↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老鍼灸師は転生しても治さない  作者: かどやん。
第1章 異世界の森

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/13

第9話 異世界の気

 異世界の森の中で、まずは立つことから始めた。


 足を肩幅ほどに開き、膝をわずかに緩める。腰を落とすわけでも、胸を張るわけでもない。肩を沈め、肘を緩め、顎を少し引く。


 頭頂は天へ、足裏は大地へ。


 はたから見れば、ただ突っ立っているようにしか見えないだろう。だが、これは気を練るうえで最も大切な稽古の一つだ。太極拳の流派によっては、この立っている姿勢を立ってする禅───立禅と呼ぶこともある。


 地球にいた頃、数え切れないほどの時間をこの姿勢で過ごしてきた。


 十歳の身体になろうと、やることは変わらない。


 ――そのはずだった。


 目を閉じ、鼻から静かに息を吸い、ゆっくりと吐く。


 何度か呼吸を繰り返したところで、儂は気づいた。


 こちらの気は、ただ濃いだけではない。地球で感じていたものとは、明らかに何かが違う。


「……ふむ」


 鍼灸院の庭で、神が儂を召喚しようとした時のことを思い出す。


 あの術を何度もかわせたのは、発動する直前に、それまでとは異なる気配を感じたからだった。


 今なら、あの時よりもはっきり分かる。


 直接神に会い、その力に触れたことで、違いを感じ取れるようになったのかもしれない。


 とはいえ、何がどう違うのかを言葉にするのは難しい。


 匂いではない。温度でもない。当然、目に見えているわけでもない。


 それでも、あえて色にたとえるなら――白。


 そんな感じがする。


 あくまで儂の感覚にすぎん。神と出会った場所が、何もかも真っ白な空間だったせいで、そう感じているだけかもしれない。


 だが、あの神の気は、目には見えない白い光か霧のようなものとして感じられた。


 そして今、この森にも、それによく似た白い気が満ちている。


「同じ白でも……少し違うのう」


 神は、自らの力を神気と呼んでいた。


 ならば、あれを仮に“白い天の気”とするなら、今この森に満ちているものは“白い地の気”とでも呼べるだろうか。


 古代中国にも、天の気と地の気を分けて考える思想があった。


 もちろん、本当にそうなのかは分からない。だが今の儂には、そう捉えるのが一番しっくりくる。


 森全体を、白く濃厚な霧のような気が満たしている。呼吸するたびに、その白い気が身体の中へ入ってきた。


 肺からだけではない。皮膚からも、足裏からも、頭頂からも、こちらが取り込もうとするより先に、じわじわと身体へ染み込んでくる。


「これは……たまらんのう」


 楽しくて仕方がなかった。


 これだけでも、異世界へ来てよかったと思えるほどだ。


 連れてきてくれた神様には、とても言えんが。


 儂は意識を少しずつ身体の奥へ沈めていった。


 腹の底。


 丹田と呼ばれる場所だ。


 もっとも、そこに最初から完成した何かが入っているわけではない。


 呼吸し、立ち、動き、気を練る。長い年月をかけて少しずつその働きを育て、気を蓄えていくのだ。


 地球にいた頃の儂には、それがあった。七十年以上かけて育ててきたものが。


 だが、この身体にはまだない。


 なにしろ十歳じゃ。今あるのは、いわば小さな器だけだった。


 そのまだ器だけの丹田へ、森の白い気が少しずつ入ってくる。


 腹の奥に、かすかな温かさが生まれた。熱とは違う。もっと静かで、もっと深い。


 何かがゆっくりと満ちていく感覚だった。


 儂は無理に引き込もうとはしなかった。追わず、掴まず、ただ入ってくるものを受け入れ、腹の底へ沈めていく。


 すると今度は、肉体よりさらに深いところが反応した。


 意識の底。いや――魂とでも呼ぶべき場所か。


「……なるほどのう」


 神に召喚された時、儂はあの存在の気に触れた。先ほどの言い方をなぞるなら、“白い天の気”。


 一度ではない。何度も召喚をかわしながら感じ、比べ、覚え、最後にはその力の中を通って、この世界へ来た。


