第56話 サラとグレイの、ほどよい距離感
アドヴァーンを離れてから、しばらくは街道を進んだ。
やがて道は細くなり、山へ入る。
そこからは、護衛騎士サラの出番だった。
先頭を歩きながら、時折足を止める。
地面へ視線を落としたかと思えば、木々の様子を確かめ、耳を澄ませて周囲の音を拾っていく。
「ここを大型の魔物が通っています」
儂には、ただの地面にしか見えん。
「分かるのか?」
「この枝が折れています。それに、こちらの土も少し沈んでいます」
言われてみれば、たしかに不自然な跡がある。
「いつ頃じゃ?」
「それほど古くありません。昨日か、一昨日くらいだと思います」
「大したものじゃな」
「ありがとうございます」
サラが少し嬉しそうに笑った。
なるほどのう。アーセルが遠征に加えただけのことはある。
「サラ先輩は、鼻もすごいんですよ」
ロイズが横から口を挟んできた。なぜか自慢げだ。
「鼻?」
「ええ。かなり遠くにいても、魔物の匂いで分かるらしいんです」
「ロイズ」
サラが鋭く睨んだ。
「あっ、すみません!秘密でしたか?」
「別にいいけど……そんなにたいしたことじゃないんだから、あまり大げさに言わないで」
サラは小さくため息をついた。
「普通の匂いとは、少し違うんです。気配が匂いのように感じられることがあって」
「ほう。気配に匂いがあるのか?」
「特に敵意ですね。こちらを狙っている相手がいると、嫌な匂いがするというか……」
「それは面白いのう!」
儂は思わず身を乗り出した。
儂が気で感じとるのとは、ずいぶん違うようじゃ。同じ気配でも、感じ方は人それぞれということか。
鍼灸師としても、実に興味深い。
「先生まで……」
サラは困ったように笑った。
ところが、山へ深く入るにつれて、意外な者がさらに活躍し始めた。
「ニャ」
グレイがふいに立ち止まった。
鼻をひくつかせ、耳をぴくりと動かす。
「どうした?」
サラがグレイのそばにそっと近づく。
「ニャ」
あっちだ、というように鳴き、グレイは右手の森をじっと見つめた。
サラもそちらに注意を向ける。
「何かいる?」
「ニャ」
こっちに向かってくるようじゃな。
しばらく待っていると、遠くの茂みが大きく揺れた。
大型の猪に似た魔物が、こちらを避けるように森の奥へ消えていく。
サラが目を丸くした。
「……あたしより先に気づいたのか」
「グレイは耳もよいし、おぬしと同じように鼻もきくからのう」
「それだけでしょうか」
サラは、あらためてグレイを見た。
「あたしは索敵に魔法も使っています。それを、こうもあっさり上回られるとなると……」
「ニャ?」
当の本人は、何のことか分からんという顔で首を傾げている。
儂は二人の様子を眺めながら、少し不思議に思った。
そういえば、グレイはサラにだけ、微妙に距離を置いている。
嫌っているわけではなさそうじゃが、サラが近づくと、すっと身を引くことがあるのだ。
まるで、何かを警戒しているかのように。
猫と犬の相性みたいなものかのう。
さらに進んでいくと、今度はグレイが突然、道を外れて左へ歩き始めた。
「グレイ?」
「ニャ」
「次の目的地は、そっちじゃないよ」
サラが声をかけても、グレイは振り返ってもう一度鳴いた。
「何かあるの?」
試しにみんなでついていく。
しばらく木々の間を進んだところで、水の流れる音が聞こえてきた。
小さな沢だった。
「……水場だ」
サラが驚いたように呟く。
先ほど、そろそろ水場を見つけたいと話をしていたのを聞いていたのか。
「グレイ、すごいね。あの距離から分かっていたの?」
「ニャア」
まあね、と得意そうである。
「おぬし、便利じゃのう」
「ニャ!」
褒められたことだけは、きちんと分かったらしい。
魔物の気配を誰より早く察し、水場まで見つける。
山へ入ってからのグレイは、儂が思っていた以上に頼りになった。
しかし、サラも負けてはいなかった。
昼を過ぎた頃のことじゃ。
サラが突然、足を止めた。
「……待ってください」
先ほどまでとは、明らかに声が違う。
「どうしたんじゃ?」
「誰かに見られています」
サラの表情が険しくなった。
グレイも耳を立て、周囲を見回す。
「ニャ?」
どうやら、まだ何も見つけられていないらしい。
「どこにおる?」
「……上です。それも、ただ見ているだけじゃない」
サラがゆっくりと顔を上げた。
「こちらを襲うつもりです」
その瞬間、頭上の枝が大きく揺れた。
樹上から魔物が飛び降りてくる。
異様に長く鋭い爪。
栗鼠に似ているが、地球にいたものより遥かに大きく、顔つきも凶悪だ。
「来ます!」
サラはすでに双剣を抜いていた。
頭上から振り下ろされた爪を、片方の剣で受け流す。
もう一方の剣が、魔物の胴を狙う。
ところが、魔物は空中で身体を捻り、すぐ横の太い枝へ飛び移った。
そこから間髪を入れず、サラの右側へ飛びかかってくる。
速い!
