隣で笑っていた理由
白峰さんと仕事帰りに入った定食屋で、俺は鯖の塩焼き定食を選んだ。
昼にも魚を食べた気はしたが、腹は正直だった。彼女は卵とじの定食を頼む。料理の本を買ってから卵料理ばかり選んでいるのかと尋ねてみると、彼女は少し誇らしげに口元を緩めた。
「自分で作るのと、お店で食べるのは別物ですから。食べ比べて研究しているんですよ」
「研究熱心ですね」
「最近になって、やっと自分のための研究を始められたんです」
その言葉を聞いて、俺は箸を取る手を止めた。業務で誰かの顔色を窺い、気を配り続ける彼女の姿ならよく知っている。だが、自宅の台所で一人分の卵を焼くとき、彼女が何を考えているのかは知らなかった。
「うまく焼けましたか」
「最初は、フライパンに全部くっついてしまいました」
「料理本には、そんなこと書いてなかったでしょう」
「『焦げつきに注意』とは書いてありました。でも、注意しているだけで勝手に剥がれてくれると思っていたのかもしれません」
白峰さんが小さく吹き出し、俺もつられて笑った。彼女はしばらく茶碗を手にしたまま、何か言葉を探すように間を置いた。
「この前、商店街から高瀬さんと戻ってくるところを見かけました」
「昼の店を案内した日ですか」
「ええ。二人とも、とても楽しそうに見えて」
俺は箸を置いた。もし高瀬さんの仕事に関する相談なら、まず岸本さんへ上げるべき話だ。白峰さんは人事の担当だが、いまの彼女は仕事の相談を持ちかけるような顔をしていなかった。
「いいことなんですよ。久世さんが、周囲の人と自然に笑い合えるようになるのは」
「白峰さんとだって笑っています」
「はい。でも、私の前だと少し考えてから笑うでしょう。あのときは、迷わずすぐに笑っていましたから」
責める口調ではなかった。それでも俺は、焼き魚の小骨を避けるときよりも慎重に言葉を選んだ。
「高瀬さんとは、道を間違えたり、店を選び損ねたりして笑ったんです。俺も教えているつもりで、現地の看板の見方を教わって」
「そうだったんですね」
「白峰さんといるときは……どう思われるかを考えてしまうんです」
彼女が顔を上げた。口にしてから、仕事での立場を気にしているように聞こえたかと焦った。
「人事だからじゃないです。俺が、白峰さんと一緒にいる時間を大事にしたいから」
立ち上る味噌汁の湯気が、二人の間を静かに抜けていった。白峰さんは小さく息を吐き出す。
「私も同じです。……少しだけ、羨ましかったのかもしれません。久世さんがあんなふうに、気軽に話せる相手ができたことが」
「白峰さんに対して、気軽に話したくないわけではなくて」
「はい。いまの言葉で、ちゃんと分かりました」
彼女は卵とじを一口運んだ。俺も鯖へ箸を戻す。話したあとの沈黙は、話す前より落ち着いていた。
「あの映画を見たあと、古本屋でこれを見つけたんです」
白峰さんが鞄から薄い紙の束を取り出した。かつて上映された映画のパンフレットだった。角がわずかに擦れている。
「上映が終わったあと、こうしてもう一度読み返すのが好きなんです。見逃していた場面に気づけますから」
「俺なら、見逃した場面があると知ったら悔しくなりそうです」
「だから、もう一度見たくなるんですよ」
「俺なら、もう一度行くなら別の映画を見たいですね。見終わったあとに寄る店も変えて」
「それも、いいですね」
パンフレットを鞄へしまう彼女の手が、以前よりも近くに感じられた。仕事の話を避けると決めたわけではない。それでも今は、次に見る映画と、隣の店で出す甘味についての会話が自然と続いていた。
店を出ると、夜の風はまだ少し肌寒かった。白峰さんが「次の休みの候補、二つほど見つけておきますね」と言い、俺は「食べる店は俺が探しておきます」と返した。どちらも、相手の仕事を増やすような約束には聞こえなかった。




