初めての有給申請
休暇を取る日を決めるため、俺は社内システムの予定表を開いた。
まず誰が不在なのかを数え、忙しそうな日を候補から消す。岸本さんの外出予定や、瀬尾が店へ折り返し電話を入れる予定にも目を走らせる。気づいたときには、来月の末尾まで選べる日付がきれいになくなっていた。
「何してるの?」
隣から覗き込んできた瀬尾が、俺の画面を見て言った。
「全員が揃って出社してる日でも探してるわけ?」
「逆だ。俺が休んでも、周囲が困らない日を探している」
「それを決めるのに、私の歯医者の予定まで把握する必要ある?」
予定表の片隅にある小さな印を指差された。そこまで見ていたとは答えづらい。ましてや、歯医者を終えて戻ってきた彼女の仕事を増やしたくないからだとは、口が裂けても言えなかった。
瀬尾は机に肘をつくこともなく、俺の椅子の背もたれを軽く叩いた。
「私のスケジュールは私が自分で調整するの。店への連絡が重なったら、岸本さんが割り振ってくれるし。まず考えるべきは、あんたが何日に休みたいかでしょ」
「それが、まだ決まっていなくて」
「白峰さんとご飯に行く日?」
声が少し大きかった。
「なぜ知っている」
「帰り道、二人ともまったく同じ顔してスマホで店を探してたから」
俺は慌てて画面を閉じた。瀬尾は笑ったが、それ以上からかって追及してくることはしなかった。
蓮見さんの喫茶店の食事会は、翌週へ日を改めることになった。瀬尾が店側と手分けして十八人全員へ連絡を入れ、昨日、最後の返答が揃った。岸本さんは修正した席の案内を店長と照合して渡した。蓮見さんも確認に加わったが、名簿の控えは店長の手元にもしっかり残された。今日この場で、俺が一人きりで埋めなければならない穴はどこにもなかった。
昼休み、俺は一人で駅の反対側まで歩いた。商店街の一角に、学生の頃から気になっていた小さな洋食屋がある。昼間しか営業せず、休日になると店の前に長い列ができる店だ。大学の講義が空いた日に何度か前を通ったが、列は長く、その頃は「また今度」と通り過ぎた。
あの頃は、ただ列に並ぶ気になれなかった。今の俺が迷っているのは待ち時間ではない。何もしない午後を自分の予定に入れていいのか、という方だ。
ガラス窓には本日のメニューが貼り出されていた。煮込みハンバーグ。その横に、手書きでプリンもあると書き足されている。俺はしばらくその文字を見つめたあと、ポケットから携帯電話を取り出した。
白峰さんへの連絡は、業務の休暇申請ではない。そこを自分の中で明確に線引きしてから、店の場所と、来週で都合のつきそうな日をメッセージで送る。
『ここに行ってみたいです。都合が合えば一緒にどうですか』
返信は、昼休みの終わり際に届いた。
『その日は休めます。私も行ってみたいです』
画面の文字を見て、俺はようやく日付を一つに定めた。白峰さんの都合がつかなくなったとしても、俺自身がこの店へ足を運ぶ。そう心から思える一日だった。
午後、岸本さんの席へ向かい、有給休暇を取りたい旨を伝えた。彼は共有カレンダーを一瞥し、すぐに頷いてくれた。
「その日は大丈夫。担当中の店の件だけ、前日までに渡してくれ」
「翌日に繰り越せる確認事項も、事前に片づけておきます」
「片づけなくていいものは、そのまま置いていい」
「残したら、誰かが対応することに」
「急ぐなら俺が担当を決める。急がないなら久世が戻ってから。そこまでが俺の仕事」
言い返す言葉が見つからなかった。会社の業務スケジュールを守るためだからといって、俺が管理者としての役割まで横取りするのは筋が違うのだ。
申請画面を開くと、日付と休暇の区分を選ぶ項目があるだけで、理由を記入する欄は本当に存在しなかった。何度見返しても、どこかに隠れているのではないかと錯覚してしまう。俺は希望日を入力し、送信ボタンを押した。
画面に「申請を受け付けました」と表示される。戦場なら、離れる許しを乞うだけで一仕事だった。ここでは数秒。簡単すぎるから怖いのではない。簡単にしておくために、ほかの人が仕事を分けているのだ。
休暇前日の夕方、俺は担当していた店舗の対応状況をまとめたメモを岸本さんへ手渡した。すでに確認が済んだ事柄、相手からの返事待ちの状態、次に誰が電話をかけるべきか。必要な事実だけを簡潔に書き留めた。自分が不在のあいだに起こりうる不測の事態をすべて網羅しようとして、途中で思い直して消した行もある。
「十分だ」と岸本さんが言った。
帰宅の準備を整えていた瀬尾が、俺のデスクの横で足を止め、画面をちらりと見やった。
「ちゃんと帰るんだ」
「休暇の前日だからな」
「前日じゃなくても、だけどね」
「それはまだ練習中だ」
瀬尾は小さく笑い、自分の席へ戻っていった。
鞄を持って、俺は消灯した画面を見る。何かが鳴っても、この席には岸本さんが決めた担当が来る。俺の代わりではなく、その人の仕事として。
外へ出ると、夕方の商店街はまだ明るかった。明日の店の看板を通りから確かめる。メニューが変わっても構わない。俺は空けた一日に、自分で行きたい場所を一つ作った。




