侍の心得其十四 母上は非常識であった件について
そんなこんなで、半ば押し付け合いのようなやり取りを見せられた後、親方は製材所の中へと入っていき、某は半年間の修行の成果を披露することになった。
とはいえ、某、背が伸びているのであるか。それもかなりと親方は言っていたな。自分の体の変化というものは自分が一番分からぬとはよく言ったものである。
そんなわけで親方の言葉を思い出してニマニマしていると、ベルノさんが某に声をかけてきた。
「待たせたね。全く、あの親方はノリと勢いで物事を決めるものですから。苦労させられるこっちの身にもなれってもんですよ。ついこの前なんてね――」
――あ、これは面倒なやつでござる。親方が居なくなった途端仕事の愚痴が始まったでござる――
しかも、この手の愚痴と言うのは話し出したら止まらないのは前世にも通じるものがある。人とは不思議なもので、人の良いところというのは、日常として溶け込んでしまうが故に意識して探そうとしなければ見えてこないが、欠点は意識せずとも勝手に目につくのである。
......まあ、あの親方は長所と短所が服を着ていると言って差し支えない程に、その立ち居振る舞いでどちらも分かってしまうのだが。
「ベルノさんで良かったでござるか? そろそろ某の成果を見ていただいて構わぬでござるか? あまりこの場で長居していれば後で親方が面倒ではござらんか?」
某は、さっきから愚痴が止まらないベルノさんに声をかける。このまま放っておいたら、いつまで経っても止まる気がしなかったというのもある。
「ああ、そうだね。君はアドリューンだったね。なんでも、その年で、しかも半年前は少し歩いただけでも息切れするような少年が親方に土を付けたと聞いた時は本当に驚きましたよ。あの時、私は親方の代わりに別の取引先へ行っておりましたのでその戦いを見ることが出来なかったんですよね。あ、紹介が遅れました。私はベルノ。この製材所のナンバー2であり、経理を担当しています。よろしくお願いしますね」
そう言って自己紹介をしてくれた。なるほど。どうやら、某と親方が対峙したあの時、親方がするはずだった仕事をしていたのはこの人であったか。それに経理といったか。確かにそうであるならば親方が頭が上がらぬのも無理のない話であるな。おそらく、この製材所において一番引き抜かれたくない人材がこの人なのであろう。
そんなことを考えていると、ベルノさんが口を開く。
「では行きましょうか。確か親方が出した課題は、製材所から君の家まで走ってたどり着くこと。で間違いないかい?」
「うむ。それで間違いないでござる」
某がそう答えるとベルノさんは笑みを浮かべて頷く。
「なるほど。承知しました。しかし、アドリューン、君は個性的な話し方をするね。それはどこで教えてもらったんです?」
「......某の前世の記憶かもしれぬでござるな。某にもよく分からぬでござるが、こうやって話した方がしっくりくるのでござる」
突然の質問に一瞬某は答えに窮する。今まで、某の行動において詳しく言及しようとする者がいなかった故に深く考えたことがなかった。だが、間違いなく異世界転生したということを安易にばらすのは悪手であろうと即座に思い至り、ぼかして伝えることにした。大丈夫。嘘は言っていないでござる。
「なるほど......もしかすれば軽い先祖返りの類かもしれませんね。実際に見たことが無いのでよくは知りませんが、ある日突然、まるで思い出したかのようにその子供がこれまで見たことが無いはずの異国の言葉を話したり、その地には無い発想をしたりするんだそうです」
「先祖返りでござるか。確かに聞く限りではそれで間違っていないのかもしれぬ」
なるほど。先祖返り......それは使えるやもしれぬ。異世界転生者がこの世界に居るかどうかは定かではないが、少なくともこの地に居ないのは間違いないであろう。異世界転生者が居れば、それこそ不自然な文化が根付いていてもおかしくない故に。これからは、ベルノさんに聞かれたのと似た質問をされた時は先祖返りかもしれぬとそう答えることにしよう。
そんな話をした後、某はベルノさんに促され、走り始めることになる。製材所を出て、市場に入る。市場に入れば、某はやはり声を掛けられることになる
