侍の心得其十二 貧民街の有名人
某と母上は親方と話し終わった後、早速修行を始めることになった。と言っても、まずは、歩くことからである。くうう、なんとレベルの低いことか。普通、異世界転生といえば、もう少しまともなというか、きっかけ次第で最強の肉体を持てる筈であろう! 別に修行は嫌いではないが、歩くことから始める修業とは如何なものであろうか。
「こらあっ! アドリューン! 何をへばっとるんだ! その程度でへばっているようでは誰も雇ってなどくれんぞ!!」
「うふふ、アドリューン、何を倒れているのかしら。ほら、立って立って! そんなじゃいつまで経っても家から製材所まで一人で行けるようにはならないわよ!」
そう、某は今、それも、貧民街にあと数メートルで入るという場所で見事に倒れていた。というのも、これまでは母上に自分の荷物は預けて、手を引いてもらったり、背負ってもらって歩いていた道のりなのだ。我ながら情けないかぎりではあるが、初日にしては頑張った方だと思うのでござる......
「ぬ、ぬう。も、もう少しだけ待って欲しいでござるぅ......」
某は今、碌に掃除されていない石畳の上に頬をつけ、倒れこんでいるというわけでござる。正直、汚いし、臭すぎる故に早く立ち上がりたいのであるが、一度倒れこむと全身を襲う疲れのせいで動けたものではないのだ。
それに加えて、修行を任された母上は分かるが、何故か親方まで某に向かって野次を飛ばしている。本当に来るとは......某、あの言葉は冗談だと思っていたでござるに。
こうやって倒れているところにあのピカピカ頭で野次を飛ばされると思わず殴りたくなってくる。非力な某では殴ったところで蚊ほども痛痒を与えられるとは思えぬが。
「はあ、はあ、親方、仕事の方はいいのでござるか?」
「ん? ああ、問題ない。俺の仕事は部下のミスをカバーしたり、監督したりすることだからな。つまり、こうしてここに居るのも仕事の一環ってわけだ」
これも親方の仕事の一環ってことであろうか。だが、納得いかぬ。仮にも親方、職場の責任者がここに来るのは色々問題があるのでござらんか?
「まあ、それは建前で、本音としては、黙々と加工されてゆく木材とそれを加工する暑苦しい男どもを見てるよりここで野次を飛ばしてる方が面白いってわけよ! それに、俺が野次を飛ばすとお前は嫌そうな、良い顔するからなあ。最近、お前にやられたことでちょっと部下共になめられてるから、その意趣返しもあるってわけよ」
親方の頭が心なしか光量を増している気がした。
どうやら、親方の頭は親方のテンションと直結しているらしい。それに加えて、にへらっと某をからかうようにこちらに笑顔を見せていた。
な、ほぼ嫌がらせではないか! ぐうう。
それでも、やはり、某の体は限界らしい。某の手足には某の細い体を支える力も残っていないらしい。某が持つべき荷物を持って、母上に手を引かれず自分の力だけで市場を抜けただけでこのザマとは、某、本当に言われた期間で走って製材所までいけるようになるのであろうか......
「もう、埒が明かないわね。まあでも、アドリューンが手を抜く子じゃないのは分かってるから今日はこの辺にしておこかしら。無理させて熱出して動けなくなっちゃ手遅れだものね。今日は私が家まで運んであげるわ」
「よろしく頼むでござる」
そう言うと、地面に倒れこむ某をひょいっと持ち上げた母上は相変わらずのスピードで貧民街を駆け抜ける。むう、しかし、某初めてのお姫様抱っこがまさかされる側だとは......解せぬ。
今日は糞尿が降ってくることは無かった。母上曰く、この時間は皆働きに出ている時間だから、糞尿が降ってくる確率が低いということらしい。ならば、わざわざ糞尿の振ってくる時間に仕事へ行く必要は無いとか、決めた時間に糞尿を捨てれば良いのではないかとも思ったのだが、それを察した母上に糞尿と一緒に生活したいかと聞かれれば否と答えるしかなかった。
そうこうしているうちにあっという間に家についた某は軽く体をボロ雑巾のようになったタオルで拭かれた後、問答無用で母上にベッドの上に寝かされていた。
「じゃあね、アドリューン。私はアドリューンが動けなくなって暇だから、製材所で手伝ってくるわね。まだ薬代も返せてないしね。夕方になって帰ってきてから何か作るからそれまで寝ているのよ」
「分かったでござる」
そう言って母上が家から出て行ったのを確認した後、某は寝返りすら厳しい程に疲れ果てたままの体で眠りにつくのだった。
某は頑張った。といっても、修行だからこそ頑張るのは当たり前であるのだが。
一ヶ月で某は、製材所から、市場まで息切れせずに歩けるようになった。
二ヶ月で某は、製材所と市場を歩いて往復出来るようになった。
三ヶ月で某は、製材所から市場まで走れるようになった。
四か月で某は、製材所から市場までを走って往復できるようになった。そしてめでたいことに某は遂に昼間のベッド生活を卒業することに成功していた。更に、四ヶ月の間で気候も随分と変わっていた。修行を開始した時は幾分か涼しい気候であったはずなのに、今では照り付ける暑い日差しがじりじりと体力を焼いている。
