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侍の心得其五十一 製材所を襲う異変

 風邪で寝込んだ次の日、すっかり元気になり、動いても問題なくなった某は戦闘指南役としての仕事に復帰した。今日は糞尿回避修行における最優秀グループの日だ。そして今日は待ちに待ったアレを始める日でもある。本来であればもう一日大事を取って休んでもよかったのだが、今日は絶対に休めないのだ。


「師匠! もう大丈夫なのか?」


 某が、製材所の門の前に集合予定時間の少し前に着くと、それに誰よりも早く気付いたアーミーが心配そうに声をかけてきた。


「うむ。この通りすっかり元気になったでござるよ」


 そう答えるとアーミーは安心したように頷く。アーミーが動いたことで某がやってきたことに気付いた他の職人と見習いたちもこちらへとやってきた。だが、その中にミルの姿は無い。ここ最近、保護者である親方公認になったので、製材所まではミルと親方が一緒に来て、それから貧民街へと向かう流れになっていた。ミルが居ないのは少し心配であるが、この年頃の風邪は割と長引くものであるし、まだ某が気にする必要もないであろう。


「おう! アドリューン! 熱だって聞いたが大丈夫なのか?」


 気さくな感じで声をかけてくるシーカス。某は、アーミーの時同様に「大丈夫」と答えておく。


「一日で良くなったのは悪いことではありませんが、今日は初めて導入するものもありますからね。アドリューンのことですから興奮するのは間違いないのでしょうが、今日は無理せずに軽めにしておいてくださいね? もしぶり返してまた休むようなことになれば給料から引くことになりますよ?」


 そう言うのはベルノさん。某は「それは殺生な!」と返すと、「当然ではないですか。働けないのにお給料だけ払っていては製材所が破綻してしまいます」と言われては某も返す言葉が無くなる。この世界に有給休暇という概念は無い。一応、子育てのような事情がある場合のみ、支給されるお金もあるにはあるが、一年のうち決まった日数休んでも給料が保障されるとかとかそういう類のものではない。


 ベルノさんと某のやり取りを見て他の職人や見習い達にも笑われてしまい少し恥ずかしい。

 だが、こんなでも病気で家に籠って何も出来ないでいるよりは数倍マシであった。とはいえ、このなんだか妙に居心地の悪い空気は嫌であったので号令をかける。


「では、今日の修行に行くでござるよ! ベルノさん、例のモノは準備出来ているでござるか?」


「ええ、大丈夫ですよ。ソリューに依頼してまずはここに居る人数分用意していただきました」


 そうベルノさんが言った時、某を笑っていた職人と見習い達の表情が変わった。


「例のモノ?」


「聞いてないぞ! まさか、更に修行がきつくなるのか?」


「ふっ。先ほど某を笑った罰でござるよ」


「罰、だと!?


 困惑する職人と見習い達に某は先ほど笑われた分の溜飲を下げつつ、意趣返しの意味も込めてそう返しておく。一応断っておくが罰ではない。だが、某の言葉に反応してざわめく職人と見習い達が面白いので訂正はしない。


 そうして、困惑する者たちをよそに、ベルノさんは今日修行の無い木材運搬予定の見習い達に指示を出し、製材所の中から例のモノを運び出させた。


 運び出されたものは二つ。一つ目は新品である証拠の銀の光沢を放つ、底が深く、中のものが飛びにくいように、口の部分が萎むようになる返しが付けられた『特製たらい』。二つ目はそのたらいを運搬できるように用意された木製の天秤棒である。


「うむ。上出来でござるな!」


 某は目の前に並べられた四十のたらいと蓋、加えて十の天秤棒を見て嬉しくなる。そう、遂に、某の悲願である貧民街の環境を改善するための最低限の設備がここに揃ったのだ! 正直なところを言えば、平民街のように黒子のような者たちをよこさずとも、貴族が新たに糞尿を窓から捨てるなという制度と捨てる場所を作ってくれればそれで良いのだが......


 ――斯様な制度が作れていたらこのような事態にはなっていないでござるな――


 そう思い直し、某は今日の修行内容を説明した。つまり、今日から糞尿回避修行が糞尿回収業へと姿を変えるのだ。


 説明し終えた某は指示を出し、天秤棒とたらいを運んでもらう。ちなみにであるが、たらいは某のものとは少し違う。というのも、某は修行の合間に、ベルノさんと糞尿回収用のたらいを準備する為、金物屋にも通っていた。そこで語った某の使用感を参考にこのたらいの返し部分は取り外し式に改良されている。


 加えて、某としては物足りないことこの上無いのだが、たらい自体の軽量化をされてしまった。なんでも、某の使っていた特製たらいは修行用に重くされているのもあって割引なしだと銭貨六百枚という代物だ。流石にそれは製材所としても予算の都合上きつく、結果としてコストカットと、運搬や回収による疲労軽減の意味を込めて軽量化が行われた。それでも、このたらい一つで銭貨三百枚である。


 某はベルノさんと共に、たらいと天秤を運ぶ見習いと職人たちを先導しながら聞く。


「そういえば、このたらいの盗難対策は出来ているでござるか?」


 このたらい一つで某の給料の二、三ヶ月分にも匹敵するお値段なのだ。そんなものを大量に貧民街へと無策で持ち込むのは鴨が葱を背負って来るようなもの。某は一見なんの対策もされていないたらいの管理を心配する。

