有給の申請欄に理由はいりません
社内掲示板には、「今年の有給休暇、早めに予定を考えてください」と案内が出ていた。
初出勤から五日目の俺にも届いている通達だ。有給という制度そのものは知っている。大学の友人たちも内定先の休暇日数を比べていたし、俺自身も入社前に就業案内へ目を通していた。だが、実際に誰かが休む場面を想像すると、その空いた穴を埋める人間の顔がどうしても浮かんでしまう。
宮内さんが休んだときは、岸本さんと瀬尾が業務を引き継いだ。次に瀬尾が休むなら、俺も手伝えるはずだ。それなら、俺が前もって全員の予定を聞いておき、重ならないように調整しておけばいい。
朝の仕事を終えたあと、俺は自分の机で小さな表を作った。誰がいつ休む予定なのか。店への連絡は誰が代わって受けられるか。まだ教わっていない作業の欄にも、自分の名前を書き込める余白を残しておいた。
「久世、それ何?」
瀬尾が画面を覗き込んできた。
「誰かが休んだとき、困らないようにするための表だ」
「私の来月の欄、空いてるよ」
「まだいつ休むか聞いてないからな」
「そうじゃなくて。私が誰かの代役に入る欄のこと。これ、全部久世の名前になってる」
「今のところ、俺には休む予定がないから」
「予定がないと、仕事が増えちゃう仕組みなの?」
瀬尾は冗談めかして言ったのだろうが、俺はすぐには言葉を返せなかった。手が空いている者が代わりに動けば、休む側の気は軽くなる。少なくとも、俺がかつていた場所ではそうだった。
岸本さんにもその表を見せた。彼は斜め読みすることなく、俺が書き入れた印を一つひとつ目で追った。
「助かる視点だな。ただ、担当の割り振りを決めるのは俺の仕事だ。君が全部引き受ける前提で組んでしまうと、今度は君自身が休めなくなる」
「俺の休みは後回しで構いません」
「後で決めるのはいい。だけど、最初から取らない前提にするのは駄目だ」
岸本さんは俺の名前をその場で消しはしなかった。ただ表を閉じ、「希望が出揃ったら、俺が業務量を見て割り振りを決める」と言った。俺は知らず知らずのうちに、会社が負うべき責任を自分の善意で肩代わりしようとしていたらしい。
午後、白峰さんから新入社員向けの休暇案内が届いた。画面の指示に従って進めると、申請手順には日付を選ぶ項目があるだけだった。理由を書く欄はどこにもない。
人事である白峰さんは、どうして休みたいのか理由を聞かないのだろうか。休む理由がなくても休んでいいのだとしたら、いったい何を根拠に承認されるのだろう。
画面を見つめたまま考えていると、白峰さん本人が運用チームの島へやってきた。俺ではなく岸本さんの席の横に立ち、来月の休暇の交代予定について言葉を交わしている。「業務に穴が開く日を出さないようにしたいんです」と言う白峰さんに、岸本さんは「全体の割り振りはこっちで調整するよ」と答えていた。
それぞれ役目が違うのだ。二人が話し合うことで、仕事が誰か一人へ偏らないようにしている。
用件を終えた白峰さんが自席へ戻ろうとしたため、俺は廊下まで追った。
「申請画面に、理由を書く欄がありませんでした」
「はい。日付だけ選んでいただければ大丈夫です。業務の引き継ぎについては、岸本さんと相談してくださいね」
「休む理由を聞かれたりはしないんですか」
「私からは聞きませんよ」
「……そうですか」
それで会話は終わるはずだった。けれど、白峰さんの手元に細い紙袋が提げられているのが目に入った。パン屋の名前が印字された袋は、口がきれいに折られたままだ。
「白峰さんは、昼食を?」
彼女は紙袋を見下ろし、少しだけ眉を上げた。
「食べる予定です」
「もう三時ですよ」
昨日の自販機の前で彼女に言われた言葉を、そのまま返してしまっていた。白峰さんは困ったように小さく笑い、紙袋の口を少しだけ開けた。中には手つかずのパンが一つ入っている。
「面談が続いてしまいまして。帰宅してからいただきます」
「今、十分くらいなら」
言いかけて、口をつぐんだ。俺が休憩を指示できる立場ではないし、昨日の彼女がそうしてくれたように、食べるかどうかを選ぶ余地は残しておくべきだ。
「休憩室、空いてましたよ。俺もお茶を淹れてきます」
白峰さんは袋を閉じないまま、「ありがとうございます」と答えた。
休憩室には誰もいなかった。彼女がパンを一口かじる。俺は紙コップにお茶を注いだが、気の利いた雑談は思い浮かばなかった。
「昨日はすみませんでした」と、先に切り出したのは彼女のほうだった。「お怪我のこと、唐突にお聞きしてしまって」
「気づいてもらえて助かりました。あのときは空腹で手が震えていたので」
「それなら、よかったです」
彼女はパンを持つ手を止めた。俺の体がなぜあれほど早く治ったのか、まだ聞かない。もし聞かれたとして、俺はどこまで話せるのだろうか。
「久世さんは、周囲の休みのことを考えてくれていたんですね」
「自分の欄だけ、決めていませんでした」
「私も、今日の休憩時間を予定に入れていませんでしたから」
笑い合うほどの軽さはない。それでも二人で紙袋と紙コップを見つめていると、どちらが無理をしているかと言い訳を競い合う気も抜けてしまった。
「休みたい日が決まったら、申請します」
「はい。私も次は、パンを食べる時間を先に確保しておきますね」
席へ戻ると、岸本さんがさっきの表を開いていた。俺が全員の代役に入っていた欄には修正線が引かれ、代わりに「全体の人数を見て調整」と書き直されている。
自分の予定を書き込む欄は、まだ空白のままだ。
帰りの電車の中、俺はスマートフォンで駅前にある飲食店の写真を眺めた。休みの日を過ごすためではなく、今夜は何を食べたいかを選ぶために。食べたいものを考えるのが、案外難しかった。
結局、気になったのは昨日対応した小さな食堂の料理だった。客の予約が無事に入ったあの店で、俺もいつか席を取ることができるだろうか。そこまで考えて、俺は仕事用の通知画面を閉じた。