「おお、最近見ねぇとは思っていたが、しばらく見ないうちにかなり大きくなったんじゃないか?」
「あら? ついこの前まで歩くだけでもしんどそうだったのに凄いわね~ うちの息子もそのくらい頑張ってくれないかしら?」
「おう! 精が出るな! 運動のお供にこの飲み物はどうだい?」
勿論すべてにそれなりの返答を返しておく。飲み物は断ったが無料でいいと言われたのでありがたく貰った。一口飲んでみると、その瞬間。某は言葉を失っていた。異世界に来てからまともな料理や飲み物を食べていなかったおかげで完全に死んでいた味覚がよみがえったのを感じた。
「......美味いっ!!」
爽やかな酸味のある飲み物で、果物を絞ったものであったのだろう。某はこっちの世界に来てから初めて果物を食したと言っても間違いなかった。というのも、これまで、果物の類は一度も手を出せたことが無かったのだ。そもそも、普通の食事でさえ量が足りていないのに普段の食料の数倍~数十倍の値段がつく果物を買う余裕なんてあろうはずも無かった。
それ故に、貰った飲み物を飲んだ際の幸福感というか満足感というか。それは計り知れぬものがあった。とはいえ今は試験中であり、木製のコップを返すと即座に某は走り出す。ふと振り返るとその店にものすごい人だかりが出来ていた。
どうやら某は大いに店の売り上げに貢献することになったらしい。少し納得がいかぬが、ただで良い物を飲ませて貰ったのだ。良しとしよう。
「アドリューンがあまりにも美味しそうに飲むから私も思わず一杯買ってしまいました。あの店主は慧眼ですね。周囲の人の注目が集まっているアドリューンに無料で飲み物を差し出すなんて......私も少し学べることがあるのかもしれません。しかし、アドリューン。いつもこの調子なのですか? かなり人気があるようですが」
「うむ。毎日母上と修行しているうちに自ずとこうなっていたのでござる。今では市場を通るだけでこれで少し困っているのでござる。ただまあ悪い気はせぬでござるが」
ちやほやされる芸能人とはこのような気持ちであったのでござろうか? とはいえ、変装するにしても皆がほぼ同じ格好をしているこの異世界では確実に浮いてしまうがゆえに別の意味で注目が集まって意味が無いであるし。諦めるしかないということであろうな。
そうしてしばらく走って市場を抜けると貧民街の入り口へとたどり着く。すると、きっと糞尿を被ってしまったのだろう。全身ぐしょぐしょの人が某たちの横を通過していく。
近づくにつれて少しずつベルノさんから生気が失われていくように見えるが大丈夫であろうか?
某、少し心配に......いや、試験官の立場であるベルノさんを心配するのはお門違いというものであろう。某は自分の修行の成果を見せることにだけ全力を尽くせばよいのだ!
と、思ったが、ベルノさんが口を開く。
「アドリューン、ここで製材所に戻りませんか? ここまで来て息一つ切らしていないんです。半年前のあなたの情報が本当であるのならば、信じられないと思わず目を疑いたくなるほどです。それほどまでにあなたは努力したんです。親方には私から想像以上に素晴らしかったと報告しておきます。ここで無理する必要だってありませんしね」
む? ここからが肝要であろう。確かに、製材所から貧民街の入り口の往復に某は修業期間の三分の二を使ったでござる。かけた時間という面で考えるならば修行の中でも本命である部分は終わっている。だがしかし、だがしかしである! 某の最も苦労したこの2ヶ月! それを見せずして帰るなど決してあってはならぬのでござる。
「お気遣いは感謝するでござるが、某、貧民街の大通りを無傷で走れるようになるために昨日まで地獄のような二ヶ月を過ごしたのでござる。それに、某、ここで折り返しては親方に言われた、製材所から家まで走ってたどり着くという目標すらも達成できていないことになってしまうでござる。全力でやって達成できないのならまだしも、楽をするために嘘をつくのは某の目指す『侍』ではない故」
某の言葉を聞いてベルノさんはがっくりと肩を落としたのが分かった。そんなに貧民街が嫌なのであろうか?
