不死兵、助けを呼ぶ
会議室の戸口を見つめたまま、蓮見さんは水の入った紙コップを受け取ろうとしなかった。
「蓮見さん」
俺の声は届いていない。彼は誰もいない廊下に向かって、かすれた声で「了解」と呟いた。
机の下を、冷たい風が吹き抜けた。窓は確かに閉まっている。床に落ちた名簿の端が不自然にめくれ、続いて椅子がひとりでに半歩ほど滑った。
あの戦場で見たものと同じだ、と身体が直感する。頭はまだそれを否定していた。ここには命令を下す上官など一人もいない。蓮見さんの目の前にいるのは、紙コップを持った瀬尾と、店長への報告を終えた岸本さんと、俺だけだ。
「瀬尾、廊下へ出てくれ。岸本さんも」
「久世、おまえは?」
俺は答えるより先に、蓮見さんの肩へ手を伸ばしかけていた。彼を抱えて扉の外まで運ぶ。そうすれば、ほかの誰も近づかずに済む。古い手順が、思考より先に組み上がってしまう。
だが、俺の腕一本でどうにかなるなら、あのころに誰かが助かっていた。
「俺も出ます。蓮見さんを一緒に連れ出しましょう」
岸本さんが察して蓮見さんの反対側へ回った。瀬尾が扉を開け放ち、通りかかった社員へ「ここへは入らないでください」と声をかける。床に伸びた薄い影が、蓮見さんの足元から机の脚へと這い寄っていった。
「遅れるな」
低い声が落ちた。蓮見さん自身の口から出た声なのに、彼は苦しげに唇を噛んでいる。誰に言われた言葉か、俺には分かってしまう。
瀬尾が扉の外から声を張り上げた。
「白峰さん、こっちに来てください! 蓮見さんが!」
白峰さんは近くの人事の島にいたらしかった。駆け寄る足音が響き、戸口のところでピタリと止まる。彼女の視線は床を一瞥しただけで、すぐに蓮見さんの顔へと向けられた。
「蓮見さん、私の声が聞こえますか。ここは、つづりの会議室です」
岸本さんが彼を支え、出口へ向かって一歩進めた瞬間、床の影が机の脚を強く引いた。重い軋み音とともに机が斜めに傾く。紙コップが倒れ、瀬尾が先ほど置いたガラスの水差しが床に落ちて甲高く砕け散った。
俺は蓮見さんの足をかばうようにして破片を払い除けた。掌に鋭い痛みが走り、細い線が引かれる。血を見た途端、戦場の癖が反射的に戻りかけた。傷を治し、痛みを無視してそのまま動けばいい。
傷口をぐっと押さえる。わずかに血が引いた。だがそれだけで胃の奥がきゅうと縮み上がり、指が震えた。朝食を食べてから何時間も経っている。いまの俺には、傷を完全に閉じ切る力も、彼を担いで走る力もない。
「久世さん、手!」
白峰さんがその傷に気づいた。俺は手を引っ込めることなく言った。
「白峰さん、蓮見さんにいまの現実を話しかけてください。岸本さん、足元に注意して出口まで。瀬尾、誰も中へ戻さないでくれ。それから救急の相談先を確認してほしい」
助けを求める言葉を一つ口にするたび、胸の中で別の声がうるさくなる。おまえが残ればいい。おまえが傷を負えばいい。
だからこそ、俺はもう一つ、あえて頼み込んだ。
「それと、俺の分の食べ物と水も頼む。動けなくなる前に」
「了解。珍しくまともな注文だね!」
瀬尾が廊下を走っていった。岸本さんは何も問い詰めることなく、ガラス片の散らばる場所を避けて蓮見さんを誘導する。白峰さんは一定の距離を保ちながら、落ち着いた声でゆっくりとその名を呼んだ。
「蓮見圭太さん。お店の催しは延期になりました。あなたが今、向かわなければならない場所はどこにもありません」
「でも、届けなきゃいけないんだ」
「何を?」
蓮見さんが息を呑んだ。床の影が細かく揺れ、椅子の脚を小さく鳴らす。
「命令を……。俺が遅れたら」
「今日の件は、店長さんにもきちんと伝わっています」と岸本さんが間に入った。「お客さんへの連絡は、うちと店で分けました。あなたの今の仕事は、まずここを出ることです」
それは前世のことなど何も知らない人間が紡ぐ、紛れもない現在の事実だけに基づいた返答だった。蓮見さんが岸本さんを見つめる。次に白峰さんを、そして俺の顔を見た。
「俺は……リオルじゃない」
「ええ」と白峰さんが言った。
俺も深く頷いた。過去の名を無理に消し去る必要はない。ただ、今日ここで助けを呼ぶのは、いまこの場に生きている人間だ。
「蓮見圭太です。……手伝って、ください」
彼が言い終えるより先に、床の影がふっとほどけた。めくれ上がっていた名簿が机の下へと静かに落ち、ただの紙の束に戻る。俺はその場にどっと膝をついた。足から完全に力が抜けていた。
廊下から瀬尾が息を切らして戻ってきた。片手にはペットボトルの水、もう片手には袋入りのパンを握りしめている。
「食べながら手当てね。順番は、たぶんそっち!」
「手当てが先じゃないのか」
「自分で言った注文、もう忘れたの?」
忘れてはいない。ただ、パンの袋を開けようとする指先がうまく動かないだけだ。白峰さんが俺の手の傷を確かめ、清潔な布を取り出してそっと押さえてくれた。魔法の光などではなく、ごく普通の応急処置だった。
岸本さんが蓮見さんを廊下の椅子に座らせ、意識の様子を確かめている。必要なら受診するよう店長とも話すと言った。床に散らばったガラスの水差しには、誰も無闇に近づかない。会議室の扉をいったん閉め、安全を確認してから片付けることになった。決めるべき事柄が、一つずつ確実に減っていく。
蓮見さんが、差し出された水の入ったコップを今度は自分の手で受け取った。
「久世さん、すみませんでした……」
「謝るのは、もう少し水を飲んでからでいいですよ」
俺もようやく開けたパンを一口かじった。味が実感できるまでに、少しばかり時間がかかった。誰かに守られながらものを食べるという行為には、まだどうにも慣れない。けれど、指先の震えは、じきに静かに収まっていった。




