侍の心得其五十二 嫌な予感
少し色々思うところありまして、執筆から逃げ出しておりました。
今話から後書きで書いておりました次回予告をカットさせていただきます。
ですが、質は落とさず頑張って行くつもりですのでこれからもよろしくお願いします!
まさに、とんぼ返り。その言葉通りに某は製材所に着いて、集まった者たちを確認した瞬間にその場で点呼を取っていた職人に修行中止を伝え、家へと走っていた。そんな某を引き留めようと後ろから声がかかり、追って来ようとしているのが分かったが、その声と足音は小さくなって消えていった。
その後も某は周囲の様子すら確認することなく、全力で家へと走った。いつもなら職人街と貧民街を結ぶ位置にある市場で声を掛けられ、それに応対するのだが、今日はそれすらも無視である。
どうしてこれほどまでに某が急いでいるのか? それは、ここ二、三日と言ったところであろうか。その短期間で爆増した病欠。貧民は今のところ異常は無く......某は一日寝込んだのだが。それを除けば皆が元気に出勤している。それに比べて平民全員の病欠。中でも、親方やベルノさんのような某が製材所に通い始めてから二年弱の期間、病気の片鱗すら見せていなかった人までが休んだ。
放置すればどうなるか。ここで某が職務を律儀に遂行し、修行を続ければ取り返しのつかないことになるのではないかという、嫌な予感が高速で全身を駆け巡る。
――過労から来る風邪ならば良いのでござる。その時は某が今日の仕事をサボったものとして給料無しでも構わぬのだ。だが、もし――
某は頭の中に浮かんだいくつかの最悪なシナリオを打ち消しながら、糞尿の雨の中を駆け抜け、家までの階段を駆け上がると、丁度母上と父上が家の扉に備え付けられている登録された者しか出入りできないようにする閂を開けるところだった。
「あら、アドリューンじゃない。どうしたのそんなに息を切らして?」
「いつもなら、修行を始める時間の筈だよな? 何かあったのか?」
父上と母上が口々に心配するように声をかけてくる。某は、全力疾走を超える全力疾走と言っても過言ではない速度で走り、切れた息を整えながら、事情を説明する。
「はぁ、はぁ、父上母上、今日、聞くところによれば、製材所の平民が全滅したようなのでござる。某は本当は来ている貧民たちに修行を付けてやるのが筋なのでござるが、ここで、見に行かねば取り返しのつかぬ事態になると思うのでござる。だが、某は平民の職人と見習い達がどこに住んでいるのかほとんど知らぬのでござる。だから、父上と母上に案内を頼みたいのでござる」
平民が基本的に貧民街に近寄らないように、貧民もまたどうしても市場で揃わないものでもない限り平民街へ行くことは無い。某とて例外では無く、製材所内の平民に限れば、一度お邪魔させていただいたアーミー宅......菓子が美味......いや、菓子は今関係ないのだ! とにかく、アーミー宅しか知らないのは事実だった。
とはいえ、父上と母上にしたって知らない可能性はあったが、今、やるべき仕事をさぼってまで確信の無いことを確認しようとしている某の言葉を聞いてくれる人など他にいないのも事実だった。
「なるほどね。確かに母さんと父さんの知る情報を合わせれば、平民たちほぼ全員の家は分かるでしょう。ねぇ、あなた?」
「ああ、そうだな。確かに平民の職人と見習いの家を巡るくらいなら可能だ」
「まことか!」
某は父上と母上が家を知らないとは言わなかったことに心から安堵する。これで、某が平民街でわざわざ聞き込みする時間が減らせる、そう思ったが、父上と母上から帰ってきたのは難色だった。
「アドリューン、平民たちは病欠なのよね? 仮にあなたの嫌な予感が本当だとして、仕事を放棄してまで見に行くのはいいけれど、何か出来るのかしら?」
「そうだな。平民は俺たち貧民と違って、医者に診てもらうことだって出来る。その医者が普通の病気だと判断している以上、アドリューンが行っても無駄足になる可能性が高い。まさか、何か知っているとかじゃないよな?」
「ぬ、ぬう......」
某は父上と母上の指摘に返す言葉が無い。現段階で某が教えられてもいない知識を持っているのは先祖返りであるということになっている。少なくとも某の周囲には家族や製材所の面々を含めそれで通している。
だが、ベルノさんから色々話を聞いたところによると、先祖返りとは基本的に断片的な記憶や知識しか持っていないものなのだそうだ。それも地域に根付いた事柄に関しての。つまり、某が今戦闘指南役として活動する元となった戦闘技術や、この地には無い言葉遣いがほぼ完全に継承されている時点で見る人が見れば先祖返り以上の何かと思われてもおかしくないのだ。
だからこそ、今更かもしれないが、某が今疑っている、『感染症』や『毒』といった医学の知識まであることを伝えるわけにはいかなかった。とはいえ、もしかすれば父上と母上は某がアドリューンの殻を被った何かだと既に気付いているかもしれないのだが――。
ここで父上と母上を説得出来ないのならば無理を押してでも、たとえ一人であっても行かねばならぬ。某の野望の為にも、この地に蔓延る理不尽を覆すためにも、今、ベルノさんや親方を失うわけにはいかないのだ。
某は決意を固めて父上と母上にそれでも平民街へ行く意志を伝えることにした。
「某、たとえ父上と母上がついてきてくれぬとしても......!?」
一体何が!? 某は驚いて今紡ごうとした言葉を切った。いや、切らされたとでもいうべきであろうか。それはもう荒々しく、基本的に住民しか出入りしない階段をものすごい勢いで駆けあがってくる音がする。階下で止まるかと思った音は止まることなくどんどん大きくなってゆく。
