緊急の定義
午前十時四分、店からの電話を取った瀬尾の声が半音だけ低くなった。
「確認します。いま、お店の画面に予約が一件も出ていないんですね」
俺は自分の画面から顔を上げた。瀬尾は受話器を耳に当てたまま、空いた手でメモに大きな丸を描く。円の中に「今日」と書いた。
今日の予約が見えない。客は来る。店は席を用意できない。
頭の中で、まず出口までの距離を測ってしまった。ここから店まで電車で二十分。今すぐ向かえば、昼の営業には間に合うかもしれない。
椅子を引いたところで、岸本さんと目が合った。
「久世、どこへ?」
「店へ。現場の予約を確認します」
「必要なら行ってもらう。まず、いま店に何が見えていて、何が見えていないか聞こう」
声は穏やかだったが、俺の椅子はそこで止まった。前なら「急げ」と言われる場面だ。何を待っているのか分からず、手だけが机の端をつかむ。
瀬尾が電話を保留にして、メモを俺たちに向けた。画面は空白。朝、客に届いた予約の確認メールは残っている。店主は紙の控えを二件持っているが、昼に何人来るのかは分からない。
「店の人、怒ってるというより怖がってる。『お客さんが来てから断るのは嫌だ』って」
岸本さんは頷き、俺の前にメモを置いた。
「久世は今日の予約の数を調べてくれ。瀬尾は店へ、分かっている二件から席を確保してもらうよう伝えてくれる? 俺は調査担当を呼ぶ。十一時に一度、状況をまとめよう」
「十一時まで待つんですか」
「客は待たせない。店には今すぐ折り返す。調査の状況を十一時に確認するだけ」
緊急なのに、全員が別々の役割を持った。
俺が見られる一覧には、今日の予約が六件あった。うち二件は店の紙の控えと一致する。残り四件の客が店に来る前に、知らせなくてはならない。俺は予約番号を読み上げ、瀬尾が店の人と照らし合わせた。
「その四件、私から連絡する。店側の席は空けられるって」
「俺も電話します」
「久世は、まだ予約が増えてないか見てて。二人とも電話したら、新しく入った分を誰が見るの」
言い返す言葉がなかった。俺は画面へ視線を戻し、入ったばかりの七件目を見つけた。瀬尾へその番号を渡す。
調査担当が席まで来て、店の画面だけ更新が止まっていると説明した。原因の詳しい名前は、俺にはまだ分からない。ただ、予約のデータそのものは残っていて、客への確認メールも届いている。店側で見られない部分を復旧するのに、少し時間が要るらしい。
「紙で確認できる一覧、出せますか」と俺は聞いた。
「出せる。店へ送る前に、二人で数を照合してくれ」
その返事で、店へ走るつもりだった足に、ようやく別の仕事が与えられた。
十一時前、六件と、新しく増えた一件を確認した一覧を店へ送った。瀬尾が電話で一件ずつ読み合わせる。店主が「ああ、あの方ね」と答える声が、受話器からわずかに漏れ聞こえた。
店の画面が復旧したのは、十一時二十三分だった。昼の客はまだ一人も来ていない。瀬尾が最後の連絡を終えたところで、俺はようやく息を吐いた。
「久世、最初に店へ走ろうとしただろ」
岸本さんが俺の椅子の背にもたれず、横から声をかけてきた。叱られると思い、背筋が伸びる。
「行けば早いかと」
「行ってくれたら助かる状況もあるよ。でも今日は、ここで予約を見てくれる人が必要だった。店へ行く役は、本当に必要になってから決めればいい」
「……はい」
「緊急ってのは、一人が全速力になるって意味じゃないから」
そんな定義は、初めて聞いた。だが、七件目の予約に気づけたのは、この席に残っていたからだ。
昼休み、瀬尾が売店の袋を机に置いた。
「電話に出てたら食べる時間なくなった。久世は先に食べててよかったのに」
「七件目が入ったから」
「それは午前の話。いまは昼休みの話」
彼女は袋からおにぎりを取り出し、一つを俺の前に並べた。買ってきてくれたらしい。
「代金は払う」
「うん。あと、ちゃんと食べる。両方やって」
俺が財布を出すと、瀬尾は電話で酷使した喉を水で潤した。彼女も休むのだと分かって、俺はおにぎりの包みを開けた。
塩の味がした。急ぐ必要のない昼食は、まだ少し落ち着かない。
午後、店から「助かった」と短い連絡が届いた。返信の担当欄には、俺だけでなく三人の名前が並んでいた。
俺はその名前を消さず、次に同じことが起きたときの手順へ写した。誰が店に説明し、誰が予約を見て、誰が復旧の担当者を呼ぶか。
名前の入る空欄を、ひとつではなく三つ作った。




