第64話 天人合一
患者と向き合えば、意識は自然と施術のためだけに澄んでいく。
余計な考えが消え、呼吸が深くなる。
天の気が頭頂から入り、地の気が足元から昇ってくる。
それらが丹田に集まり、満ちた気が全身を滞りなく巡っていく。
天地と人が一つになる。
天人合一。
人もまた、天地自然から切り離された存在ではない。
天があり、地があり、その間に人が生きる。
自然の流れに逆らうのではなく、その大きな巡りの中に身を置き、自らもその一部として調和していく。
東洋思想の中で、古くから繰り返し語られてきた理想の一つだ。
そしてそれは、儂が鍼灸師として、一人の人間として、長い年月をかけて求め続けてきた境地でもある。
日本にいた頃も、この世界へ来てからも、それは変わらない。
儂はゆっくりと息を吐き、青龍を見据えた。
「さあ――来い!」
グォォォォォォォォォォォォ――!!
耳をつんざくような咆哮とともに、青龍が猛烈な勢いで突進してきた。
巨大な頭が迫る。
どうやら、そのまま儂を押し潰すつもりらしい。
しかし、それはこちらにとっても好都合。
儂は逃げなかった。
青龍の突進を、真正面から迎える。
「まさか、正面からだと!?」
遠くからガイルの声が聞こえた。
「残像じゃないの!?」
サラも焦ったように叫ぶ。
「先生――――!!」
そして、ロイズの悲鳴。
目の前いっぱいに、青龍の巨大な口が迫る。
並んだ牙は一本一本が巨大な刃物のように鋭い。まともに噛まれれば、この十歳の身体などひとたまりもない。
儂はその迫り来る大口を、両手で受けた。
ズ、ズガガガガガーーッ!!
足元の土を削りながら、身体が後ろへ押されていく。
「ぐぬぬっ……こ、これは、こたえる」
重い。とんでもなく重い。
龍そのものの力に加え、あれほどの巨体が勢いに乗って突っ込んできたのだ。
まともに力比べをすれば、儂の身体など簡単に弾き飛ばされるじゃろう。
じゃが――だからこそ、そこに活路がある。
大きければ大きいほど、強ければ強いほど、動いた時に生まれる力も大きくなる。
そして、動く以上は必ず虚と実が生まれる。
青龍が苛立ったように首を振り、今度こそ儂を噛み砕こうと力を込めた。
今じゃ。
青龍がさらに力を込めた瞬間、儂は半歩だけ懐へ入った。
左足を軸にして、上体をくるりと横へ向ける。
真正面にいた儂の身体が、青龍の進路からすっと外れた。
押し返さない。
力を止めようともしない。
口元へ添えた両手も離さず、そのまま青龍の頭を斜め前へ導いていく。
「よいしょー!」
腰の回転に合わせて、両手を大きく円を描くように運ぶ。
力で持ち上げたのではない。
青龍が自ら突っ込んできた勢い。
そして儂を振り払おうとして首を振った力。
その二つを殺さず、身体の向きを変えながら、ほんの少しだけ進む方向をずらしたのだ。
青龍の頭が儂の横を抜ける。
その勢いに引かれるように、長大な首が続き、さらに巨体そのものが大きく傾いた。
そして――あれほど巨大な身体が、ふわりと浮き上がった。
青龍が宙を舞う。
「……なんという」
遠くで、ガイルが絶句したような声を漏らした。
「嘘だろ!?」
これはロイズ。
「嘘でしょ……龍を!?」
サラまで驚いておるようだ。
「ニャアーーッ!」
グレイは「行けーーっ!」とでも言っておるようだ。
戦っておるわけではないのだがな。
ズズゥゥゥゥゥン!!
青龍の巨体が大地へ落ち、森そのものが揺れた。
土煙が一気に舞い上がり、驚いた鳥たちが木々の間から一斉に飛び立っていく。
「ふう。なんとか上手くいったようじゃな」
大きくても、やることは変わらない。
どれほど強くとも、動く以上は虚実がある。
『太極拳論』には、四両撥千斤という言葉がある。
わずかな力で、千斤の重さを動かす。
もちろん、本当に力などいらぬという意味ではない。
相手の力と正面からぶつからず、その流れに従い、ほんのわずかに方向を変える。
そうすれば、大きな力ほど、かえってその力そのものを利用できる。
青龍ほど巨大な相手なら――なおさらじゃ。
「とはいえ、今のは太極拳というより……」
儂は土煙の向こうで転がる青龍を見ながら、顎を撫でた。
「転から儂が編み出した流転……いや、この場合は『龍転』といったところかの」
「グォォォッ!」
青龍が慌てて身体を起こそうとする。
「おっと、今のうちじゃ」
地面についた巨大な前脚へ駆け寄り、そのまま踏み台にする。
一気に跳び上がって肩へ乗り、そこから首へ。
青い鱗を足場に、さらに頭へと駆け上がっていく。
青龍が儂を振り落とそうと、巨体を激しくくねらせた。
じゃが、もう遅い。
儂はすでに、その頭頂へ立っていた。
「暴れるな」
足元の青龍へ、やさしく語りかける。
「グルルル……!」
不思議なことに、青龍の動きがわずかに鈍った。
やはり、多少は言葉が分かるのか?
