席が空いていた翌朝
有給明けの朝、俺の席には誰も座っていなかった。
当たり前だ。社員証も、借りている引き出しの鍵も、休む前と同じ場所にある。それなのに、机の上に積み残された紙がないのを見て、少し落ち着かなくなった。
「おはよう、久世。ちゃんと休めたか?」
岸本さんは挨拶のあと、俺の顔ではなく手元のプリントを見せた。昨日の引き継ぎ結果をまとめたものだ。返答待ちだった店から連絡が入り、瀬尾が折り返した時刻まできっちり書き込まれている。
「店の件、俺の不在のあいだに終わったんですね」
「片づく分は片づいたよ。残りは今日やればいい」
俺の仕事が減って困る人はいない。そう教わったはずなのに、受け取った紙が妙に軽かった。
隣で瀬尾が椅子を引いて座る。
「そんな顔するくらいなら、次からは一件くらい残しておいてあげようか?」
「どんな顔をしている」
「帰ってきたら、金庫が空になってた顔」
「店の困りごとを財産みたいに言うな」
瀬尾は吹き出し、俺が昨日まで追っていた店ではなく、今日新しく問い合わせの入った店のメモを手渡してきた。誰かの困りごとなんて、わざわざ取っておかなくても向こうからやってくるらしい。
昼前、蓮見さんの喫茶店から確認の連絡が入った。延期した周年記念会の案内が客全員へ届いたことを、店長ともう一度すり合わせたいのだという。瀬尾が電話で相手の話を聞き取り、俺は修正済みの一覧を開いた。客の名前の隣には、店側が確認を取った時刻が一つずつ並んでいる。
「久世、そこから先の段取りは?」
岸本さんが尋ねてきた。
「店長さんが会場で名簿を管理します。こちら側は、予約画面の表示が一致しているかどうかを確認します」
「うん、それで十分だ」
十分と言われると、まだ何か見落としがないかと探したくなってしまう。以前の俺なら、会の当日に店の前へ立って自ら人数を数えようとしたかもしれない。他人の仕事まで横取りしてどうする、と胸の中で苦笑する。
午後、岸本さんが隣の空いた机を指し示した。まもなく大学生のインターンが一人やってくるという。仕事の割り振りと評価は岸本さんが受け持ち、俺は最初の問い合わせ記録を一緒に読み解く補助役を任されるらしい。
「久世は同じ新人目線で、どこが分かりにくかったかを話してやってほしいんだ」
「俺で務まりますか。まだ教わることのほうが多い立場ですが」
「教わったばかりのことを鮮明に覚えている人に頼みたいんだよ」
そう言われてしまっては、断る理由も見つからない。ただ、自分の持ち場を守ることでさえ手一杯だった男に、隣の席の面倒まで見られるだろうか。
定時が近づいたころ、人事の島から白峰さんが歩いてきた。今日は仕事の書類を抱えている。ふと目が合うと、彼女はその場に足を止めた。
「お帰りなさい。昨日は楽しめましたか?」
「はい。ハンバーグもプリンも、歩いた道も」
答えてから、すべて正直に口にしてしまったことに気づく。白峰さんは書類の角を指先で揃えながら、ふっと笑みをこぼした。
「よかった。映画館の上映時刻、少し調べてみたんです」
またプリントを渡されるのかと思い、俺は手を伸ばしかけた。だが、彼女が差し出してきたのは携帯電話だった。画面に表示された上映予定のうち、白峰さんが行きたい休日の時刻に、小さな丸印が付いている。
「勤務表の確認みたいですね」
俺が言うと、白峰さんはスマートフォンの画面をすっと手元へ引いた。
「違いますよ。私が行きたいと思った時間です。久世さんはどうですか?」
俺は自分の予定を頭の中で確かめた。店への折り返し連絡なら、当日の担当者を割り振ればいい。あの日の洋食屋へ行ったときと同じだ。
「俺も、その時間に行きたいです」
白峰さんは頷き、画面の丸印を指で押さえた。人事が押した印ではない。席を離れた二人の予定だった。
帰り際、隣の空いた机をもう一度見やる。俺の席は、一日休んだくらいでは消えずに残っていた。そして今度は、その隣へ新しい誰かがやってくる。最初に何を教えればいいのか、まだ見当もつかない。
ひとまず、昼に食べる場所くらいは聞いてみようと思った.




