第二百五十九話「逃亡撃」
本年最後の投稿となります。
誤字報告、感想ありがとうございます!
毎日の更新はできなくなりましたが、ここまでなんとか続けてこれました。来年からも頑張って更新していきたいと思います。
皆さま、良いお年をお迎えください。
足元の石畳を踏みしめる音が、やけに大きく響いていた。
周囲には人通りがある。露店も出ていて、雑多な生活音も聞こえる。なのに――胸の奥がざわつく。
原因ははっきりしていた。
俺のすぐ後ろを歩くヘルヴィウスが、やけに大人しくなっている。
さっき体をぶつけられてから、ずっとだ。
「……」
ちらりと振り返ると、彼は唇を引き結び、視線を落としていた。
怒っているというより、どう対応すべきか測りかねている顔だ。
前方から、さっきの三人組とは別の男たちが歩いてくる。
だが、視線の向け方で分かる。
――俺たちじゃない。
狙っているのは、ヘルヴィウスだけだ。
すれ違いざま、今度は肩を強く当てられる。
「おっと、悪いなぁ?」
謝罪の形だけをした声。
そのまま立ち止まり、男が振り返る。
通行人たちは、その様子をちらりと見て、すぐに目を逸らした。
誰も関わろうとしない。
「坊ちゃん、服がずいぶん立派だな」
男の口元が歪む。
「迷子か? それとも、親のお使いか?」
嫌な空気が、完全に出来上がった。
「デロンド組って言えば、分かるよな?」
その名前を出した瞬間、男たちは薄く笑った。
俺はその名前を聞いたことはない。しかし理解した。
ギャングだ。
下町の顔役ってやつだろう。
「ちょっと話があってさ。なあ、お坊ちゃんたち」
ミルカが小さく息を呑み、ティマは俺の服の裾を掴む。
トルトは一歩前に出ようとして、俺が手で制した。
そんな中、一人だけ前に出たのがヘルヴィウスだった。
「……失礼ですが」
柔らかい声。あどけない顔。
だが、彼は背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「僕は貴族の家の者です。ここで騒ぎを起こすのは、お互いのためにならないと思いますが」
やんわりと、しかし確実に「自分は後ろ盾がある」と主張する言い方。
……よくやった、とは思う。
だが相手が悪かった。
「は?」
男の一人が、あからさまに鼻で笑った。
「貴族? ガキが何言ってやがる」
「親の金で生きてる坊ちゃんが、俺たちに説教か?」
一気に空気が荒れる。
怒鳴り声が飛び、ヘルヴィウスの肩がびくりと揺れた。
それを見て男らは調子に乗った。
見下すような視線、嫌らしいニタニタとした笑み。すべてが不快で、こちらを不安にさせようとするものだった。
「親に金引っ張ってこいよ。そうしたら、今日は見逃してやる」
完全に舐めてる。
しかも視線は、再びティマとミルカへ。
「それにしても……いい目だなぁ」
「白いのも、眼鏡のも」
――クソ。
ここで叩きのめすのは簡単だ。見た感じ、体はでかいが鍛えている感じもない。実力があるというわけじゃなさそうだ。
本気を出せば、文字通り一瞬で終わる。
でも、その後だ。
報復。裏社会。何をされるか分からない。
躊躇した、その瞬間。
ドン、と衝撃。
俺とトルトの腹に、拳が叩き込まれた。
正直、俺にはほとんど痛みはない。でも――。
「きゃっ」
ティマの腕が引き寄せられ、ミルカも同時に掴まれる。
躊躇している暇はなかった。
「みんな、目を瞑れ! ――リラ!」
呼びかけは、ほとんど反射だった。
『りょーかいっ』
軽い返事。
だが、その直後――世界が裏返る。
視界が、爆ぜた。
白。
白。
白。
昼間の太陽なんて比じゃない。
視界そのものを殴りつけるような、圧倒的な光量。
「――っ!?」
誰かの悲鳴が聞こえた。
男の声か、通行人か、それとも――判別する余裕はない。
耳鳴り。
足元が揺れる感覚。
だが、俺の身体はもう動いていた。
光に包まれた世界の中で、俺は踏み込む。
一歩。
半歩。
距離が詰まる。
相手の動揺が、手に取るように分かる。
腕が上がりきらない。
視線が定まっていない。
――もらった。
腰を落とし、体重を乗せる。
拳を畳み、一直線に叩き込む。
鳩尾。
鈍く、湿った音。
空気が肺から強制的に吐き出される感触が、拳越しに伝わってきた。
「ぐっ――!」
男の身体がくの字に折れる。
だが、止まらない。
そのまま体をひねり、次。
視界の端で、もう一人が何か叫びながら振り向くのが見えた。
顎。
骨に当たる、乾いた衝撃。
頭が跳ね上がり、歯が噛み合う音がした。
さらに半身をずらし、肘を畳んで――。
胴体――肋。
衝撃が、確かな手応えとなって返ってくる。
男の身体が横に流れ、足元から崩れ落ちた。
倒れる。
まるでドミノ倒しのように。
地面に叩きつけられる音が、立て続けに響く。
白かった視界が、ようやく輪郭を取り戻し始めていた。
混乱の中心で、俺は息を吐いた。
――今だ。
「行くぞ!」
叫ぶと同時に、俺はティマの手を取って、皆の方へと振り返った。
