第9話 異世界の気
異世界の森の中で、まずは立つことから始めた。
足を肩幅ほどに開き、膝をわずかに緩める。腰を落とすわけでも、胸を張るわけでもない。肩を沈め、肘を緩め、顎を少し引く。
頭頂は天へ、足裏は大地へ。
はたから見れば、ただ突っ立っているようにしか見えないだろう。だが、これは気を練るうえで最も大切な稽古の一つだ。太極拳の流派によっては、この立っている姿勢を立ってする禅───立禅と呼ぶこともある。
地球にいた頃、数え切れないほどの時間をこの姿勢で過ごしてきた。
十歳の身体になろうと、やることは変わらない。
――そのはずだった。
目を閉じ、鼻から静かに息を吸い、ゆっくりと吐く。
何度か呼吸を繰り返したところで、儂は気づいた。
こちらの気は、ただ濃いだけではない。地球で感じていたものとは、明らかに何かが違う。
「……ふむ」
鍼灸院の庭で、神が儂を召喚しようとした時のことを思い出す。
あの術を何度もかわせたのは、発動する直前に、それまでとは異なる気配を感じたからだった。
今なら、あの時よりもはっきり分かる。
直接神に会い、その力に触れたことで、違いを感じ取れるようになったのかもしれない。
とはいえ、何がどう違うのかを言葉にするのは難しい。
匂いではない。温度でもない。当然、目に見えているわけでもない。
それでも、あえて色にたとえるなら――白。
そんな感じがする。
あくまで儂の感覚にすぎん。神と出会った場所が、何もかも真っ白な空間だったせいで、そう感じているだけかもしれない。
だが、あの神の気は、目には見えない白い光か霧のようなものとして感じられた。
そして今、この森にも、それによく似た白い気が満ちている。
「同じ白でも……少し違うのう」
神は、自らの力を神気と呼んでいた。
ならば、あれを仮に“白い天の気”とするなら、今この森に満ちているものは“白い地の気”とでも呼べるだろうか。
古代中国にも、天の気と地の気を分けて考える思想があった。
もちろん、本当にそうなのかは分からない。だが今の儂には、そう捉えるのが一番しっくりくる。
森全体を、白く濃厚な霧のような気が満たしている。呼吸するたびに、その白い気が身体の中へ入ってきた。
肺からだけではない。皮膚からも、足裏からも、頭頂からも、こちらが取り込もうとするより先に、じわじわと身体へ染み込んでくる。
「これは……たまらんのう」
楽しくて仕方がなかった。
これだけでも、異世界へ来てよかったと思えるほどだ。
連れてきてくれた神様には、とても言えんが。
儂は意識を少しずつ身体の奥へ沈めていった。
腹の底。
丹田と呼ばれる場所だ。
もっとも、そこに最初から完成した何かが入っているわけではない。
呼吸し、立ち、動き、気を練る。長い年月をかけて少しずつその働きを育て、気を蓄えていくのだ。
地球にいた頃の儂には、それがあった。七十年以上かけて育ててきたものが。
だが、この身体にはまだない。
なにしろ十歳じゃ。今あるのは、いわば小さな器だけだった。
そのまだ器だけの丹田へ、森の白い気が少しずつ入ってくる。
腹の奥に、かすかな温かさが生まれた。熱とは違う。もっと静かで、もっと深い。
何かがゆっくりと満ちていく感覚だった。
儂は無理に引き込もうとはしなかった。追わず、掴まず、ただ入ってくるものを受け入れ、腹の底へ沈めていく。
すると今度は、肉体よりさらに深いところが反応した。
意識の底。いや――魂とでも呼ぶべき場所か。
「……なるほどのう」
神に召喚された時、儂はあの存在の気に触れた。先ほどの言い方をなぞるなら、“白い天の気”。
一度ではない。何度も召喚をかわしながら感じ、比べ、覚え、最後にはその力の中を通って、この世界へ来た。
どうやら、あれは儂が思っていた以上に大きな出来事だったらしい。
うまく言葉にはできない。
だが、以前の儂とは何かが違う。
