第7話 異世界での目覚め
目を覚ますと、まず脈を診た。
毎朝、起きると自分の脈を診ることは、長年続けてきた習慣だ。今では完全に目を開けるより先に、手が勝手に手首へ伸びるほどになっている。
東洋医学の脈診は、単に脈拍の速さやリズムを見るだけのものではない。
指先に伝わる脈の強さや深さ、滑らかさなどから、全身の気血の過不足や五臓六腑のバランス、病の性質や深さまで探っていく。
儂は左の手首に、右手の人差し指、中指、薬指をそっと置いた。
トクン。トクン。
「なんじゃ!?」
一気に目が覚めた。
若い。いや、若いどころではない。力強さがありながら柔らかく、澱みもない。昨日まで毎朝診ていた、九十二歳の儂の脈とはまるで違っていた。
「……そうじゃった」
そう呟く声まで高い。自分の口から出たはずなのに、まるで子供の声ではないか。
儂は――マコト・イエロー、十歳。
神によって召喚され、新しい身体へ転生したのだった。
ゆっくりと上体を起こす。どうやら小さな寝台で眠っていたらしい。
周囲には木の壁があり、簡素な机と椅子が置かれている。窓からは柔らかな朝の光が差し込んでいた。
神と一緒に見ていた、森の一軒家だろう。
だが、家の中を調べるのはあとじゃ。まずは、この身体を診ねばならん。
視界が妙に明るい。床板の細かな木目まで、くっきりと見えている。どうやら視力も若い頃のものに戻ったらしい。
「これはありがたいのう。本が読みやすそうじゃ」
両手を目の前へ出してみる。
「小さいのう」
思わず笑みがこぼれる。指は短く、掌も小さい。皮膚は滑らかで、皺ひとつない。握って、開いて、手首を回す。
それから寝台の上で肘や肩を動かし、首を回し、腰を捻り、膝と足首まで順番に確かめていった。
どこにも痛みはない。関節もよく動く。何より、身体が軽い。驚くほど軽かった。
これほど快適な目覚めは、いったい何十年ぶりだろうか。
「これは、ええのう」
体に痛みがなく、身体は軽く、思ったように素直に動く。
ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。
そのまま立ち上がろうとして――。
「おっと」
思った以上の勢いで身体が浮き上がった。慌てて重心を戻し、寝台の脇へ足をつく。
「カッカッカッ」
つい笑ってしまった。
九十二歳の身体を動かすつもりで力を使ったら、十歳の身体の方が先へ行ってしまったらしい。
「これは早う慣れんとのう」
改めて床に立つ。ただ立っているだけでも、何もかもが違った。
目線が低い。腕も脚も短く、頭と胴体の比率も違う。当然、重心の位置も変わっている。
何十年もかけて身体へ染み込ませてきた感覚と、今の肉体がまだ噛み合っていない。頭では分かっていても、身体の方が知らんのだ。
この十歳の身体を、一から馴染ませていく。そう考えると、不思議なことに胸が躍った。
儂はどうも、若返ったことに相当浮かれているらしい。
「ん?」
そこで肩に垂れてきた髪が目に入った。
長い。そして白い。
身体が若返ったのだから、髪も若い頃の色へ戻るのかと思っていたが、そこは白髪のままらしい。
「まあ、これはこれでええか」
髪のことは早々に諦めた。
すると今度は、身体ではなく外の様子が気になった。
儂は窓辺へ歩き、窓を開ける。
「これは……すごいのう」
思わず息を呑んだ。
森だった。巨大な木々が幾重にも重なり、その奥まで見通すことができない。
見たことのない形の葉が朝露に濡れ、どこからともなく聞き慣れぬ鳥の声が響いている。湿った土と草木の匂いが、冷たい朝の空気とともに部屋へ流れ込んできた。
そして――そのすべてに、濃厚な気が満ちている。
地球にも、もちろん気はあった。山にも、川にも、木にも、人にも、それぞれの気がある。
だが、ここは違う。
一度息を吸っただけで、身体の内側へ何かが流れ込んでくるのが分かるほど、天地に満ちる気が濃い。
「これが……この世界の気か」
ゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。もう一度。
何度か呼吸を繰り返しながら、丹田へ意識を向ける。
トクン。
反応があった。十歳の小さな腹の奥で、かすかに何かが動いている。
地球で知っていた気に似ている。しかし、まったく同じではない。もっと強く、濃く、生命力に満ちていて――どこか荒々しい。
「ほう……」
口元が勝手に緩んだ。
その時だった。
ぞくり、と皮膚が粟立った。
森の奥に、何かがいる。一つではない。あちらにも、こちらにも、木々の向こうからいくつもの生命の気配が伝わってくる。小さなものもいれば、素早く動くものもいる。
そして、はるか遠くには――ひときわ巨大な気配があった。
儂は窓の向こうへ目を凝らした。
「……強いのう」
地球では感じたことのないほど、濃密な生命の気じゃ。
あれが、神の言っていた魔物というものだろうか。
分からん。まだ、この世界へ来たばかりなのだ。何も分かるはずがない。
儂は自分の腕へ目を落とした。細い腕に、小さな手。軽く握り拳を作ってみても、どう見たところで十歳の子供のものだった。
この小さな身体で、得体の知れぬ生命が蠢く深い森に暮らすことになる。
「早く、この身体を使えるようにせねばな」
それにしても――ここまではっきり気配を感じ取れるとは思わなかった。
この世界の生き物が、それだけ強い気を持っているということなのだろう。
しかし、それだけでもなさそうだ。
儂が十歳だった頃など、気の感覚など当然ながら持っていなかった。
どうやら、長年身につけた気の感受性のようなものは、この身体にもきちんと持ち越されているらしい。
気は、どちらかといえば陰の働きに近い。昼間の空では星が見えにくいように、若い肉体の旺盛な陽の気に隠れて、繊細な感覚はなかなか自覚しにくいものだ。
長い年月をかけて気を学んできた儂も、九十二歳になってようやく少し分かってきたところだった。それでも地球にいた頃なら、ここまで遠くの生命を感じ取ることはできなかっただろう。
転生の影響か、この身体のおかげか、はたまた――神の気に触れたためなのか。はっきりとは分からない。どれも関係しているのかもしれん。
まあ、それはいい。
この十歳の身体で、もう一度、何十年も功夫を重ねていける。
そう思うと、楽しみで仕方がなかった。
九十二歳まで積み重ねた経験。十歳の肉体。そして、何もかもが未知の世界。
「これは……」
儂は窓の向こうに広がる森を見ながら、ニカッと笑った。
「面白くなってきたのう」




