静かな旅立ち
私が大舞踏会の重厚な扉を押し開け、夜の静寂へと踏み出した時、背後から追いかけてくる足音は一つもなかった。
ホールの中では、未だにレオンやミリア、そして愚かな貴族たちが、私という「お荷物」を追い出したことに酔いしれて笑い声を上げているのだろう。
夜風が、私のプラチナブロンドの髪を優しく揺らす。
それは、先ほどまで煤に塗れ、くすんでいたはずの髪だった。
触れてみると、驚くほど滑らかで、まるで上質なシルクのような手触りだ。
私は、馬車留めに停めてあったエヴァルト伯爵家の簡素な馬車へと乗り込んだ。
御者の老いた馭者、トムが、私の姿を見て目を丸くする。
「お、お嬢様……? 一体、そのお姿は……?」
「トム、驚かせてごめんなさい。でも、もう大丈夫。……エヴァルト伯爵邸へ戻って。今夜中に、この国を出るわ」
「えっ!? 国を出る、とは……?」
「レオン様に婚約を破棄され、国外追放を言い渡されたの。……私の、自業自得ではないから、安心して」
私が静かに微笑むと、トムはそれ以上何も聞かず、ただ悲痛な表情で「畏まりました」と深く頭を下げ、馬車を走らせた。
揺れる馬車のシートに深く背を預けながら、私はドレスのポケットから、先ほど外した漆黒の指輪――『封魔の軛』を取り出し、月光に透かした。
エヴァルト伯爵家が代々担ってきた「呪具管理」という役目。
世間は、それをただの「呪いのガラクタの掃除番」だと思い込んでいる。
だが、その本質は全く違う。
このエルランド王国は、かつての建国戦争において、数多くの呪術や呪具を敵国から奪い、それを自国の防衛力として組み込むことで栄えてきた。
しかし、呪具は使えば使うほど、あるいはただそこに存在するだけで、周囲に強烈な「瘴気」と「汚染」を撒き散らす。
その瘴気を放置すれば、王宮は一ヶ月と持たずに地獄の釜と化し、人々は発狂し、枯死するだろう。
だからこそ、私の先祖たちは、その「国中の呪い」を一人で引き受け、浄化し続ける『器』――避雷針となることを王家と契約したのだ。
私、エレナ・エヴァルトは、生まれつき規格外の【解呪・封魔】の魔力を持っていた。
私の魔力は、触れるだけであらゆる呪いを無力化し、無害な魔力へと変換することができる。
しかし、私がその力をそのまま使えば、国中の呪具がすべてただの「無害なガラクタ」に戻ってしまう。防衛力としての呪具を失いたくない王家は、私の実家であるエヴァルト家にこう命じた。
『呪具の力は残したまま、そこから漏れ出る瘴気と汚染だけを、エレナの身体に引き寄せて封じ込めろ』
そのために作られたのが、この指輪だ。
この指輪を嵌めている間、私の【解呪】の魔力は極限まで抑え込まれる。
その代わりに、私の身体は「国中のすべての呪いを吸い寄せ、自分の中に留めるだけの器」と化す。
だから、私の髪は瘴気に焼かれて煤け、肌は荒れ、身体は常に鉛のように重かった。
それだけではない。
第一騎士団長であるレオンが、呪いの魔剣を狂うことなく振り回せていたのも、私が彼の剣から発せられる精神汚染の呪いを、この指輪を通じて私の身にすべて吸い上げていたからだ。
騎士たちが過酷な戦場でも健康を保てていたのも、私が彼らの身代わりとなって「疲労と負傷の呪い」を肩代わりしていたから。
『あいつが近くにいると、身体が異様に重くなる』
レオンは私にそう言った。
当たり前だ。私は彼らの呪いをその身に限界まで溜め込んだ「超高濃度の呪いの塊」になっていたのだから。
彼らが健やかに、英雄として輝くために、私は一人で泥を被り、汚物として扱われる日々を耐えてきた。
