侍の心得其三十九 掃除夫への道は険しい
「あら、今日も買い物に行くの? なら、こんなこともあろうかと、よそ行き用の服を買っておいたの。教えてくれたら昨日から出したんだけど......お店で嫌な顔されたでしょう? 最低限の礼儀として着ていきなさい」
今日は、昨日頼んだものを買うため、ソリューの店へ行くことになっている。とはいえ、昨日は完全に思い付きでの行動だったので母上に何か言われるのかと思ったが、咎められたのは、勝手に買い物に行ったことではなく、貧民街や職人街で過ごす格好で、平民街......それも、商人が集まっている地域の商人街へと行ったことだった。
どうやら、貧民が貧民街にある市場以外で買い物をする場合、そのような格好をしていくのがマナーであったらしい。ベルノさんと買い物に行った時はそのようなことは無かったので知らなかったのだ。
そんなわけで、普段より上等で着心地の良い服を着せられた後、某は木刀と銭貨が詰まった袋を持って家を出る。いつもより良い服だからということで、糞尿を避けるのにはいつも以上に気を使った。
そうして、某は数時間ほど走り、ソリューの店へとたどり着く。家を出た時は顔を出したばかりだった太陽は既に大分高い位置まで登ってきている。
そんな中、某は店の戸を開けて中に入るとカウンターに立っていたソリューが出迎えてくれた。
今日は追い出そうとされなかったようでホッとする。
「来たか。アドリューン、待っていたぞ。今日は昨日のような格好じゃないんだな。まだ貧民臭さは残っちゃいるが、それなら客として見えなくも無いな」
ソリューの言葉に某は少し顔をしかめる。だが、確かに思い返してみれば昨日の某は浮いていたように思う。ただ、某はいつも浮いているようなものなのでさして気にしてすらいなかったが、流石にあの格好ではこの場にそぐわなかったと今になって思う。母上には感謝しかない。
だが、そんな前置きが終わった後、ソリューの愚痴が始まった。
「いやあ、昨日は酷い目に遭った。流石にあの格好で帰った後のカミさんの雷はとんでもなかったよ。話には聞いちゃいたが、よくあんなところで生活できるよなあ。貧民ってのは。もう俺は仕事以外では二度と行きたくねえ」
平民は貧民と一緒に仕事はしても、めったなことでは貧民街には近寄らない。なぜなら、生活環境が違い過ぎるからだ。というのも、貧民街や、貧民が働く労働メインの職人街は正門である、西門と南門から見えないように最も離れた位置、即ち北門と東門の間にある。
外から来る客から領地の汚点がなるべく見えないようにということであろう。事実、北門から西門にかけてと、東門から西門にかけて広がる正門から目に付く範囲にある平民街は、黒子を着た者たちの手によって貧民街とは比べ物にならないくらい清潔にされている。
そんな平民街に住む者からすれば、貧民街に近寄りたくないと思っても仕方のないことなのであろう。
「それは分かったが、某の頼んだ物は作れそうでござるか?」
「ああ、問題ない。というか、既に一つ完成させてある。こっちだ」
どうやら、某が来るまでに一つ完成させてくれていたらしい。仕事が早くて何よりである。某は案内されるままにソリューに付いていくとそこには帯に短し襷に長しとでもいうべきか。
たらいというには底が深く、鍋というには直径一メートルほどもあるそれは、幅広すぎるといった様相の入れ物が用意されていた。ただ、それに加えて某の頼んでいない、少し変わった部分もあった。鍋の口の部分に十センチ程の返しが付いているのだ。
この返しは何故付けたのであろうか? その意図について聞いてみることにする。
「この返しは?」
そう聞いてみるとソリューは満足そうに頷くと答える。
「そうだな。実際行ってみて分かったが、貧民街ってかなり建物自体が高いだろう? つまり、その分、アドリューンの言っていた跳ねだって高く飛ぶ筈だ。それを防ぐのが一つ。それから、動きながら集めるなら、返しが無いとこぼれることだって考えられるだろう? 折角集めたのにこぼしちゃ意味が無いからな。そんなわけで付けさせてもらった」
なるほど。流石は金物屋の店主というだけあるでござるな。やはり、その職に人生をかけてきている者たちはそういう些細なことにまで気付けるものなのであろうか。某の目指す侍もかくありたいものだ。
「そこまでして貰えば買わぬわけにはいかぬでござるな。いくらであろうか?」
某は聞く。無論、買えないような値段だったとしても取り置きを頼んで、お金が溜まり次第買いに来るつもりである。
