第8話 十歳の体
まずは、この身体に慣れること。それから、この家で暮らせるようになることだ。
焦る必要はない。一つずつ、診ていけばいい。
そう決めて、儂はまず家の中を見て回ることにした。
小さな家だった。寝室と居間、台所に物置、それから簡素な便所があるくらいで、家具も必要最低限しかない。それでも生活するには十分だった。
棚には保存の利きそうな食料が並び、鍋や食器、着替えまで揃っている。
「ありがたいのう」
神から聞いていた通り、しばらく暮らすには困らなそうだ。
机の上には何冊かの本も置かれていた。この世界について書かれたものだろう。本来なら真っ先に読むべきなのだが――。
儂は窓の外へ目を向けた。
身体が、うずうずする。
「……いかんな」
九十二にもなって、これほど気が急くとは。
いや。今は十歳だった。
「それなら、仕方あるまい」
ニカッと笑って、外へ出た。
・・・・・・
朝の空気が全身を包む。
まず大きく伸びをしてみる。腕を上げ、肩を回し、そのまま腰を折って両手を地面へ伸ばした。
ぺたり、と掌がつく。
「ほう!」
身体を起こし、今度は両脚を大きく左右へ開いて座る。そのまま上体をゆっくり前へ倒していく。股関節はほとんど抵抗なく開き、脚の内側にも強い張りはない。思っていた以上に、柔らかい身体だった。
「これは柔らかい!」
思わず笑ってしまった。
九十二歳まで身体を動かし続け、同年代と比べればかなり柔らかかったはずだ。それでも、十歳の身体はまるで違う。
筋も腱も瑞々しく、関節にも余裕がある。頭で思い描いた動きに、身体が素直についてくる。
「若いというのは、たいしたものじゃ」
脚を前へ、横へ、後ろへと振ってみる。どの方向にも軽々と上がり、身体を動かすこと自体が楽しかった。
だが、何度か試したところで儂は動きを止めた。
柔らかい。軽い。
その代わり、まだ力はない。
腿は細く、背中も薄い。腹にも十分な力がついていない。
当然だ。十歳なのだから。
「さて。どう育てるかのう」
一瞬、昔の鍛錬法が頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
「いやいや」
焦る必要など、どこにもない。
この身体は未完成なのではない。今まさに育っている途中なのだ。
ならば、その邪魔をしてはいけない。
急いで筋肉をつける必要も、無理に負荷をかける必要もない。むしろ今の柔らかな身体だからこそ、関節を十分に動かし、全身を伸びやかに使う方がいい。
歩く。走る。しゃがむ。跳ぶ。
そして、よく食べ、よく眠り、よく動く。
「まずは、それで十分じゃ」
身体は、こちらが余計なことをしなくても自分で育っていく。
必要なのは、その力が働けるようにしてやることだ。
それは治療と同じだった。
そして、もう一つ。
儂は森へ目を向けた。
木々の間には、地球では感じたことのないほど濃密な気が満ちている。
これから何十年と使う身体ならば、まずこの世界の気に馴染ませていかなければならない。
身体だけではなく、儂自身の気をこの世界に馴染ませる必要がある。
「さて……」
足を肩幅ほどに開く。
膝を緩め、肩の力を抜き、顎をわずかに引く。頭頂は天へ、足裏は大地へ。
そして、何もしない。
ただ、立つ。
傍から見れば、それだけにしか見えないだろう。
だが、気を育て、練り上げるうえで、この「ただ立つ」という稽古は何より大切だった。
九十二年間磨き続けてきたものを、十歳の身体でもう一度、最初から始める。
「まずは、ここからじゃな」
目を閉じると、森の気が静かに儂を包んだ。
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