名前で呼んでください
翌朝、蓮見さんへの確認電話に出たのは店長だった。
「昨日の一覧ですか? まだ見ていないんですよ。圭太があとで持っていくと言っていたんですが」
瀬尾は俺へ目を向けた。俺が一覧に加えた「共有済みか」は、やはり未確認のままだ。
「店長さんも予約を見られる形にしたいんです」と瀬尾が電話口で説明した。「今日、もう一度伺ってもよろしいでしょうか」
電話の向こうで、店長は「助かります」と応じてくれた。蓮見さんの仕事を取り上げたいわけではない。ただ、彼が忙しくて電話に出られないときでも、店側で席を用意できるようにしておきたかった。
岸本さんに経緯を報告すると、午前中の仕事を割り振ってくれた。俺と瀬尾が店へ向かい、会社に残るメンバーが、その間に新しい予約が入らないか見る。
「久世、蓮見さんに紙を渡させることを成功にしないでね」と岸本さんは言った。「店が同じ数字を見られればいい」
「はい」
まだ開店前の店に着くと、蓮見さんが入口で待っていた。俺たちの姿を認めるなり、深々と頭を下げる。
「すみません。昨夜、電話が立て続けに入ってしまって。店長に見せようとしたときには、もう上がられていたんです」
「いま一緒に確認できれば大丈夫ですよ」
瀬尾が穏やかに返す。
奥のテーブルに昨日の一覧を広げた。蓮見さんは今日増えた一名分の予約を書き足し、店長を呼びに行こうとして、ふと足を止めた。
「確認のメールを、先に全員へ送らないと」
「店長さんにも数を見てもらってからでいいですよ」
「でも、俺が知らせなければ」
そこへ、奥から店長が顔を出した。
「圭太、まずこっちへ持ってきてくれ。みんなで確認しよう」
ごく普通の呼びかけだった。蓮見さんは振り返ったものの、その視線は店長を通り越していた。手元から滑り落ちた紙の束のうち、一枚がぱらりと床に落ちた。
「蓮見さん?」
「……伝えます」
声が低い。俺は入口と彼の足元を見やった。通路を塞ぐものは何もない。それなのに蓮見さんは、退路を探すように肩を強張らせていた。
「何を、誰に伝えるんですか」
「後ろへ。隊が、まだ」
そこまで口にして、蓮見さんは言葉を呑み込んだ。目の前に立つ店長は見えていないようだった。
俺にも、昔の号令が聞こえた気がした。走れ。間に合わなければお前のせいだ。声は店内のどこからもしていない。覚えているだけだ。それでも身体は入口へ向きかけた。
俺は足を止める。いま守るのは、この店にいる人だ。目の前の紙と、膝から力が抜けそうな蓮見さんを見る。
「椅子、使ってもいいですか」と俺は店長に尋ねた。
「もちろん、使ってくれ」
瀬尾がすかさず椅子を引く。俺は蓮見さんの腕を無理に引っ張ることなく、腰掛けられる場所を促した。
「蓮見さん。ここはお店です。いまは朝で、俺は久世直人です」
「……リオル」
彼が呟いた名前に、胸の奥が冷たく締めつけられた。前世の伝令兵の名だ。
「それも、あなたの記憶なのかもしれません。でも今、俺が呼んでいるのは蓮見さんです」
蓮見さんが俺の顔を見つめた。俺を誰か別の者と重ねているのか、ただ現在へ戻るために見ているのか、まだ分からない。
「俺、何を……」
「座ってください。急ぎの連絡なら、瀬尾と店長さんで確認できますから」
瀬尾が俺を見る。言葉の意図を測りかねている様子だったが、すぐに蓮見さんへ水を持ってきてくれた。店長が床の紙を拾い、テーブルに一覧を広げる。椅子に座った蓮見さんは、自分がまだ携帯を握りしめていたことに気づいたように、それを机に置いた。
「すみません。急に昔の……知らないはずの光景が見えて」
「後で話しましょう。いまは息を整えて」
「お客様への連絡、俺がしないと」
「四人で確認してから決めましょう」