 だが、ベルノさんは逆に驚いたような顔をして答える。


「アドリューン、もしや自覚が無いのですか?」


「自覚でござるか?」


「ええ。この組以外のまだ糞尿を避けきれない者たちならまだしも、ここに居る者たちは皆、人為的な例の滝をやられない限り跳ねでさえ服を汚すことなく糞尿を避けられる者たちです。なのに、貴族でもない普通の平民や貧民が私たちから物を奪えると思いますか?」


 む、どうやら、ベルノさん曰く、某達からたらいを盗むのは不可能ということらしい。某としては心配であるが、ベルノさんが言うのならそうなのであろうと納得する。


 そうして貧民街に着いた後、某は修行内容について説明する。


「今日から糞尿回収を始めるでござる! ただ、皆がどれほど出来るかは分からぬ故、今日は糞尿を集めるのにかかる時間の計測をさせて頂くでござる。その後、天秤棒の使い方だけ教えて、今日集めた分の糞尿に関してはミルが来るまで某がやっていたように大通りへできるだけ水たまりが出来ないように捨てて欲しいでござる」


 そう、某は指示を出した。本当は捨てに行ってもよいのだが、実はここに居る見習いの中で、アーミー、シーカス、エミィ、クローデは冒険者カードを持っていない。つまり、門の外へ出られないということだ。


 実は土地は既にベルノさんが手配してくれているのだが、冒険者カードは手続きの都合、某のような例外を除き、団体で登録した方が付き添いに割く時間や、登録料が安く上がるので、予定の調整にもうしばらく時間がかかるそう。


 とはいうものの、某としてもそれは問題ないと思っている。何故なら、某はこの修業が甘くないことを知っている。つまり、捨てに行く時間すらも惜しんで鍛錬しなければ......


「うわ、当たっちゃったよ! この臭いが体に着くのはずいぶん久しぶりな気がするね」


「うぅ~! 最近当たらなくなってこんな思いしなくて済んでたのに! もぅ!」


「師匠は軽々やってたが、これ、想像以上に難しいぞ!」


 頭の上にたらいを掲げながら糞尿に突っ込み、阿鼻叫喚な集団......もはやホラー以外の何物でもないのではなかろうか。某は見える範囲で糞尿を集め始めたクローデ、エミィ、アーミーの様相に少々恐怖を感じた。


 今日は無理せずにと言われたが、ここまで杜撰では見ている方も心が痛む。なんせ、集めにいくことに意識を奪われ過ぎて避ける時は出来ていた周囲の確認すらおろそかになってしまっているのが少し離れて見てみればよく分かる。


 ――うーむ。今日は病み上がり故に無理するなとは言われたでござるが、これは放っておけぬでござるな――


 結局某は居ても立ってもいられなくなり、久々にミルがいないことで完全に空いた両手でたらいを持って貧民街へと突っ込んだ。

 とはいえ、この日はミルがいないおかげか、某を集団で狙う者に出くわすことはなく、結果、疲れるようなことも無かったので風邪は引かなかった。


 だが、次の日、某以外に異変が起こった。


「さあ、今日の修行を......む? なんだか人が少ないように見えるでござるが?」


 今日もこの製材所の門の前にミルはいない。それはそこまで驚くべきことでは無い。少し風邪が長引いているのかな程度で済む。しかし、この場に毎朝出欠の確認を行うベルノさんがいないどころか、あの、修行を始めた時の貧民街にほぼ平民全員が難色を示したように、今日修行予定の平民の職人と見習いが全員いない。結果として全員揃って十二人いる筈のこの場には五人しか残っていなかった。


「なんか、聞いたところによると皆、風邪らしいぞ」


「だが、平民全員で休むっておかしくないか?」


「いない奴に構ってても仕方ないし早く行こうぜ!」


 皆が口々に思い思いのことを言う中、某は考え込む。ふむ。本当にそうなのであろうか? 本当に風邪ならばそれで良いのだ。だが、もしそれが嘘だった場合、何故今......? まさか、昨日の糞尿回避修行上位組があんなに汚れて戻って来たのを見たからであろうか?


 謎は深まるも、某とて仕事を放棄するわけにもいかない。結局この日は貧民の見習いと職人の五人のみで糞尿回避修行をした。


 だが、次の日、製材所の門の前に出欠の確認に来たのは親方でもベルノさんでもない貧民出身の職人だった。しかも、その人曰く、昨日はまだ少し残っていたが、今日は平民は一人残らず病欠だという。勿論、ミルも居ない。


 その証拠に今日、修行に来たのは最下位組十四人のうち、貧民八人だけであった。これは何がなんでもおかしい。まさか、貴族にバレた......? いや、それにしては平民だけを狙う理由が理解できぬでござる。とはいえ、これは修行している場合ではない。明らかに何かが製材所を襲っている?


 某は、その場で出欠を取りに来た職人と今日修行予定だった者たちに向けて言った。


「すまぬが、今日は修行は無しにするでござる。代わりに、木材運搬と職人業をやって欲しいでござる。これはかなりの異常事態であるのは間違いない。故に某はしばらく原因の調査をする故、修行は中止とするでござる」


 某は有無を言わせぬほど強い口調で言った後、驚いた者たちに反論されないうちに某は家へと走った。某よりも出勤時間に余裕があってまだ家にいる筈の父上と母上の力を借りる為に――。











 さてさて、今回はここまでです。修行は進み、遂にアドリューンの悲願であった生活環境の改善まであと一歩のところまで来たはずだった。だが、それを妨げるように製材所に勤める平民たちの相次ぐ病欠...... 


 次回はアドリューンがそんな病欠の原因究明のため奔走します。お楽しみに。


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