それなのに。
レオンは、私のその献身を「呪いを用いた企て」と罵り、ミリアという新参の見習い聖女の「小手先の癒やし」に目を奪われ、私を追放した。
「ふふ……本当に、馬鹿な人たち」
月光を浴びる指輪を、私はそっとベルベットのケースへと仕舞った。
指輪を外した今、国中の呪いと私の身体を繋いでいた「パス」は完全に切断された。
今頃、私が十数年にわたって身体に溜め込み、そして王宮の地下から吸い上げていた膨大な瘴気が、行き場を失って王宮へと逆流し始めているはずだ。
ミリアの「癒しの魔法」とやらで、あの凶悪な呪いの奔流を食い止められるものなら、やってみるがいい。
実家であるエヴァルト伯爵邸に戻ると、すでに屋敷の中は静まり返っていた。
両親は数年前に他界しており、今の伯爵家には、私と、最小限の使用人しか残っていない。
私は使用人たちに、私が国外追放されたこと、そして退職金として十分な額の金を渡し、今すぐこの屋敷を去るように伝えた。
みんな、私を「陰気だ」と避けることなく、優しく支えてくれた人たちだ。彼らを王宮崩壊の巻き添えにするわけにはいかない。
「お嬢様、どうか、どうかご無事で……!」
泣き崩れるメイドたちに見送られながら、私は旅行用の簡素なドレスに着替え、いくつかの私物と、エヴァルト家秘伝の魔導書だけをトランクに詰めた。
そして、深夜。
私は一台の馬車に乗り込み、住み慣れた王都を後にした。
向かう先は、王国の北に隣接する大国――『ギルフォード帝国』。
年中、雪と氷に閉ざされた冷徹な国であり、エルランド王国とは国交こそあるものの、常に緊張状態にある軍事大国だ。
追放された身の私が身を寄せるには、王国の影響力が一切及ばない帝国が最も安全だった。
数日後。
国境を越え、ギルフォード帝国の領内へと入ると、景色は一変して白銀の世界となった。
窓の外には、針葉樹の森が雪を被って美しくそびえ立ち、冷たく澄んだ空気が馬車の隙間から入り込んでくる。
不思議と、寒さは苦にならなかった。
呪いの束縛から解放された私の身体は、満ち溢れる本来の魔力によって、常に内側から心地よい暖かさに包まれていたからだ。
髪はプラチナのように輝き、肌は雪景色に溶け込みそうなほど白い。
鏡を見るたびに、そこに映る「本来の自分」の美しさに、私自身が少し戸惑うほどだった。
しかし、旅は順調なばかりではなかった。
帝国領の深い森を抜ける街道に差し掛かった時のことだ。
突如、馬車が激しい衝撃と共に急停車した。
「うわあああっ!? ま、魔獣だ!」
御者台から、雇った御者の悲鳴が聞こえる。
私はハッとして窓の外を見た。
雪煙の向こうから現れたのは、通常のオオカミの数倍の大きさを誇る、狂暴な氷雪魔獣『スノーウルフ』の群れだった。
十頭以上の群れが、ぎらつく赤い目を光らせ、こちらの馬車を完全に包囲している。
「お嬢様! 逃げてくだ――ひいっ!」
御者は恐怖のあまり、馬車を乗り捨てて一目散に雪森の中へと逃げ出してしまった。
残されたのは、怯えて狂ったように嘶く馬と、トランクを抱えた私一人。
ウルフの群れが、鋭い牙を剥き出しにして、じりじりと馬車との距離を詰めてくる。
リーダー格と思われる巨大な一頭が、私を標的に定め、雪を蹴って跳躍した。
「――【拒絶の盾】」
私は冷静に、右手をすっと前方に突き出した。
詠唱すら必要のない、無属性の防御魔法。
しかし、指輪を外して本来の魔力が完全に覚醒している私の魔法は、かつてとは比較にならない規模だった。
ズドォォォン!!!