俺は叫び、全員で走った。
背後から、割れるような怒鳴り声が響いた。
「待ちやがれ!」
「ガキども!」
荒れた声が石畳に反響する。
だが、俺は振り返らない。振り返る余裕なんてない。
『そこ、右ですわ! 次は左でまっすぐです!』
アイレの道案内で、道に迷うことはない。
「こっちだ!」
俺たちは大通りを外れ、露店の裏へ、さらに細い裏路地へと雪崩れ込む。
洗濯物が頭上を横切り、樽や木箱が無造作に積まれた狭い道。
腐った水の臭いと、香辛料と油の匂いが混ざり合う、壁外街特有の空気。
――速く。
足音が重なり、息が荒くなる。
その時だった。
「っ……!」
ティマが小さく声を上げ、足をもつれさせる。
転びかけたその身体を、俺は反射的に抱き上げた。
「大丈夫だ、掴まれ!」
「……っ、うん……」
一方、トルトも状況を理解していたらしく、無言のままヘルヴィウスとミルカをそれぞれ肩に担ぎ上げる。
「す、すまない!」
「全然、軽いだよ! でも乗り心地は保証しねえだ!」
ヘルヴィウスの声が裏返るが、トルトは熊のような体躯で地面を蹴った。
背後から、混乱した声が聞こえる。
「ぐわっ!?」
「なんだ今の!?」
「目が、目がぁっ!」
何かが起きている。
だが、確かめる余裕はない。
俺はただ、前だけを見て走った。
走って、走って。
壁の内側――区画の境界が見えたとき、ようやく希望が胸に灯る。
そこを越え、角を二つ曲がったところで、俺とトルトは同時に足を止めた。
「はぁ……っ」
息を吐く。
誰も怪我はしていない。
しばらく耳を澄ませるが、追ってくる足音はなかった。
「……もう、大丈夫だろ」
自分と皆に言い聞かせるように呟く。
『奴らは完全にこちらを見失いましたわ』
『ちなみに追ってきてたあいつら。目の前につよーい光を当てたりしてあげてたから、追うどころじゃなかったかもー』
影の中から、リラの楽しそうな声。
なるほど。
俺が必死に逃げている間、精霊たちはきっちり仕事をしてくれていたらしい。
『ありがとうな、二人とも』
『お安い御用ですわ』
『もっと派手にやってもよかったんだけどねー。でもさー、面白かったよ? 躓いて転んだり、壁に突っ込んだり、そのままゴミの山に突っ込んでたりしててー』
……あまり想像したくない光景だ。
とはいえ、逃走支援に徹してくれたおかげで、致命的な事態にはなっていないはずだ。
これ以上、事を荒立てずに済んだのは大きい。
俺は抱き上げていたティマを、そっと地面に下ろす。
「あ……」
「ティマ、大丈夫か?」
「……うん」
小さく頷くが、俯いたまま視線は上がらない。
トルトも、二人を丁寧に下ろしていた。
その仕草が、彼の人柄をよく表している。
……よし。
張り詰めていた空気が、ようやく緩む。
街の水路にかけられた橋の欄干に言葉なく座り、気持ちを落ち着かせた。
沈黙を破ったのは、ミルカだった。
「さっきの光……」
ミルカが言いかけて、俺を見る。
そうだよな……明らかに俺が何かをしたってことが丸わかりな状況だった。
俺は隣にいるティマに小声で言った。
「えっと……ティマの契約してる、光の精霊――エステレルがやったってことにしとけないか?」
ティマは一瞬考えて、こくりと頷く。
「……それで、いいよ。でも……」
首を傾げる。
「それで、いいの?」
その問いに、影から声。
『別にこの子たちなら、話しても大丈夫じゃないー?』
……マジか。でも確かに、いつまでも隠しておけることでもない。普通にグライコフ総長とか、知っている人は知っているわけだし……。
まだ付き合いは短いが、ここにいる皆が信用できる奴らだってのはわかっている。
俺は少しだけ迷ったあと、俺は観念してリラのことを話した。
ティマはすでに知っているから無反応。
トルトは目を丸くし、ミルカは眼鏡を押さえ、ヘルヴィウスは口をぽかんと開ける。
だが――。
「……やっぱり、という感じね」
ミルカが冷静に言った。
「魔力量も、詠唱も、普通じゃなかったし」
「うん。納得した」
ヘルヴィウスまで落ち着いた声。
……あれ?
思ったよりリアクションが薄い。
驚いてほしかったわけじゃない。
でも、少しだけ肩を落とす俺。
その後、自然と反省会になった。
「僕が……軽率でした」
ヘルヴィウスが深く頭を下げる。
「身なりのいい服で、下町に行くなんて……」
「私もよ」
ミルカも頷く。
全員、同じことを考えていた。
「……強くなりたい」
ヘルヴィウスの声が震え、涙が頬を伝う。
「怖くて、何もできなかった……」
俺はそっと、彼の肩を叩いた。
「強くなろう」
そう言ってから、少し笑う。
「でもまずは――もっと粗末な服を用意しないとな」
その言葉に、皆が小さく笑った。
夕暮れの街の片隅。
茜色の空の下で浮かんだその笑顔が、今は何よりも尊いものに思えた
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