新人の隣の席
高瀬梓さんがやって来る朝、俺は空いていた隣の机を三度拭いた。
三度目は汚れを落とすためではない。机の端に置いた筆記具が、電話のコードに引っかからない位置にあるかを確かめたかったのだ。初日に何かを落として壊してしまうような心配を、彼女にさせる必要はない。
「そこ、もう顔が映りそうだよ」と瀬尾が言った。
「まだ埃が残っていた」
「さっき久世が運んできた埃でしょ」
言い返そうとしたところへ、岸本さんが本人を連れてやってきた。
「高瀬さんだ。大学二年生で、週に二日こちらへ来てもらうことになった。最初の仕事と予定は俺が決めるから、久世は隣で記録の読み方を教えてやってくれ」
高瀬さんは背筋をピンと伸ばして頭を下げた。俺も慌てて立ち上がる。前世で上官の前に立ったときよりも緊張していた。
「久世直人です。分からないことがあれば、聞いてください」
「はい。よろしくお願いします」
俺は整えた机へ案内し、電話が鳴ったときは誰が取るのか、社内で急ぎの連絡をどこへ回すか、困ったときの岸本さんの席はどこかを順に説明した。口にしてみると、最初の五分だけでもこれほど伝えるべきことがある。
「それと、退勤の時刻についてですが」
「久世」
背後から岸本さんの声が飛んできた。
「そのあたりは俺から説明済みだ。まずは鞄を置いてもらおう」
見れば、高瀬さんは鞄を両手で抱えたまま立っていた。机を拭くことに夢中で、荷物を置く場所を空けていなかったのだ。俺は慌てて椅子の脇を空けた。
「すみません。ここ、使ってください」
「ありがとうございます。上着は、どこに掛けておけばいいですか」
俺が用意していた説明のどこにも、上着の置き場所は入っていなかった。瀬尾が壁際のハンガーを指し示す。
「空いているところで大丈夫だよ。お昼ごはんを食べる場所も、あとで案内するね」
「あ、それ一番気になっていたんです」
高瀬さんの肩から、すっと力が抜けた。電話の対応よりも先に、まずは昼食の場所。新入社員だったころの俺は、周囲に余計な荷物を持たせないことばかり考えていたから、彼女の順番が思いつかなかった。
岸本さんは今日の課題として、過去の問い合わせ記録を一件だけ読み込むことを指示した。実際に店へ電話をかける役割は、まだ渡さない。高瀬さんは画面と手元の紙の記録を見比べながら、店の名前を指先でなぞった。
「このお店、予約が届かなかったんですか」
「画面への反映が遅れていただけなんです。客側からの連絡自体は、きちんと店舗へ届いていました」
「じゃあ、ここに『届いていない』と書かれているのは、最初の受電の段階でそう見えたからですか?」
「そうです。あとから判明した事実とは切り分けて記録してあります」
彼女は納得したように頷き、記録の端へ小さく印をつけた。こちらが教えたこと以上に、最初に疑問を抱いたポイントが的確で、俺は内心で少し驚いた。
「ここは何が起きたんですか。『確認済み』と書かれているのに、そのすぐ下にまた別の折り返し時刻が残っていて」
「別の確認が残っていたからです」
「その『別の確認』がどれを指しているのか、ちょっと分からなくて」
俺は画面へ顔を寄せた。確かに、どこにも書かれていない。俺なら普段、前後の文脈から勝手に補って読み飛ばしてしまう箇所だった。
「これは分かりにくいですね。あとで岸本さんに、記録の残し方について確認してみます」
高瀬さんが不安そうに俺を見つめた。余計な指摘をして叱られた、と受け取ったのかもしれない。
「高瀬さんの読み方のほうが合っていますよ。俺だって、初めてこれを見たら同じ質問をします」
言い終えてから、今の自分に本当にそれができるだろうかと問い直した。経験が増えるほど、分かったふりをする場所も増える。
昼休みの前、高瀬さんが壁のハンガーから上着を取った。
「久世さん。お昼、一緒に行っても大丈夫ですか」
「もちろんです。近いお店なら、いくつか知っていますから」
「近い順に教えてもらえるんですか?」
「……いえ、食べたいものの順にしようと思います」
背後で、瀬尾が吹き出した。俺の机がどれだけ磨かれていたかよりも、今の返事のほうが、高瀬さんにとってはよほど役に立ったらしい。




