上官がいない朝
九時二十八分。昨日と同じ席には、俺の名前を書いた小さな紙がまだ貼られていた。
白峰さんの言ったとおりだった。少し安心してしまったのが悔しくて、鞄を置く音が大きくなった。
「おはよう、久世。今日は先にこれを見てくれ」
岸本さんから渡されたのは、昨日の予約の問い合わせをまとめた一覧だった。どの店から、いつ連絡があり、誰が折り返す予定なのか。俺の仕事は、返事待ちのものに印を付けることだった。指示は明確で、期限も昼まで。
つまり、そこから先は何も指示されていない。
だが十時になると、瀬尾が電話を二本続けて取り、その後ろで先輩の宮内さんが席を立った。机に残されたメモには「昼までに確認」の文字がある。誰かが見ておかないと、あとで困るはずだ。
俺は手元の一覧に印を付けつつ、宮内さんのメモにあった店についても調べた。瀬尾の電話が終わると、その相手の過去の問い合わせも探す。いつの間にか、自分の画面には三つの店の名前が並んでいた。
「久世、それ私の」
瀬尾が椅子ごと寄ってきた。
「電話、立て続けだったから」
「立て続けだったけど、終わったから」
「なら、こっちの確認は俺が続ける」
「どっち?」
俺が指差した画面を、瀬尾は順番に目で追った。宮内さんの店。瀬尾の店。俺が任された店。言われてみれば、三つとも途中のままだった。
「親切はありがたいよ。でも、途中で誰が何を店に約束したか分からなくなると、私が電話で困るんだよね」
「約束は記録する」
「記録した先まで、久世が全部持つの?」
返事に詰まった。そのつもりだった。余った仕事は、拾える人間が拾う。拾ったせいで俺の手が塞がる分には、他の誰も困らない。
岸本さんが近づいてきた。画面の三つの店を見て、空いていた椅子を一つ引く。
「久世。昨日、よく午前の連絡に気づいたな。今も誰が詰まりそうか見えているんだと思う。ただ、担当を変えるのは俺の仕事だ」
叱られる前に褒められたせいで、構えていた肩を下ろすタイミングを失ってしまった。
「瀬尾の店は瀬尾へ戻す。宮内さんのは戻ってから聞く。久世は自分の一覧を昼までに終わらせてくれ。気づいた不足があれば、俺へ言ってほしい」
「宮内さんが戻るまでに店から連絡が来たら?」
「俺が出る」
それだけで話が終わる。責任者というのは便利な役割だ。そう思った途端、誰か一人に負担を寄せていいのかと気になった。岸本さんは、自分で引き受けているのに。
自分の一覧へ戻ると、同じ店からの連絡が二行並んでいた。一行には「予約が見えない」、もう一行には「返事が遅い」。一見すると違う困りごとに見えたが、電話番号は同一で、時刻も近い。
俺は岸本さんに知らせた。
「この二件、同じ店の同じ人かもしれません。別々に折り返すと、二人から違う説明が届いてしまいます」
岸本さんは印を付けた紙を見て、頷いた。
「いい発見だな。誰が電話するのがよさそうだと思う?」
「最初に話を聞いた瀬尾です。俺は確認済みの内容を渡せます」
「じゃあ頼む」
瀬尾が店へ電話を入れた。相手は、夕方の予約が画面に出ないまま客から問い合わせを受け、返事を急いでいたのだ。俺が調べた時刻を瀬尾へ渡すと、彼女は「そのご予約はこちらで確認できております」と先に伝えた。店の人は話を聞く余裕を取り戻し、残る確認事項にも答えてくれた。
俺自身が電話口に出なくても、店の困りごとは一つ減った。
昼、瀬尾は弁当の蓋を開けながら、俺の机へ一枚のメモを置いた。
「ありがとう。これ、確認した時間を書いといたから。午後の折り返しには私が使うね」
「俺が電話してもいい」
「分かったうえで言ってる?」
「……半分くらい」
「残り半分は昼ごはん食べてから考えな」
手元には、朝買ってきたおにぎりが二つある。昨日の三杯目のカレーを思い出し、もう一つ買っておけばよかったと後悔した。
午後、宮内さんが席へ戻ってきた。岸本さんがメモについて確認を取り、宮内さん自身が店へ連絡を入れる。店の人は待っていたが、怒ってはいなかった。
「久世くん、見てくれてありがとう。次は、私に一言置いてくれると助かるな」
「勝手に進めてすみません」
「進めてくれたところは役に立ったよ。でも私、戻って仕事がなくなってたら、ちょっと怖いかも」
冗談めかした声だった。俺には冗談にしにくい。手を空けたいと思った相手から、その人の仕事を奪いかけていた。
夕方、岸本さんは翌日の担当を紙に書き留めると、机の端へ置いた。
「宮内さん、明日は休みだ。あの店への折り返しは俺がやる。久世は、今日やった確認を瀬尾へ渡してから帰ってくれ」
俺は宮内さんの席を見た。本人は頷いて、すでに鞄を閉じている。
一日いなくなるだけなら、何もおかしなことではない。頭では分かっている。なのに、「休み」と書かれたその欄から、しばらく目を離すことができなかった。




