。

 そして、胸の奥にある、かつて指輪によって限界まで押さえつけられていた本来の魔力を、静かに、しかし一気に解放する。

「――光よ、すべてを本来の姿へ(ディスペル・アンサラー)」

 私の唇から、呪文が紡ぎ出されたその瞬間。

 ――ゴオオオオオオオオオオッ!!!

 大地が、空気が、世界が激しく震動した。

 私の身体から放たれたのは、濁りのない、透き通るような白銀の光。

 その光の波動は、まるで荒れ狂う津波のように、一瞬にして赤黒い荒野の果てまで広がっていった。

「な……っ!?」

 背後で、アルベルト閣下が驚愕に息を呑む音が聞こえた。

 護衛の帝国騎士たちも、あまりの光の強さに腕で目を覆いながら、「おい、なんだこの魔力量は……!?」と驚きに声を震わせている。

 白銀の光が、ひび割れた黒い土に染み込んでいく。

 光が触れた場所から、ジュウジュウと黒い煙を上げて、何百年も大地を縛り付けていた怨念の呪いが霧散していく。

 それだけではない。

 呪いが消え去った土は、見る見るうちに湿り気を帯び、肥沃な黄金色の土壌へと生まれ変わっていく。

 さらに、信じられない光景が広がった。

 凍てついた雪を押し退けるようにして、大地の底から、緑の芽が一斉に吹き出したのだ。

 芽はみるみるうちに成長し、青々とした若草の絨毯を作り上げ、さらには白や黄色の小さな野生の花々が、一瞬にして荒野全体に咲き乱れていく。

 年中、雪と氷に閉ざされていたはずの死地が、ほんの数十秒の間に、春の息吹を感じさせる美しい緑の楽園へと変貌を遂げたのだ。

「……ふぅ」

 私は静かに息を吐き、魔力を収めた。

 どこまでも澄んだ、花の香りが混ざった甘い風が、私のプラチナブロンドの髪をそよがせる。

「いかがでしょうか、アルベルト閣下? これで、今年の春には美味しい小麦が育つと思いますわ」

 私が振り返り、首を傾げて微笑みかける。

 アルベルト閣下は、咲き誇る花々の中に立つ私を、まるで本物の女神を見るかのような呆然とした目で見つめていた。

 彼はゆっくりと歩み寄り、私の手を取ると、その端正な顔をこれまでにないほど熱く紅潮させて言った。

「……奇跡だ。君は、我が領地に、いや、この帝国に富をもたらす、本物の『聖女』だ。……エレナ、君を追放したあの国は、自らの手で国宝を捨て去ったのだと、今に思い知ることになるだろう」

 アルベルト閣下の力強い言葉に、私の胸はスカッとするような高鳴りを覚えていた。

 その頃。

 エレナという名の「最強の避雷針」を失ったエルランド王国の王宮は、まさに地獄絵図と化していた。

「ひ、ひいいいっ! 寄るな、あっちへ行け! 悪魔め、俺を呪うなあああ!」

 第一騎士団長室。

 レオン・バルドールは、部屋の隅で頭を抱え、ガタガタと激しく震えていた。

 かつての自信に満ちた精悍な面影はどこにもない。

 目の下には真っ黒な隈が刻まれ、頬はこけ、人擦れした狂気の光を宿した瞳が、何もない空間を怯えたように見つめている。

「レ、レオン様……。しっかりしてください、レオン様……!」

 彼の傍らで、ミリアが泣きながら彼の肩に手を置こうとした。

 だが、ミリアの姿もまた、悲惨極まりないものだった。

 自慢だった可憐なピンク色のドレスは、地下の瘴気で泥水のように汚れ、何より、その白く美しかった肌のあちこちに、ドロドロとした黒い湿疹――「瘴気汚染の呪斑」が浮かび上がっていた。