「ああ、返しに関しては俺が勝手にやったことだからサービスで良い。そんなわけで、この『特製たらい』値段は銅貨五枚だ! アドリューンの手持ち的には銭貨五百枚と言った方がいいか?」
「なるほど、銭貨五百枚なら払えるでござるな。少し待って欲しいでござる」
「ああ、ゆっくりでいいからきっちり払ってくれ」
某は、ゆっくりと時間をかけて銭貨を十枚ずつ数えながら袋から出してゆく。払いながら思うが、銭貨百枚で銅貨一枚でござるか。いままで、ずっと貧民街周辺が某のテリトリーで、冒険者の装備の支払いは全てベルノさんがやっていたから知らなかったでござるが、前世的な基準で考えれば、銭貨一枚約十円が妥当と見て間違いなさそうでござるな。
とはいえ、この支払で某の持っていた袋は一気に軽くなった。すっからかんというわけではないが、残りの銭貨はあと百枚も無いであろう。
そんな某の様子を見て、少しばかり感心しながらソリューは言う。
「しっかし、よく持ってたな。昨日あれだけ派手に見せられたとはいえ、銭貨五百枚本当に払えるとは。その袋の中身に石でも混じっていたら、笑って分割払いにでもしてやろうと思ったのに」
むう。確かに某くらいの子供ならそう思われても仕方ないでござるが......とはいえ、分割払いも検討してくれていたのならここで払いきらないでも良かったのかもしれぬとは思う。だが、そんなことを考えている某にソリューはこうも付け加えた。
「もし逃げたりしようものなら、ベルノの奴から取り立てればいいだけだしな」
某は納得する。なるほど。某に対する信頼はベルノさんという後ろ盾によるものであったか。もう、ベルノさんには返しきれぬほどの恩があるゆえに、これ以上借りばかり作るのは少々心苦しいでござるが、今は一人でやっていくための地位も力も足りない故にもう少し頼らせてもらおうと思う。
そんなわけで、「次何か頼むことがあれば分割払いでお願いするでござる」とソリューに伝えると、某は買ったばかりのたらいを頭の上に乗せて支えながら貧民街へと戻る。
その道すがら、周囲からは好奇の視線を向けられたがそんな視線にももう慣れた。
この世界に来て以来、ゆく先々でそんな視線を受け続けているのだから。
そんなことを思いながら、貧民街の市場へとたどり着くと、
「今度は何が始まるんだ?」
「また修行か! 頑張れよ」
「おお、アドリューン。今日は果物が入ってるんだ。一個買って行けよ」
なんて声がする。毎度のことで慣れてはきたが、少し気恥しいので止めて欲しいという気持ちはある。それに加えて、そんな声の中に混じっていた果物の売り込み――。結構な距離を往復して、普通ならば手が出てもおかしくないタイミングであった。だが、この『特製たらい』を買ったばかりなのだ。金欠になった今、これからどのくらいお金が要るかもわからぬのだ。そう易々と浪費出来る状態ではない。
そうして、某は貧民街にたどり着く......ここでようやく待ちに待った、某考案の修行のはじまりである。新たな修行の前に、商人街と貧民街を往復して疲れたなどと言うわけにはいかぬのだ!
やることは簡単! いつも避けている糞尿をこの特製たらいで受け止めるだけである。
つまり、この修業で、このそこそこ重いたらいを持って走り回るので、筋力がつき、かつ疲れに追い打ちをかけるようにこのたらいの中に溜まった糞尿で重くなっていく故に更に筋力がつき、たらいのせいで落ちた機動力や視野を補う力だって付けられるであろう。
それに加えて! 貧民街に落ちる糞尿が減れば、某の生活環境も改善されるというものである! これは手を抜くわけにはいくまいて。修行が出来て貧民街の掃除までしてしまう某! 天才ではなかろうか。
考えれば考えるほど、良いこと尽くめな気がしてくるこの修業、何故今までこの方法を思いつかなかったのか不思議なくらいではあるが、いざ――。
そうして、某はいつもなら避ける筈の糞尿に、頭に抱えた特製たらいを持って突っ込んでいく。だが、これが存外難しい。何故なら、例えば野球のように、どこから来るか分かっているボールの落下点まで行って落ちてくるのを待っていればいいわけではないのだ。
何処から出てくるかは完全ランダムで、落とし方によっては自由落下のものもあれば、投射されるものだってあり、そもそもの落下速度すら全て違うのだ。
そんなものに、走りながら突っ込んでいく。
それが、どんな結末を迎えるかなんて火を見るよりも明ら――びちゃ!