「すぐ済むからの」
懐へ手を入れ、ミスリルの鍉鍼を取り出す。
小さな鍼と、巨大な龍。
そして、その頭上に立つ十歳の子供。
龍からすれば、虫にたかられているようなものじゃろう。
遠くにいるガイルたちから見れば、儂が何をしているのかすら分からんかもしれん。
「では――治療を始めるぞ」
ミスリルの鍉鍼を握る。
先ほど診た一点へ、静かにもう片方の手を伸ばし、押手を作る。
鍼の丸い先端を、そっと当てる。
刺さない。
ただ、触れる。
目を閉じ、そして祈った。
この龍が、楽になりますように。
苦しみが消えますように。
また元気になりますように。
そして、この神木が、この森が、再び美しい姿を取り戻しますように。
治してやろうとは思わない。
儂にできるのは、この龍が本来持っている力が働けるよう、ほんの少し手を貸すことだけだ。
だから、心から願う。
ただ、この青龍が健やかになることを。
そして――ほんのわずかな真気を、鍉鍼へ通した。
その想いに応えるように、ミスリルが変化していく。
白銀だった鍉鍼が黄金へと染まり、静かな光を放ち始めた。
儂の真気が鍉鍼の先端まで伝わる。
その小さな刺激に、青龍の気が応じた。
力を押し込むのではない。
巨大な流れを、こちらの思いどおりに変えるのでもない。
滞っていた流れへ、ほんのわずかなきっかけを与える。
こちらじゃぞ、と道を示す。
それだけでいい。
次の瞬間、青龍の身体の奥で、白い龍気と黒い蛇気が動き始めた。
「……おお」
それまで互いにぶつかり、行き場を失っていた二つの気が、今度は絡み合うように流れ始めた。
白は白のまま。
黒は黒のまま。
混ざり合って、別のものになるのではない。
二本の紐を撚り合わせるように、互いの違いを残したまま、くるくると螺旋を描いて進んでいく。
その様子が、儂の心にはありありと映し出されていた。
「これは……」
見覚えがある。
アリエルを治療した時にも見た白と黒。
二つの異なるものが、相手を打ち消すことなく、互いと抱き合うように巡っていく。
その姿は――太極図。
白と黒の流れが、ぐるり、ぐるりと巡る。
まるで太極図そのものが回転しながら、青龍の巨大な身体を駆け抜けていくようだった。
そして――青龍の身体が光った。
「……おぉ!」
遠くで、また騎士たちが息を呑む気配がした。
淡い光が、一本。
また一本。
青龍の頭から首へ。首から背へ。
そこから胸や腹へ広がり、さらに四肢を通って尾の先まで伸びていく。
まるで巨大な身体の内側に隠されていた道が、一筋ずつ姿を現していくようだった。
「また現れたようじゃな、光の経絡が」
アリエルを治療した時に見たものと、よく似ている。そして、先ほどグレイの身体に浮かび上がった光とも。
青龍が大きく目を見開いた。
「グオォ……」
先ほどまでの咆哮とは違う。
怒りでも、苦しみでもない。
自分の身体の中で起きていることに、青龍自身が驚いているような声だった。
光は、さらに広がっていく。
青龍の身体から、神木エルヴァーナへ、一筋の光が伸びた。
ドクン。
巨大な樹が、脈打った。
「……なんじゃ?」
ドクン。
もう一度。
まるで、心臓の鼓動だった。
いや、神木だけではない。
足元の土を通じて、森の奥深くからも同じ響きが伝わってくる。
大地そのものが、脈を打っているようだった。
神木エルヴァーナの幹にも、淡い光が浮かび上がる。
その光は幹から根へ流れ、大地へ潜り、また枝へと昇っていく。
巨大な枝から、さらに細い枝へ。
そして、葉の一枚一枚へ。
一本の神木。
一体の青龍。
その下を流れる、巨大な龍脈。
それらが、もともと一つの身体であったかのようにつながっていく。
そしてやがて――あれほど巨大な神木エルヴァーナ全体が、柔らかな光に包まれた。
お読みいただき、ありがとうございます。
天人合一は、私にとっても理想の境地。
一日一話、毎日20時30分頃に更新する予定です。
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