 かつての「聖女」の神々しさは消え失せ、今や見る影もなく落ちぶれている。

「触るなあああっ!」

 レオンは狂乱したようにミリアの手を振り払った。

「お前のせいだ! お前が『癒しの聖女』だというから、あのエレナを追い出したのに! お前の魔法、全く効かないじゃないか! 俺の魔剣の呪いも、騎士たちの体調不良も、地下の瘴気も、何一つ解決できない無能がっ!」

「な、何よそれ!? 私は頼まれてレオン様を癒やしてあげていただけよ! そもそも、あの地下の不気味なゴミ掃除なんて、私の仕事じゃないわ! 全部、あのエレナとかいう陰気女がちゃんと掃除をしていかなかったのが悪いのよ!」

 二人は醜く怒鳴り合い、擦り付け合いを続けていた。

 王宮の地下から溢れ出た国家級呪具の瘴気は、すでに王宮の居住エリアを完全に侵食していた。

 王宮で働く使用人たちの半分は、瘴気による体調不良で寝込み、まともな食事すら作れない。

 さらに最悪なのは第一騎士団だ。

 日々、魔剣の呪いや戦闘の疲労を肩代わりしてくれていたエレナがいなくなったことで、騎士たちの肉体は限界を迎えていた。

 簡単な訓練をしただけで骨折し、傷口は化膿して塞がらない。

 現在、騎士団の動員可能人数は、エレナがいた頃の「二割以下」にまで急落していた。

「おい、バルドール団長! どういうことだ!」

 そこへ、怒り心頭の王太子が部屋の扉を荒々しく蹴り開けて入ってきた。

「我が国の国防の要である第一騎士団が、なぜこれほどまでに弱体化している!? 隣国との国境警備すらまともに機能していないではないか! 宮廷魔導士たちも、地下の瘴気のせいで使い物にならん!」

「は、殿下……! そ、それについては、現在、聖女ミリアが全力で対処しておりまして……」

「嘘を言うな! その聖女とやらのせいで、地下の結界はさらに暴走し、王宮全体が腐臭で満ちているではないか! ……おい、魔導顧問が面白い報告を持ってきたぞ」

 王太子は、冷酷な目でレオンとミリアを見下ろした。

「エヴァルト伯爵家が代々行っていたのは、ただの『呪具のガラクタ掃除』などではない。国中の、そして騎士団の『すべての呪いと毒』を、エレナという一人の女がすべてその身に吸い寄せ、無力化していたのだと。彼女こそが、この国の安全を保つための『最強の避雷針』だったのだと!」

「な……っ!?」

 レオンが目を見開いた。

 

「そんな……あの無能なエレナが、そんな大層なことをしていたはずが……。あいつはただ、地下で遊んでいただけの陰気な女で……」

「馬鹿者が! 現に彼女がいなくなった瞬間、このザマではないか!」

 王太子は激しく机を叩いた。

「このままでは、我が国は魔獣の氾濫を待たずして、内側から呪いで崩壊する! レオン、お前が仕出かした不始末だ。お前が責任を持って、今すぐエレナを連れ戻してこい!」

「え……? お、俺が、あいつを……?」

「そうだ。あいつがまだお前を愛しているなら、騎士団長であるお前が優しく抱きしめて『戻ってこい』と言えば、泣いて喜んで戻ってくるはずだ。戻ってきたら、また地下の宝物庫に閉じ込め、この王宮のすべての呪いを吸い取らせればいい!」

 王太子のその勝手極まりない提案に、レオンの瞳に、歪な「希望」の光が宿った。

「そ、そうです……! あいつは、俺の婚約者だった。あいつは俺に惚れていたんだ! 俺が直々に迎えに行ってやれば、あいつは這いつくばって喜ぶに違いない!」

 レオンは立ち上がり、狂気混じりの笑みを浮かべた。

 エレナがどれほどの絶望と怒りを抱いてこの国を去ったのか、そして今の自分がどれほど無様な姿になっているのか。

 彼らは未だに、何も理解していなかった。

 隣国で、エレナが氷の公爵にどれほど深く愛され、溺愛されているかということも――。

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