どうやら、最上階であるここまで来るらしい。恐らく某を探しに来た職人か見習いか。とはいえ、某、そう簡単に捕まる気はないのである。
某は階段から何が来ても対処できるように身構えた。
「ふぅ、やっぱりここにいたか。アドリューン」
階段を駆け上がってきたのはシーカスであった。これは不味い。点呼を取っていた職人であればどうとでも出来たでござるが、シーカスは不味い。貧民街の大通りならいざ知らず、ここには逃げ場が無い。流石の某も十階から飛び降りるような度量も十階という高さからの落下の衝撃を耐える程の超人でもない。シーカスは腰に差している木刀を使えば突破できるがこんな場所で武器を使うのは間違いなく悪手。最悪犯罪奴隷にされる可能性だってある。かといってシーカスは素手で突破できるほど甘い相手ではない。
――万事休すでござるか――
だが、それでも某は引けない。確保されども為さねばならぬことがある。
「シーカス! 某、そう簡単に捕まるつもりはないでござるよ! 何としてでも逃げおおせて、某は某の目的を達成する!」
「は? 捕まえる? アドリューン、何言ってんだ? 俺はアドリューンを手伝いに来たんだぞ?」
「へ?」
――手伝いに来たでござるか?――
某は予想外の答えに拍子抜けして変な声を出していた。それに加えて、シーカスが某を捕まえに来ていないのなら、某の覚悟は何だったのかと、行き場を失った感情を右往左往させることしかできない。
話を聞くと、シーカスは普段、何よりも、誰よりも修行を愛している筈の某が修行を取りやめて、職人の制止を振り切ってまでやろうとしていることがある。なら、一人じゃ大変かもしれないから必要そうなら手伝ってやれと派遣されたのが貧民の職人の中で某と最も仲の良いシーカスだったらしい。
とはいえ、某が愛しているのは修行ではないのである。某が愛してやまないのは『侍』であり、修行はその過程にすぎぬのだ。傍から見れば同じかもしれぬが、そこは間違って欲しくないのである。
「ふふ、少し意地悪し過ぎてしまったかしら。シーカスも来たし丁度いいわね。どうやって平民街を回るか考えましょうか」
「母上? ならばさっきのは何だったでござるか?」
「お前があまりにも周りが見えていなかったように見えたから、母さんと協力して少し間を置かせて貰った。緊急事態こそ落ち着いて行動しないと肝心なことを見落とすだろう? 違うか?」
母上の代わりに父上が答えた。とはいえ、母上と父上がそんなことを打合せする時間なんて――。
「アドリューン、お前にはまだ分からないだろうが、夫婦だからこそ分かる呼吸ってのがあるんだ」
――某の思考を読んだでござるか!? とはいえ、さらっと今、のろけを挟んだでござるな?――
父上の言葉を聞き、母上は少し赤くなっているし、シーカスはシーカスで、シューラスさん流石です! なんて言っている。納得がいかぬでござるが、夫婦の呼吸などという解析不能なものを出されては勝てるはずも無いのだ。それに、確かに某は視野が狭くなっていたように思う。
「ならば、父上、母上、シーカスは某に協力してくれるのでござるな?」
そう尋ねると三人同時に頷いた。某は安堵すると同時に行動に移ることにする。まずは父上と母上に案内を頼んで平民の見習い達の家々を巡ることにした。
――――
「協力感謝するでござる」
「いいのよ。今、製材所は大変なことになっているんだってね。うちの息子も出来る限り早く治して働きにいかせるから頑張って」
そう言って某一向は、アーミーの母であるサリーさんに見送られ、アーミー家を後にする。これで、残すところは貴族街に近い位置の平民街に住む、クローデとエミィ、それから今回の肝である親方とベルノさんの家のみとなった。
「今のところ全員風邪でござるな。一部、別の意味で怪しい家が何件かあったのが気がかりではあるが」
「そうだね。このまま、皆が普通の風邪で終わればそれに越したことはないんだけど」
某の言葉にシーカスが反応する。そう、これまで回った平民の見習いも職人も、皆一様に風邪。某も怪しまれない範囲で病床にある者たちや周囲の家族の体を観察してみたのだが、特に何か変わったところがあるわけでもなく、今、訪れたアーミーもまた、これまでの者たちと変わりは無かった。
ちなみに、怪しい家とは未だに糞尿修行に参加していない平民の見習いがいる家だ。家を訪れてみて分かったが、彼らは断るときの声や反応から恐らく病気ではない。大方、平民が皆病気になったから自分たちも病気じゃないとおかしいとか、ズル休みとかその類の理由があるのだろう。
一部、立地的な問題で後回しになった見習いを除き全て回った後、訪れたのはベルノさん宅である。これまでは大体、職人ならば奥さん、見習いならばお母さんと思われる人物が出てくれていた。だが、ベルノさんは独り身。寝ていたら起こしてしまうので申し訳ないのだが、これも、必要なことなのである!
某は意を決してベルノさんの家の扉の呼び鈴を鳴らす。平民の家にはみんな付いているあたり少し羨ましい。貧民の家はノックが基本である故に心臓に悪いことがあるのだ。そうそう来客があるわけではないのだが、人によっては借金取りにでも来たのかのような大仰なノックをする者だっている。
そんなどうでもいいことを考えていると、扉が開いた。
「すみません、風邪で申し訳ないのですが......おや? 誰かと思えば、皆さん揃ってどうされました?」
そう言って出てきたのは明らかに顔色のよろしくないベルノさん。とはいえ、せき込んでいるわけでもないし、立ち歩けてはいるようだから現時点ではやはりただの風邪というしかないのだろう。
「うむ。実は今日、平民が皆、風邪で休むということになったと聞き、嫌な予感がしたゆえにこうして急遽修行を中止して病欠の者たちの家を巡っているのでござる」