 どうやら、あれは儂が思っていた以上に大きな出来事だったらしい。


 うまく言葉にはできない。


 だが、以前の儂とは何かが違う。


 肉体ではない、もっと根のところ――魂そのものの器が、以前より広がっているように感じる。


「神気というのは、とんでもないものだったんじゃな」


 思わず笑った。


 だからだろうか。


 初めて触れるはずのこの世界の気を、儂の内側はまったく拒んでいない。


 しかも、もう一つ気づいたことがある。


 この身体になっても、儂には儂自身の気がある。


 そして、それは白い天地の気とは違っていた。


「儂のは……黄色か?」


 地球にいた頃、そんなことを考えたことは一度もなかった。だが今は、どうにもそう感じるのだ。


 黄色というより、金色に近いだろうか。


「……それは、おこがましいのう」


 思わず苦笑する。


 ひょっとすると、神の気を白く感じるのと同じように、黄崎やイエローという自分の名に引っ張られているだけなのかもしれない。


 それでも、儂の内側にある気と、この世界を満たす気が違うことだけは分かる。


 今のところ、儂の中ではこう整理している。


 神の気=白い“天の気”

 異世界の気=白い“地の気”

 儂の気=黄色い“地球の気”


 もっとも、最後の一つは少し怪しい。


 儂の気はもともと地球で長い年月をかけて育ててきたものだが、神気に触れ、その力を何度も感じ取ったことで、以前とはどこか変わっているらしい。


 今のところは、こんな風に考えておくのがよさそうじゃ。


 白い地の気が身体へ入ってくる。すると、それを儂の黄色の気が受け止める。


 まるで食べ物が身体の中で消化されるように、二つの気が混ざり合い、少しずつ馴染みながら丹田へ流れ込んでいく。


 空だった器に、ごくわずかではあるが、新しい気が確かに溜まり始めている。


 そこで、ふと思った。


 もし、この丹田がこの気で十分に満たされたら――この身体は、どうなる?


 十歳の肉体が、この世界の空気を吸い、この世界のものを食べ、この世界の大地を踏み、この世界の気を蓄えながら育っていく。


 そこには、九十二年かけて積み重ねてきた知識と技術がある。


 さらに、神気に触れたことで変化したらしい魂まである。


 背筋が、ぞくりとした。


 怖いのではない。知りたい。

 この身体は、どこまで変わるのか。


 丹田は、どこまで育つのか。


 そもそも、この世界の気とは何なのか。


 次から次へと、試したいことが浮かんでくる。


 呼吸。站桩功。歩法。太極拳。経絡。周天。


 この気を身体に巡らせれば、どうなる。動きながら練れば、どうなる。


 そして――この気を治療に使ったら、どうなるのか。


「……いかん、いかん」


 焦る必要などない。つい先ほど、自分にそう言い聞かせたばかりではないか。


 だが、立つことをやめる気にはなれなかった。


 もう少し。あと少しだけ。


 この感覚を確かめさせてくれ。


 呼吸を続け、ただ静かに立つ。


 やがて、自分が呼吸しているのか、それとも森そのものが呼吸しているのか、それすら曖昧になっていった。


 どれほど経っただろう。


 ふと目を開ける。


「……ん?」


 暗い。


 森は、すっかり夜になっていた。見上げれば、木々の隙間から星まで見えている。


 儂はしばらく黙って夜空を見上げた。


 どうやら、またやってしまったらしい。


 九十二歳になっても直らなかったこの癖が、異世界へ来たくらいで直るはずもないか。


「腹が減ったのう」


 その瞬間。


 ぐううううう。


 小さな腹が、盛大に鳴った。


「カッカッカッ!」


 そうだった。今の儂は十歳なのだ。


 研究より先に、まずはよく食べ、よく寝て、よく育たねばならん。


「飯にするか」


 儂は暗くなった森をあとにして、家へ戻った。


 腹の底にはまだごくわずかではあるが――確かに、新しい気が溜まり始めていた。



挿絵(By みてみん)


お読みいただき、ありがとうございました。

今日も後でもう一話アップする予定です。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。