「分かりました。では行きましょうか。私はアドリューンの後ろを走りますから、先導よろしくお願いしますね」
「分かったでござる」
そう言って、貧民街の大通りを走ったが、ベルノさんが言葉にするのをはばかられるほど可哀想で仕方なかった。それに加えて、母上の方針が異常だったということもベルノさんを見て思い知った。確かに、貧民街で修行している最中に某は頻繁に糞塗れになったし、道行く人たちにだって時々糞に当たっている人がいるのは知っていたのである。だがしかし、経理であっても某の修行の成果の確認を任されるほどには動ける筈のベルノさんが晒した醜態で、某は本当の意味で気づいてしまったのだ。
いつも貧民街を全力で走る人々は糞尿に当たる確率を少しでも下げる為に走っていると。
そう、よく考えてみれば母上がおかしすぎたのだ。貧民街を走って十割糞に当たらずに走り抜けられる人間が一体どれほどいるだろうかと。
今のベルノさんの状態を形容するのならば、修行を始めてすぐの某。糞尿を避けようと建物を見れば、ボコボコの道に躓き、逆に転ばずに走ろうとすれば、死角から降ってくる糞尿に当たる。
結局、某の家に着くころにはベルノさんはぐしょぐしょになってしまっていた。
ここで、ベルノさんに何か拭く物は必要かと聞いたが、どうせ帰り道でも同じことになるから要らないと言われればそれまでである。
「しかし、アドリューン。まさか、あなたには跳ねのひとつも飛んでいないとは。二か月前からこの貧民街を走り抜ける修業を始めたんですよね? 二ヶ月でどんな修行をすればその様な境地に至れるのですか......」
言えない...... 四六時中母上にまとわりつかれ、服を汚せば飯を減らされ、笑い者にされ、八つ当たりすれば飯抜きで、何かが出来るようになるたびに少しずつ目標が上方修正されていったなんて......ん? もしかして某、かなりとんでもないことしてない?
ふと、ベルノさんを見てみると某の表情から何かを察したのだろう。表情が凍り付いていた。
「分かりました。なんだか聞いてはいけないもののような気配を感じましたのでこれ以上は聞きません。さあ、製材所へ戻りますよ」
「分かったでござる。ただ、修行内容については別に言っても――」
「行きますよ。アドリューン」
「......分かったでござる」
結局、帰りはベルノさんに糞尿が当たることは無かったようだが、帰りは建物を見ることを諦めて全力疾走したベルノさんのせいで貧民街の大通りで某は置き去りにされてしまった。やはり、製材所のナンバー2を名乗るだけあって単純な運動能力では某よりはるか遠くにいるらしい。
その後、普段出来る人であるはずのベルノさんが糞尿まみれになっているのと某が無傷で戻ってきたのを見比べて、親方が大爆笑したのはなんだかベルノさんにとても申し訳ない気持ちになったのである。
ただ、そのあと、ベルノさんの為に用意されたお湯がとても羨ましかった。平民になれば風呂に入れるのであろうか? そもそも平民にはどうやったらなれるのであろうか? まずはそこから知っていくしかないのであろうな。
基本的に貧民街に住む住人たちは糞尿に当たる可能性を少しでも下げるために全力で走っています。まあ、歩いていたら咄嗟の回避もできませんからね。
とはいえ、貧民街の中で100%糞尿に当たらないのは全住民のうちの1%もいません。貧民街でそんなレベルなのに、いくら運動できるといっても生活圏でない平民のベルノさんが糞尿に当たらず走れるわけがないんですよね。
あ、貧民と平民の違いについてはちょっとずつ本編で出していこうと思っております。お楽しみに!




