初出勤、定時退社を命じられる
入社前夜、俺は玉ねぎに負けた。
包丁が滑って左の人差し指を浅く切った。それだけなら、絆創膏を貼って、明日の自己紹介で笑い話にするところだ。ところが、水で洗って絆創膏を探しているうちに血が止まり、傷の縁が思ったより早く寄っていた。
大した傷ではない。なのに台所の壁が遠ざかり、代わりに泥を踏む音がした。倒れても起こされ、起きればまた前へ出る。何度も死に、そのたびに戻された兵士の記憶が、頭へ押し寄せてきた。
ガルド。それが向こうでの俺の名だった。
冷蔵庫が低い音を立てた。見慣れた狭い台所に戻る。指には細い赤い線が一本残り、腹が急に鳴った。
俺は二十二歳の久世直人だ。大学を出て、明日から会社員になる。ガルドの記憶が増えたからといって、その二十二年間が消えたわけじゃない。まず火を止めた。次に玉ねぎを炒め直し、出来上がったカレーを二杯食べた。
三杯目をよそおうとしたとき、スマホに入社案内の通知が光った。
九時半集合。持ち物は筆記用具。初日は無理をせずに、と末尾にある。
無理をしない、という言葉を自分にどう当てはめればいいのか、眠るまで分からなかった。
翌朝、株式会社つづりのオフィスには、血の匂いも号令もなかった。代わりに焼いたパンの匂いがした。給湯室で誰かが朝食を温めているらしい。
「久世さんですか。おはようございます」
受付まで迎えに来た女性が社員証を差し出した。白峰玲奈。人事担当だと名乗る彼女は、俺が受け取ろうとして指を引っ込めたのを見て、カードの角をこちらへ向け直した。
「留め具、硬いんです。無理に引っ張ると指を挟むので」
「ありがとうございます」
危険を取り除いてから渡す。何でもない手つきに、昨夜見た戦場の断片が重なった。倒れた兵士のそばへ屈み、先に剣を脇へ退ける白い手。
セレナ。
敵軍の治癒術師だった人だ。最後に俺を救おうとして、あの人はどうなったのか。記憶はそこだけ途切れている。
「久世さん?」
白峰さんは俺の顔を見ていた。知っている相手に向ける目ではない。新入社員が固まったので、体調を案じている目だ。
「すみません。寝不足で」
「では、最初の説明は座ってしましょう」
彼女はそれ以上聞かず、会議室の椅子を引いた。俺も座る。椅子の背もたれに体重を預けるのに、少し時間がかかった。
つづりが運営する「よやく帖」は、小さな店に客の予約を届けるサービスだ。俺の配属先は、その予約が届かないとき、店や客が困りっぱなしにならないよう連絡を入れるチームだった。大学で学んだことは使えるが、一人で何でも直す仕事ではない。
説明を受けている最中、廊下から短い電話の声がした。
「明日の席ですね。確認して折り返します」
返事をする声に焦りがない。焦りがないだけで、本当に問題がないとは限らない。俺は声の主が一人で何件抱えているのか気になった。
昼には運用チームの責任者、岸本さんが席を案内してくれた。隣の瀬尾真帆は同期で、店への連絡を担当するという。瀬尾が先に言った。
「久世、電話が鳴っても飛びつかなくていいからね。最初の三日は私の横で見て」
「飛びつく予定はない」
「その言い方、予定表に入ってそう」
瀬尾は笑って受話器を取った。話しながら手元の紙に店の名と折り返す時刻を書く。俺は画面より先に、その紙の空きがあと一行しかないことを見ていた。
午後、予約が店の画面に出ないという連絡が入った。席が埋まってしまう前に知らせなければならない。岸本さんは担当へ確認を頼み、瀬尾が店へ電話した。俺はやり取りを見ながら、同じ店からの連絡が別の欄にも残っているのに気づいた。
「岸本さん、午前にもこの店から問い合わせが来ています。店へ、何時の予約か先に聞いたほうが」
「助かる。瀬尾、そこも確認して」
瀬尾が時刻を聞き、二件は別の予約だと分かった。慌てて片方だけ直して終えるところだったらしい。担当者からの確認を待つ間、瀬尾は店へ「こちらで両方を追っています」と伝えた。店の人の声が、電話越しにも少し緩む。
それで俺の初仕事は終わった。正確には、終わらせてもらった。
夕方、もう少し過去の連絡を見ておこうとした俺に、岸本さんが声をかけた。
「久世、今日はここまで。明日やる分は、明日の俺たちに残していい」
「自分の分だけなら、今やれます」
「今やる理由は?」
問い返されて、答えが止まった。間に合わせないと誰かが危ない、ではない。明日に残すと、俺が落ち着かない。それだけだ。
「……ありません」
「じゃあ帰ろう。俺も帰る」
岸本さんは本当に画面を閉じた。瀬尾も手元の紙を次の担当へ渡し、椅子を押し込む。俺たちが残って見張らないのに、誰も不安そうではなかった。
出口で白峰さんが待っていたわけではない。偶然、廊下で会った。彼女は俺の社員証が鞄の持ち手に引っかかっているのを見て、留め具を外すよう指で示した。
「初日、お疲れさまでした」
「白峰さん。定時で帰った場合、明日は」
言いかけて、自分でも変な質問だと思った。退職扱いになるわけがない。だが、体はまだ廊下の先へ進まない。
「明日も、来ていいんですよね」
彼女は笑わなかった。
「はい。明日も席があります。九時半で大丈夫です」
それは入社案内にも書いてあった。それでも彼女の口から聞いて、やっと鞄の持ち手を握り直せた。
外はまだ明るい。こんな時間に帰ったら何をするのか、俺は知らない。とりあえず、玉ねぎを買い直そう。昨日の分は、カレーに全部入れてしまった。