肉体ではない、もっと根のところ――魂そのものの器が、以前より広がっているように感じる。
「神気というのは、とんでもないものだったんじゃな」
思わず笑った。
だからだろうか。
初めて触れるはずのこの世界の気を、儂の内側はまったく拒んでいない。
しかも、もう一つ気づいたことがある。
この身体になっても、儂には儂自身の気がある。
そして、それは白い天地の気とは違っていた。
「儂のは……黄色か?」
地球にいた頃、そんなことを考えたことは一度もなかった。だが今は、どうにもそう感じるのだ。
黄色というより、金色に近いだろうか。
「……それは、おこがましいのう」
思わず苦笑する。
ひょっとすると、神の気を白く感じるのと同じように、黄崎やイエローという自分の名に引っ張られているだけなのかもしれない。
それでも、儂の内側にある気と、この世界を満たす気が違うことだけは分かる。
今のところ、儂の中ではこう整理している。
神の気=白い“天の気”
異世界の気=白い“地の気”
儂の気=黄色い“地球の気”
もっとも、最後の一つは少し怪しい。
儂の気はもともと地球で長い年月をかけて育ててきたものだが、神気に触れ、その力を何度も感じ取ったことで、以前とはどこか変わっているらしい。
今のところは、こんな風に考えておくのがよさそうじゃ。
白い地の気が身体へ入ってくる。すると、それを儂の黄色の気が受け止める。
まるで食べ物が身体の中で消化されるように、二つの気が混ざり合い、少しずつ馴染みながら丹田へ流れ込んでいく。
空だった器に、ごくわずかではあるが、新しい気が確かに溜まり始めている。
そこで、ふと思った。
もし、この丹田がこの気で十分に満たされたら――この身体は、どうなる?
十歳の肉体が、この世界の空気を吸い、この世界のものを食べ、この世界の大地を踏み、この世界の気を蓄えながら育っていく。
そこには、九十二年かけて積み重ねてきた知識と技術がある。
さらに、神気に触れたことで変化したらしい魂まである。
背筋が、ぞくりとした。
怖いのではない。知りたい。
この身体は、どこまで変わるのか。
丹田は、どこまで育つのか。
そもそも、この世界の気とは何なのか。
次から次へと、試したいことが浮かんでくる。
呼吸。站桩功。歩法。太極拳。経絡。周天。
この気を身体に巡らせれば、どうなる。動きながら練れば、どうなる。
そして――この気を治療に使ったら、どうなるのか。
「……いかん、いかん」
焦る必要などない。つい先ほど、自分にそう言い聞かせたばかりではないか。
だが、立つことをやめる気にはなれなかった。
もう少し。あと少しだけ。
この感覚を確かめさせてくれ。
呼吸を続け、ただ静かに立つ。
やがて、自分が呼吸しているのか、それとも森そのものが呼吸しているのか、それすら曖昧になっていった。
どれほど経っただろう。
ふと目を開ける。
「……ん?」
暗い。
森は、すっかり夜になっていた。見上げれば、木々の隙間から星まで見えている。
儂はしばらく黙って夜空を見上げた。
どうやら、またやってしまったらしい。
九十二歳になっても直らなかったこの癖が、異世界へ来たくらいで直るはずもないか。
「腹が減ったのう」
その瞬間。
ぐううううう。
小さな腹が、盛大に鳴った。
「カッカッカッ!」
そうだった。今の儂は十歳なのだ。
研究より先に、まずはよく食べ、よく寝て、よく育たねばならん。
「飯にするか」
儂は暗くなった森をあとにして、家へ戻った。
腹の底にはまだごくわずかではあるが――確かに、新しい気が溜まり始めていた。
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今日も後でもう一話アップする予定です。
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