俺が言うと、瀬尾も隣で頷いた。店長が予約客の名前を読み上げ始める。蓮見さんはすぐには紙に触れようとしなかったが、三件目に差しかかったところで、「その方は一名増えています」と口を挟んだ。店長が自分の控えに書き加える。彼の記憶は役に立つ。だからこそ、彼一人の手の中に抱え込ませる必要はないのだ。
店を出たあと、瀬尾が歩く速度を少し落とした。
「蓮見さん、病院に行けるかな」
「店長さんが付き添うと言っていた。俺たちが診断することじゃない」
「そうだね。……久世も、顔色が悪いよ」
俺は水のペットボトルを買って飲んだ。空腹ではない。古い記憶が、現在の音に重なっただけだ。そう説明すれば瀬尾を安心させられるかもしれないが、説明できない部分を適当に埋めたくはなかった。
「少し休んでから戻る」と答えると、瀬尾は「うん」と頷き、隣で黙って待ってくれた。
会社へ戻り、岸本さんには店で起きたことを、見た範囲だけ伝えた。蓮見さんが一時的に混乱し、店長が病院へ付き添うと言ったこと。予約一覧は店長と共有できたこと。今後の連絡先を一人にしないこと。
報告を受けた岸本さんは担当を振り直し、店への次回連絡を瀬尾に任せた。そして俺には、少し席を外して休むよう促した。
人事の島の前で、白峰さんが俺を見つけた。立ち上がりかけた彼女は、俺の顔を見るなり動きを止める。
「久世さん。少し、お話しできますか」
空いていた小会議室で向かい合って座った。扉は閉めたものの、ガラス張りの壁越しに廊下の様子が伺える。白峰さんは俺の体調を気遣い、手元に水があるのを確かめてから口を開いた。
「お店で何かありましたか? あなたから、いつもより強く……懐かしい感じがします」
彼女はその感覚の名前を言わなかった。人事として尋ねているのか、セレナとしてなのか。俺にはまだ分からない。
「蓮見さんが、リオルという名前を口にしました」
白峰さんの指が、膝の上でぴたりと止まる。
「あの、伝令兵の……?」
「そうです。本人は混乱していました。医者に見てもらうそうです。仕事のことは岸本さんと店長に伝えました」
「分かりました。……久世さんは?」
彼女は同じ問いを、今度は俺自身に向けて重ねた。はぐらかすことはできる。だが、店で聞こえた昔の号令を、また一人で抱えたくはなかった。
「俺は、ガルドでした」
白峰さんはすぐには言葉を返さなかった。椅子の背から身体を離し、俺の顔を見る。名前ではなく、いまの顔を確かめるように。
「第零回生兵団の」
「はい。でも、今は久世直人です。ここで育って、瀬尾と一緒に働いています」
彼女は静かに頷き、それから小さく首を横に振った。何を否定されたのか分からず、俺は次の言葉を待った。
「あのとき、救えなかったと思っていました」
「救おうとしてくれたことは覚えています」
「それでも、私は……」
俺は続きを急かさなかった。俺にも、昔のことを一度で片づける言葉はない。
「今の仕事の話をする相手は岸本さんです」と俺は言った。「でも、今の俺と昔の俺のことは、白峰さんに知っていてほしかった」
白峰さんは膝から手を離し、机の上にそっと置いた。
「分かりました、久世さん。誰かに伝える必要が生じたら、そのときはまず、あなたと話します」
俺は息を吸い直した。あの名前を言っても、彼女は俺を昔の任務へ戻さなかった。
小会議室を出る間際、白峰さんが声をかけてきた。
「今日のお昼、食べられそうですか」
「食べられますよ。白峰さんは?」
「食べます」
短いやり取りを交わし、俺たちは廊下でそれぞれの席へと戻っていった。
机には店からの新しい連絡が一件届いていた。催しまで、あと数日。蓮見さんの携帯だけに任せない確認は、今日から始まったばかりだ。




