第10話 鍼も灸もない
異世界で一晩を過ごした翌朝。
儂は、今度こそ家の中を本格的に調べることにした。
昨日は身体のことに夢中になり、気がつけば日が暮れていた。
せっかく用意してもらった家だというのに、まともに見てもいない。
「さて、何があるかのう」
改めて見てみると、なかなかいい家だった。
大きくはない。寝室と居間、台所に物置。それだけの小さな家だが、暮らしに必要なものは一通り揃っていた。
食器、鍋、衣類、寝具、保存の利く食料。水を汲む桶に薪、簡単な工具まである。
贅沢ではないが、不足もない。
そして何より、居心地がよかった。
窓の位置、風の抜け方、朝日の入り方、水場までの距離。家と周囲の木々との間合いまで、妙に具合がいい。
「ほう……」
家の中央に立ち、しばらく周囲の気を感じてみる。
やはり淀みがない。
外から入った気が家の中を緩やかに巡り、そのまま自然に外へ抜けていく。
「よく考えて建ててあるのう」
ただ雨風をしのぐための小屋ではない。
この土地と喧嘩をせず、山の中へすっと収まっている。
ええのう。
こういう家は好きじゃ。
この家を用意したのは、儂より前にこの世界へ来た者だと、神から聞いている。
儂と同じ、神の使徒。
ただし、ずいぶん違う人物だったらしい。
戦いに長け、この世界の陰陽の気に生じた歪みを何とかするため、各地を巡って魔物を倒した。町を滅ぼしかねないものから、軍でも手を焼くようなもの、時には国そのものを脅かすほどの存在まで。
ずいぶん多くの命を救ったという。
この世界の人々からすれば、救世主と呼んでもおかしくない人物だったのだろう。
だが、世界そのものの歪みを正すには至らなかった。
そして、もうこの世にはいない。
儂は棚に残された古い道具へ目を向けた。
どんな人物だったのだろう。男だったのか。いや、女ということもありえる。
何を見て、何を考え、何をしようとしたのか。
いずれ知る機会もあるかもしれない。
「この方のおかげで、新しい生活が始められる。この恩は返さねばな」
それ以上は言わなかった。
会ったこともない者の人生を、分かったように語るものではない。
ただ、この家を残してくれた。
食料も、道具もある。
十歳の子供が一人、この森で暮らし始めるには十分すぎるほどだ。
「ありがたく使わせてもらおう」
儂は小さく頭を下げた。
さて。そこからは、なかなか楽しい時間だった。
棚を開け、引き出しを開け、箱の中を覗く。物置へ行っては戻り、また別の戸棚を開ける。
本もある。地図らしきものもある。これは嬉しい。
用途の分からない道具に、武器らしきものまで残っている。
「おぉ、これは薬箱か」
包帯や薬のようなものが入っている。
気づけば、家中をひっくり返す勢いで物色していた。
そして――。
ふと、あることに気づいた。
もう一度、棚を見る。引き出しを開ける。
ない。
物置へ行き、寝台の下を覗き、箱をいくつも開けた。
やはりない。
念のため台所を見る。食糧庫の奥まで探す。
もちろんない。
「……ないのう」
儂は腕を組んだ。重大な問題だった。
鍼がない。
一本もない。
ひとつまみの艾もない。
火を扱う道具はあるが、灸に使えそうなものは見当たらない。
消毒に使えるものがあるかどうかも、まだ分からない。
つまり――鍼灸道具が、何一つない。
「これは困った」
考えてみれば、当然だった。
前任者殿は戦う者だったのだ。
剣や旅道具はある。食料もある。薬らしきものまで残っている。
だが、まさか次に来る使徒が九十二歳の鍼灸師だとは思わなかっただろう。
鍼を用意しておけという方が無茶である。
「そこまでは読めんわなあ」
思わず笑ってしまった。
さて、どうする。
鍼がなければ、鍼治療はできない。
だが、治療そのものができないわけではない。
この手と指があれば、按摩もできる。指圧もできる。気功もある。
それに――儂は窓の外へ目を向けた。
見たこともない植物が生い茂る、広大な森。
きっと、薬草もあるだろう。
地球のものと似た性質を持つ植物だって、あるかもしれない。
お灸に使う艾は、ヨモギの葉を乾燥させ、揉んで作る。
もし、この世界にヨモギに近いものがあれば──。
「灸はできるかもしれんのう」
そう思った途端、また胸の奥がうずいた。
知らない植物。知らない薬効。
そして、この世界で一から作るお灸。
「……まるで宝探しの冒険じゃな」
儂は籠を一つ手に取った。
ないなら、ないなりにやればいい。
まずは森を歩いてみよう。
この世界には、この世界のやり方があるはずだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
明日からは一日一話ずつ投稿していきたいと思っています。
よろしくお願いいたします。