空気が激しく震動し、私の前に、厚さ数メートルはあろうかという巨大な半透明の「魔力の壁」が出現した。
突っ込んできたスノーウルフは、その壁に激突し、哀れな悲鳴を上げて雪原へと叩きつけられる。
「キャン……ッ!」
他のウルフたちが、予想外の抵抗に驚き、一瞬動きを止めた。
私はトランクを片手に持ち、ゆっくりと馬車から外へと降り立つ。
「おとなしく去るなら、命までは取りません。……どうしますか?」
私の言葉が理解できたわけではないだろうが、ウルフたちは野生の勘で、私の身体から立ち上る「圧倒的な魔力の奔流」を察知したのだろう。
群れ全体が、怯えたように後ずさりし始める。
だが、その時。
森の奥から、さらなる地響きと共に、もう一回り巨大な『影』が現れた。
それは、ウルフたちのボスではない。
この地域の主と呼ばれる、巨大な氷の熊――『フロストベア』だった。
体長は五メートルを超え、全身が氷の鎧で覆われている。
スノーウルフたちは、その主の登場に恐れおののき、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
フロストベアは、立ち上がって天を仰ぎ、凄まじい咆哮を上げた。
その咆哮だけで、周囲の木々から積もった雪が一斉に崩れ落ちる。
「さすがに、あれは少し骨が折れそうね……」
私が魔力を練り上げ、本格的な【解呪(攻撃転用型)】の魔法を展開しようとした、その時。
――シュウッ、と。
冷たい風を切り裂く、一筋の銀色の光が走った。
次の瞬間、フロストベアの頑強な氷の鎧が、一太刀のもとに真っ二つに両断される。
凄まじい質量を持った巨体が、どさりと雪原に倒れ込み、地響きを立てて静まり返った。
「……怪我はないか」
雪煙の向こうから、低く、冷徹でありながらも、どこか心地よい響きを持つ声が聞こえた。
現れたのは、黒い毛皮の外套を羽織り、白銀の甲冑を身にまとった一人の男性だった。
流れるような漆黒の髪。
彫刻のように整った冷艶な容姿に、凍てつく冬の湖を思わせる、鋭く澄んだ氷色の瞳。
手にした大剣からは、一切の無駄のない、圧倒的な強者の覇気が漂っている。
彼の背後には、同じく黒い甲冑を着た帝国騎士たちが十数名、一糸乱れぬ動きで控えていた。
「ここは帝国の直轄領だ。このような場所で、エルランド王国の馬車が魔獣に襲われていると報告を受けてな」
男性は、大剣を静かに鞘へと収めると、私の方へと歩み寄ってきた。
彼の氷色の瞳が、私の姿を捉えた瞬間、わずかに、本当に一瞬だけ、見開かれた。
私のプラチナブロンドの髪、白磁の肌、そして瑠璃色の瞳。
そして何より、私の身体から溢れ出ている、スノーウルフすら威圧した「強大で清らかな魔力」。
「……君は、何者だ? 王国の貴族のようだが、なぜこのような国境近くに一人でいる」
私は、彼の威厳に気圧されることなく、優雅に一礼して見せた。
「助けていただき、感謝いたします、騎士様。……私はエレナ・エヴァルト。エルランド王国を追放され、この帝国へ身を寄せようとしている、ただの旅の者です」
「追放……?」
男性は眉をひそめた。
「その瑞々しくも強大な魔力を持つ君を、あの愚王の国は手放したというのか?」
彼の言葉に、背後の帝国騎士たちがどよめく。
男性は、私をじっと見つめたまま、ふっと口元をわずかに緩めた。
それは、冷徹な彼の表情に咲いた、一瞬の氷晶のような、酷く美しい微笑みだった。
「面白い。私はギルフォード帝国公爵、アルベルト・フォン・ギルフォード。……エレナ嬢。君さえ良ければ、我が公爵邸へ来るといい。その卓越した魔力、我が領地で活かしてみせる気はないか?」
この冷たい雪原で出会った、「氷の公爵」と呼ばれる男。
彼の差し伸べた手は、驚くほど温かく、私を新しい運命へと導いていくのだった。