異世界だから、某の見知らぬ気候になるのかとも思ったのであるが、どうやらこの地域では、今のところ日本のような温帯~亜熱帯の気候にあると考えてよさそうである。この雰囲気だとあと数ヶ月で雪が降るかもしれぬ。某、前世では直接雪というものに触れたことが無いから少し楽しみでもある。とはいえ、かなり慣れてはきたものの、暑くなったことによる弊害か、糞尿の臭いが酷い。こればかりはどうしようもないだろう。
最近は某がなかなかへばらなくなったせいでからかい甲斐が無いらしく親方が某の修業に顔を出すことも減っていた。まあ、単純に夏場になって、作業効率が落ちて親方が出ざるを得ない可能性もあるのであろうが。
「さあ、アドリューン! そろそろ市場と製材所の往復から、製材所と貧民街の往復にするわよ! いくら、市場と製材所が往復出来ても、意味が無いわ。親方から出された課題は自宅と製材所を走って往復すること。それに、一番大変なのは貧民街から市場だもの」
「ん? 母上、親方から出された課題は往復ではなくたどり着くことではなかったか? つまり片道......」
「あら? アドリューンは片道ギリギリたどり着ける程度の体力で仕事が出来ると思っているのかしら? それに、この修業期間が終わったら母さんあなたを背負ってあげる気なんて毛頭ないわよ」
「ぬ......ぬう。分かったでござる」
母上はスパルタであった。前世基準で話すのならば、こんな小さいうちから過度なトレーニングをすれば、骨や筋肉が運動の負担に耐えられず怪我や成長阻害に繋がるのだが、こちらの世界に来てからそんな気配が全く無いのである。少なくとも、こちらの世界に来てから、疲労は筋肉痛という形ではなく、昏倒という形で現れるのである。
疲れを感じてしばらくすると突然体が動かなくなるのである。これも異世界特有の現象なのであろう。とはいえ、倒れるたびに少しずつではあるが、長く動けるようになっているのは歩くだけで精一杯であったこの四ヶ月の軌跡が証明した。この調子であればあと二ヶ月の期間があれば往復も出来るようになるであろう。
そんなことを考えているうちに某は修行のスタート地点であった製材所から市場へ母上と共に走り出す。この四ヶ月の道中で某、市場では有名人になっていた。【飛脚】とその息子が毎日修行をしている。それだけで十分目立つのに、最近では誰がバラしたのか、修行をしている子供は製材所の親方に土をつけたらしい。だとか、よくあの親方が見に来るが故に親方のお気に入りらしいといった噂もまた貧民街では知らぬ者がいない程には広がっていた。
「お、今日も朝早くからお疲れさん! 頑張れよー!」
「あらあら、ついこの前まで歩いてるだけで死にそうな顔してた子がここまで走れるようになるなんて流石メリアの息子ってことかしら」
「おうおうおう! 将来の有望株様がお通りだぞー! 道を開けろぉ!」
ぐ、やめぬか。某は静かに修行がしたいだけなのである。何故、わざわざ周囲に喧伝する必要があるであろうか? いや、断じて無い!
某の顔は今、きっと赤くなっているであろう。というか、母上も母上である。わざわざこんな道を選ばずとももっと人通りが少ない場所があるであろう?
「ぬぬぬうううう」
某の苦悶の表情を見て、母上が「あらあら、アドリューンは恥ずかしがり屋さんね、毎日通るんだから、慣れてしまえばいいのに」とでも言いたそうな顔をしている。母上、某の奥ゆかしき日本人精神は抜けていないでござるよ! 公開羞恥プレイは勘弁してほしいでござる!
という言葉を母上に言ってみたが、なら、住宅街の大通りや裏路地で修行する? 糞尿まみれになっても綺麗になんてしてあげないわよ? なんて言われてしまえば、どうしようも無かった。羞恥と糞尿。究極の二択を迫られて羞恥の方がマシだと納得するしか無かったのであるから。
そんな羞恥街道を通過し、いつもなら、貧民街の入り口で羞恥街道へ引き返すのであるが、今日は違う。遂に某は、自分の足であの大通りを走るのだ。ああ、神よ! 某に汚物をも退けるほどの神聖な御力をお貸しください。
「さて、アドリューン勿論分かっているわよね? ここで糞尿でも被ろうものなら、仕事なんてできたものじゃないわよ? つまり、糞尿をすべて避けることは最低条件。でも、アドリューンの目指す『侍』なら、跳ねた糞尿まですべて避けらるくらいはするわよね? ふふ、安心して。今日から二ヶ月あなたがどんなに糞尿まみれになろうとちゃーんと面倒は見てあげるから!」
「分かったでござる。よろしく頼むでござる......」
――ああ、神よ! どうやら某が糞尿まみれになるのは確定のようでござる。それに、母上なんだか鬼ではござらんか? しれっと色々条件を加えすぎでござるぅぅぅぅ。跳ねも飛ばさずって一体どうすれば良いでござるかあああああああ――
やっと侍の心得其六の最後の声の主を明かせましたね。親方の冷やかしでした(汗
さてさて、ペストが流行った頃の中世西洋では、家の窓から糞尿を捨てていたと記憶しております。アドリューンの居る貧民街はその強化版だと思って頂けるとありがたいです。
書いてて思うけど、アドリューンよ。強く生きてくれ......酷い作者でごめんね。




