予定を延期する勇気
昨日、蓮見さんは店長に付き添われて診てもらった。翌朝、自分で紙の名簿をつづりへ持ってきたものの、顔色はまだすぐれない。
前に修正した人数のずれとは別に、その名簿では同じ席へ二組が案内されることになっていた。
店の十周年記念の食事会は、十八席すべてが埋まっている。画面の予約案内を確認していた瀬尾が、食い違っている席番号に赤いペンで丸を付けた。
「店の控えと、こっちから出した案内が違ってる。今ここで分かっているだけで三か所。まだあるかもしれない」
「今日中に全部照合できれば」
言いながら、俺は時計に目をやった。食事会は明日の午後だ。照合するだけなら間に合う。だが、違いが見つかった客へ連絡を入れ、返事を待ち、席の案内をやり直すところまで含めると、話は別だった。
蓮見さんは名簿の端を押さえたまま口を開いた。
「俺が全員に電話します。夜になっても、出てもらえるまでかけ続けますから」
押さえた指の腹が白くなっている。前に会ったときから、彼は自分の仕事の話になると声が少し高くなっていた。だが今日は、その張りさえ失われている。
「電話する人を分けましょう。店には、ほかの方もいますし」
「店長にはまだ言ってないんです。俺が確認を怠ったせいだから、先に直してから」
その順番に覚えがあった。失敗を隠したいというより、報告すれば自分の手から仕事を取り上げられてしまうと信じ込んでいる顔だ。俺も同じ顔をしたことがある。たぶん、今だってときどきしているはずだ。
岸本さんが静かに椅子を引いた。
「明日の開催は難しいです。延期を店に提案します」
「待ってください。予約を取ったのは俺で」
「提案するのは、うちの責任です。正しい席の案内をお渡しできていない。蓮見さんだけにお客さんへの説明まで負わせることはできません」
岸本さんは言い切ってから、瀬尾が付けた丸印を一つずつ確かめた。勢いで中止を決めたのではなく、明日訪れた客を入口で帰す事態こそ避けるべきだと判断しているのだ。俺にもその理屈は分かった。それでも、決まっていた予定を止めるという言葉には、胸の奥が反射的に強張ってしまう。
「店に話す前に、影響のある予約を一覧にします」と俺は言った。「俺が画面側の情報を確認します」
「全部じゃないぞ。今日はここまで、と区切れ」
「……分かりました」
瀬尾がペンをこちらへ向けた。
「私は店へ説明する文面を考える。蓮見さん、店長さんには一緒に話せる? あなたが謝るだけの電話にはしないから」
蓮見さんは返事をしなかった。机の上の携帯電話が震え、画面に店の名前が表示される。彼はすぐに取ろうとして、指を滑らせた。
「俺が出ないと」
立ち上がった身体が、その場で大きく傾いた。椅子の背に手をついて辛うじて持ち直したものの、膝は折れ曲がったままだ。
俺は反射的にその肩を支えた。軽い。そう感じてしまった自分に腹が立つ。人の重さを測って運ぶ場面じゃない。
「蓮見さん、座ってください」
「大丈夫です」
「今のは、大丈夫な立ち方じゃありませんでした」
瀬尾が水を取りに行き、岸本さんが店への電話を引き受けた。俺は空いていた椅子を蓮見さんの近くへ寄せる。彼はまだ携帯を見つめていたが、やがて腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。
店長への説明は、短時間では終わらなかった。岸本さんは原因が判明していない部分を素直に分からないと伝え、延期を提案した。電話を代わった瀬尾は、明日来るはずだった客にどう伝えるかを店長と詰めていく。蓮見さんが「俺からも」と小さく口を挟むと、瀬尾は頷き、彼が一番伝えたい一文を聞き取った。
「楽しみに待っていてくれた人に、ちゃんと謝りたいです」
「うん。その言葉は残そう」
電話の向こうで、店長が延期を了承した。準備が無駄になってしまうものもあるらしい。申し訳なさで胸が詰まる。だが、明日何も知らずに店を訪ねて途方に暮れる客を出さずに済むのも確かだった。
通話を終えると、蓮見さんは手元の名簿の上に視線を落とした。
「俺が走れば、間に合うと思ったんです」
「走っても、十八席は増えません」
少し硬い言い方になってしまった。彼が顔を上げる前に、俺は言葉を足した。
「俺も、さっきまで同じ計算をしていました。全部確かめて、それから考えればいいって」
「久世さんも、ですか?」
「その計算は、よく外れます」
蓮見さんがほんの少しだけ口元を緩めた。だがすぐに顔をしかめ、固く目を閉じる。瀬尾がボトルの蓋を開けて水を差し出したが、彼は手を伸ばそうとしなかった。
名簿の一番下には、まだ丸の付いていない名前があった。調べるべき仕事は残っている。けれど、それを今、倒れかけている人間の手へ戻す必要はない。
「蓮見さん。続きは俺たちが確認します。店へ戻る前に、少しここで休んでいてください」
彼は小さく頷きかけた。唇がかすかに動く。
「戻らないと、また」
その先は聞き取れなかった。室内は静かなのに、彼だけが遠くからの命令を聞いているように、戸口を見つめていた。




