昼休みの地図
高瀬さんに昼食の店を案内するため、俺はオフィスを出る前に三つのルートを考えていた。
一番近いのは駅側の定食屋。雨でも屋根の下を歩けるのが商店街。少し遠いが待たずに座れるのは裏通りの麺の店。昼休みの長さと往復の所要時間を計算し、俺は商店街のルートを推すことに決めた。
「選択肢は三つあります」
会社の玄関を出るなり告げると、高瀬さんは足を止めた。
「今から会議ですか?」
「昼食です」
「なら、歩きながらでも聞けますよ」
そのとおりだった。俺は商店街の方へ歩き出し、定食屋は席が埋まりやすく、麺の店は帰り道の信号待ちが長いと順を追って説明した。高瀬さんは頷きながらついてきたが、通りの角を曲がったところで古い手描きの地図看板にふっと近づいた。
「ここ、手描きなんですね」
看板には小さな店が色鉛筆で描かれ、道幅は実物よりだいぶ広い。目的地までの正確な距離を測るには、まるで役に立たない。
「迷いそうなら、俺が案内します」
「迷ってないですよ。パン屋の横に花屋さんがあるの、絵の方が覚えやすいなと思って」
彼女は看板の端を指さした。パンの絵から二軒先に、小さな鉢植えが描かれている。昼食を取る店ではない。高瀬さんはそこへ行きたいと言うわけでもなく、しばらくその絵を眺めていた。
「地図は、よく見るんですか」
「初めての場所だと、看板を先に見ますね。スマホの点だけ追ってると、お店の入口を通り過ぎちゃうので」
俺は目的地までの最短路を頭へ入れる。彼女は、そこへたどり着いた人がどこで立ち止まるかを見ている。どちらが正しいという話でもないのだろう。
商店街の中ほどで、俺が候補に挙げていた定食屋の前を通りかかった。予想していたよりも空いている。入口の黒板には「限定・鶏の照り焼き」の文字があった。高瀬さんが歩みを緩める。
「ここ、入ってみたいです」
「商店街の奥にも、料理が早く出てくる店がありますよ」
「早く出たいわけじゃないんです。照り焼きが好きなので」
俺は言葉を呑み込んだ。ここまであれこれ店を紹介しておきながら、彼女自身の希望を聞いたのはこれが初めてだった。
「……じゃあ、ここにしましょう」
「はい。久世さんは何が食べたいですか?」
「俺も、照り焼きにします」
「無理に同じにしなくてもいいんですよ」
「本当に食べたいんです」
以前の俺なら、こういう返事をするたびに自分の本心を疑っていただろう。だが今は、黒板の文字を見ただけで素直に腹が鳴った。高瀬さんは小さく笑い、先に暖簾をくぐった。
料理を待つ間、彼女は紙ナプキンの端にさっきの地図看板をさらさらと小さく模写していた。店の前に置かれていた植木鉢が、一点だけ描き足されている。
「覚えておきたいんです。あれがあると、戻るときに目印になるから」
「店の名前より、植木鉢なんですね」
「お店の名前はスマホの画面にも出ますから。鉢植えは、実際にここへ来ないと分からないでしょう?」
言われてみればそうだ。仕事では店からの連絡を画面で追っている。実際に道へ立つ人の目線まで、自分のものにしたつもりでいた。
運ばれてきた照り焼きは予想以上に熱く、俺は一口目で慌てて舌を引っ込めた。高瀬さんは湯気を立てる皿を見やり、先に味噌汁を口に運ぶ。
「白峰さんがいたら、今の、見つかってましたね」
俺がぼやくと、高瀬さんは不思議そうに首を傾げた。
「人事の方が、お昼ごはんの様子まで見ているんですか?」
「……俺が分かりやすいだけです」
それ以上はうまく説明できなかった。白峰さんが俺の火傷を気にしてくれたのは、人事の担当者としてだけではなかったのだから。
帰り道、高瀬さんはさっきの看板をもう一度確かめ、植木鉢のある角を迷うことなく曲がった。俺は彼女の少し後ろをついて歩く。最短のルートではなかったが、昼休みの時間はまだ十分に余っていた。