「ぬあ!! 顔面に糞を食らうのはいつぶりであろうか......」
某は、頭上にたらいを持っているのにも関わらず、特製たらいが落下点に間にあわなかった分の糞尿を顔面に盛大に浴びる。
その後も、某は、特製たらいの返しの部分に当たって砕けた糞尿を浴び、たらいを両手で持っているが故にこけて顔面から水たまりならぬ、糞尿だまりに突っ込み、全身が糞尿で茶色く染まろうとも、特製たらいが一杯になるまで某は走り続けた。
――まさか、ここまで受け止めることが難しいとは思ってもいなかったでござる――
結局某が特製たらいをいっぱいにしたのは日が沈む少しばかり前だった。某は貧民街の道の上で倒れこんでいた。そもそも、ここまでどろどろのぐしゃぐしゃになってしまえば貧民街の地面のことなど今更であろう。
と、そう思い込んでいたその瞬間、某の全身が、夏であるにも関わらず、極寒の冷気にでも当てられたかのように震え出した。
「......ッッツ!!?」
某は咄嗟に寝そべっていたからだを釣り上げた魚が甲板を跳ねるように起こした。
全身の神経が過敏に反応したと言っても間違いないであろう。それだけの恐怖が某の背後に迫っていた。
「あら、アドリューン? 昨日からなんだかせわしないとは思っていたけれど、この格好はどういうことかしら?」
「あ......う......は、は......うえ?」
そう。某の背後に居たのは母上だった。しかも、その顔には明らかに黒い影がいくつも出来ていた。つまり......本気で怒っている顔だ。
「アドリューン、今、あなたが着ている服は何の為の服なのか分かっているのかしら?」
そう言われて某はハッとする。そう、購入したての特製たらいを使った修行で頭が一杯になっていたのだ。楽しみで楽しみで、自分の着ている服のことなど完全に忘れていた。
「ねえ、アドリューン。その服は、銭貨数枚で買えるような服とは訳が違うのよ? あなたが、休日をどう過ごそうと、私は特に何も言うつもりは無いわ。でもね、遊んだり、修行する為の服と、よそ行きのための服がどうして違うのか、分からないとは言わせないわよ」
「う......」
某は返す言葉も無いという風にそのあと、陽が沈み、父上の助けが入るまで懇々と貧民街の大通りのど真ん中で説教が続いた。糞尿が降り注ぐおかげで周囲に野次馬がいなかったのは不幸中の幸いといったところであろうか。
そのあと、折角集めた糞尿も、捨てる場所を考えていなかったおかげで、結局貧民街の大通りにリリースすることになってしまった。
某の考案した新たな修行方法はどうやらそう美味い話ばかりでは無かったようである。
......無念なり。
というわけで、アドリューンがソリューに頼んだのは、貧民街の上層階から投下される糞尿を受け止められるたらいだったわけですね。
ここで、アドリューンの手持ちのお金に関してですが、最初の半年は母上との修行で日当銭貨一枚、その半値は食費に回り、アドリューンの手取りは銭貨半枚なのですが、最後の方は糞尿回避修行の服代に取られているので、三日に銭貨一枚の計算で銭貨六十枚。
そのあとの半年の木材運搬職の日当は、体力が付いて運べる木材が増え、日を追う毎に打ち上げトーナメントで勝てるようにもなり、一日平均にすれば、銭貨約六枚ほどになるので半値の銭貨三枚で銭貨五百四十枚。
アーミーとの修行の付き添いによる父上への賄賂や時々の自分のご褒美で銭貨を使った分で銭貨七十枚ほど。
ただ、戦闘指南役になるための勝ち抜き戦でボーナスが出たこともあって、合計でアドリューンの所持金は銭貨五百六十~五百七十枚でした。
恐らく、アドリューンの所持金の推移はこれであっているはず!
それにしても、一日働いた日当が五十円とか六十円とは......貧民とは中々に過酷ですね。
次回は、新しい修行の問題点をベルノさんに相談に行って解決策を練るあたりをメインでいこうかと。 では。




