治癒術師も休暇を取る
翌朝、会議室の机は元の位置に戻されていた。割れた水差しはもうない。床に残った浅い傷跡だけが、昨日の出来事を見間違いにしてくれなかった。
俺の掌には、小さな絆創膏が貼られている。傷自体は浅い。昨日無理に塞ごうとした部分だけ、皮膚が妙に引きつっていた。書類を持つくらいなら支障はないが、触れると昨日の激しい空腹を思い出してしまう。
「手、見せて」
瀬尾にそう言われて、反射的に書類を背中へ隠しかけた。
「幼稚園の先生みたいな言い方をするな」
「隠し方が園児そのものだったからでしょ」
俺が絆創膏を見せると、彼女は出血がないことだけを確かめた。昨日、椅子が勝手に動いた理由については何も聞いてこない。知らないふりをしているわけでも、納得した顔でもなかった。
「あの部屋のこと、岸本さんが建物の担当へ連絡してくれたよ。割れた備品と怪我のことはそのまま報告してある。原因については、まだ特定しない形にしてるけど」
「そうか」
「私は、この目で見たことまで見なかったことにはしないよ。でも今は、蓮見さんの体調と予約の対応のほうが先だから」
瀬尾らしい優先順位だった。俺にとってはありがたい。説明のつかない現象を目撃した相手に、急ごしらえの理屈を押しつけるのも違う。
岸本さんもまた、椅子が独りでに動いたところを目にしている。俺が何か弁明するより前に、「原因は分からない。だから安全の確認が済むまであの部屋は使わない」と判断を下していた。今朝、建物の担当から室内の安全を確認したと連絡が入り、ようやく机を戻したのだという。不可解なまま放置していい問題ではない。それでも、答えが出るまで蓮見さんへの対応を止めるわけにはいかない。
蓮見さんは店長に付き添われて受診し、大きな怪我はなかったそうだ。今日は店を休んでいる。食事会の延期告知は店と瀬尾で手分けして進め、席の案内が食い違った予約については、岸本さんの事前確認を経て一件ずつ連絡を入れていく。蓮見さんの名簿は、店長も見られる状態のままだ。
「責任の話は、蓮見さんが落ち着いてからでいいと店長さんが言ってくれました」と岸本さんが言った。「体調の話とは分けます。まず予約を正しましょう」
俺が頷くと、岸本さんは俺の掌の絆創膏に目を留めた。
「久世も今日は、画面の確認作業だけに専念してくれ。途中で具合が悪くなったらすぐに言えよ」
「手は動きます」
「手以外の状態を聞いているんだ」
昨日、俺は自ら助けを呼んだ。だからといって、今日から何でも素直に答えられるようになったわけではない。「少し眠いです」と口にするまでに、俺は二呼吸ほど間を要した。
「じゃあ、今日の予定を減らそう」
岸本さんは事もなげに言った。
会議室より、その一言の方が不思議だった。
昼前、人事の島に白峰さんの姿が見当たらなかった。昨日遅くまで残っていたのだろうかと思って探すと、廊下の突き当たりで電話をしているのが見えた。相手の返答を待つ間、彼女は壁に肩を預けている。
通話が終わったあとも、彼女はすぐには歩き出そうとしなかった。昨日、蓮見さんに向けて名前を呼び続けていた声はまっすぐだった。その声を発していた本人の身体が、今はわずかに傾いていた。
「白峰さん」
「久世さん。手は大丈夫ですか」
「今は痛みません。そちらこそ、どうですか」
彼女は一拍置いて、小さく微笑もうとした。
「私は怪我をしていませんから」
「怪我以外のことを聞いています」
岸本さんから借りた言葉は、思いのほかよく効いた。白峰さんは笑うのをやめ、手に持っていた紙を折り直す。社員の健康状態の確認や、昨日の経緯についての走り書きだった。具体的な名前や内容までは見えない。ただ、紙の下まで彼女の字が続いていた。
「今日中に、私が対応しておきたくて」
「全部ですか」
「全部、では……ないつもりでしたけれど」
昨日の俺なら、その紙を半分受け取ろうとしたかもしれない。けれど、俺に人事の業務を引き継ぐことはできない。その仕事を誰に頼めるかを一番知っているのは、彼女自身のはずだ。
「誰に渡せるか、白峰さんなら分かりますよね」
「はい」
短く答えると、彼女は壁から身体を離した。
「同じ人事の担当者に、残りの対応をお願いしてみます。昨日の記録のまとめは私がやりますけれど、その後の各所への連絡なら分担できますから」
「俺が言っても、あまり説得力はありませんが」
「ありますよ。昨日は、ちゃんと周りに頼んでくれましたから」
それを褒められると困る。俺は絆創膏の端を指でいじりかけ、すぐにやめた。
午後、白峰さんは本当に同僚へ業務のメモを手渡した。相手といくつか確認事項を交わし、明日の有給休暇を申請してから、デスクの上を片づけていく。俺は自分の画面に集中しているふりを装いながら、彼女が途中でその書類を取り戻してしまわないかだけを見守っていた。彼女は最後まで、紙を取り戻さなかった。
帰りのエレベーター前で、白峰さんと並んだ。
「明日はお休みなんですね」
「ええ。久世さんは?」
「俺はまだ仕事です」
そう答えてから、以前届いた会社の休暇案内を思い出した。あの画面に、理由を書く欄はなかった。いつか取得するつもりでいながら、俺はまだ一度も日付を選んでいない。
「そのうち、俺も取ります」
「そのうち、ですか」
「今、笑いましたか」
「少しだけ」
エレベーターの扉が開いた。乗り込む直前、俺はもう一つだけ言葉を口にすることに決めた。
「白峰さん。今度、食事に行きませんか」
彼女はすぐには返事をしなかった。仕事上の相談だろうかと考えているのかもしれない。俺自身、そうした都合のいい名目に逃げたくなったが、それは違う。
「お礼とか謝罪とかじゃなくて。俺が、あなたと食べたいんです」
白峰さんの指が、鞄の持ち手を握り直した。
「はい。休みの日に」
「休みの日に」
エレベーターの中で、彼女は人事の書類を開かなかった。俺も明日の仕事の予定を口にしなかった。食べる店はまだ決まっていない。その空白を、急いで埋める必要はなかった。