サラは身を翻してかわそうとしたが、足元には太い木の根が張り出していた。
一瞬、踏み込みが遅れる。
魔物の爪が横薙ぎに振るわれた。
儂が動こうとした、その直前だった。
灰色の影が、横から飛び込んだ。
「シャアアアッ!」
グレイだ。
いつもの可愛らしい鳴き声とは、まるで違う。
地面を蹴り、一直線に跳びかかる。
その爪が、魔物の横顔を切り裂いた。
「ギャアッ!」
魔物の身体が横へよろめく。
その一瞬で十分だった。
サラはすでに姿勢を低く沈めていた。
地を這うように踏み込み、相手の死角へ滑り込む。
左右の手に握られた二振りの剣が、ほとんど同時に閃いた。
ドサリ。
魔物が地面へ倒れ、そのまま動かなくなる。
……ほう。見事な連携じゃ。
「サラ、無事か?」
ガイルが駆け寄った。
「はい。グレイが助けてくれました」
サラは双剣を収め、グレイを見た。
「グレイ」
「ニャ」
「……ありがとう」
「ニャア」
どういたしまして、と言っているようだ。
サラがしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。
グレイは一瞬、その手を見つめた。
それから、自分から頭を差し出した。
サラが優しく撫でると、グレイは気持ちよさそうに目を細めた。
……ふむ。
どうやら、少し距離が縮まったようじゃな。
「それにしても、よくあの魔物に気づいたのう」
「ありがとうございます。でも、動きまでは読み切れませんでした」
サラは少し悔しそうだった。
「いや、グレイより先に見つけたではないか。たいしたものじゃ」
「ニャ!」
グレイも同意しているようだ。
「さすがサラ先輩っすね。敵意を嗅ぎつけるのだけは、誰にも負けないんだから」
だから、なぜおぬしが自慢げなんじゃ。
「ロイズ!」
「だから、褒めてるんすって!」
まったく、こやつらは賑やかじゃのう。
しかし、儂はもう一つ、気になることがあった。
サラの剣術じゃ。
ガイルの剣は、無駄が削ぎ落とされ、どこまでも洗練されている。
ところが、サラは少し違う。
身を低く沈め、地を蹴り、相手の死角へ飛び込む。
先ほどの動きなど、まるで獲物に襲いかかる獣のようだった。
むろん、技術が未熟なわけではない。
むしろ、その逆じゃ。
強くなるほど動きが洗練されていくのが、武術の一つの道じゃろう。
だが、サラの場合は、強くなるほど野性的になっていくように見える。
それでいて、無駄な力みがない。
……面白い。まるで、獣へと近づいていくような剣術じゃ。
「サラ、おぬしの剣術は、実に興味深いのう」
「えっ?」
サラはきょとんとしている。自覚がないのだろう。
「ガイルとはまるで違う。野生の獣を思わせる、実によい動きじゃった」
サラは意外そうに目を丸くした。
「……ありがとうございます」
少し照れたように笑う。
「サラ先輩って、昔はもっと普通の剣術だったらしいんすよ」
またしてもロイズが口を挟んできた。
いい加減に学ばんか。
「ロイズ!」
「いや、今度こそ本当に褒めてるんすけど!」
「もういいから!」
サラが呆れたように肩を落とした。
カッカッカッ!
どうやら、この二人の距離感は絶妙なようじゃな。
儂はあらためてサラを見た。
力を抜き、身体の感覚に従って動く。
その点では、儂の太極拳にも通じるものがある。
しかし、サラの身体が向かおうとしているのは、儂とはまるで違う方向のようじゃ。
武術とは、実に奥深いのう。
「ところで、先生」
ロイズが、珍しく真剣な顔をしている。
「なんじゃ」
「グレイって……普通の魔物じゃありませんよね?」
「普通?」
「だって、賢すぎますよ。俺たちの言葉も、ほとんど分かってるみたいだし。索敵じゃサラ先輩より先に気づくし、それに今の強さ……」
「ロイズ」
サラがじろりと睨んだ。
「また余計な一言が混じってる」
「いや、でも本当でしょう!」
「……否定はしないけど」
サラも改めてグレイを見る。
「確かに、これほど知能も能力も高い個体は、あたしも見たことがありません」
ガイルも静かに頷いた。
「でしょう? もしかして、『上位種』なんじゃないですか?」
「上位種?」
聞き慣れない言葉だった。
「なんじゃ、それは」
ロイズが目を丸くする。
「先生、上位種を知らないんですか?」
「知らん。この世界へ来て、まだそんなに経っとらんからの」
「ああ……そうでした」
時々、こやつらは儂が異世界人だということを忘れておるな。
代わって、ガイルが説明してくれた。
「同じ種類の魔物でも、稀に通常の個体とは比較にならないほど強いものが現れます。知能や特殊な能力まで大きく異なる場合があり、我々はそうした個体を『上位種』と呼んでいます」
儂はグレイを見る。
「おぬし、上位種なのか?」
「ニャ?」
首を傾げた。
「本人も知らんようじゃぞ」
「本人に聞いて分かるんですかね……」
ロイズが困ったように笑う。
さて、上位種か。
森で初めて会った時のグレイを思い出す。
あの頃から、ただの魔物ではないとは思っていた。
だが、儂が治療してから、以前より明らかに賢くなっている。理解できる言葉も増えた。
そして何より、体内を巡る気そのものが変わった。それにより、力も増したのだろう。
もともと上位種だったのではなく――上位種になったのか?
これは少し、気になるのう。
「先生?」
「いや、なんでもない」
今ここで考えたところで、答えは出ん。
上位種だろうが、そうでなかろうが。
グレイはグレイじゃ。
「まあ、元気ならそれでよい」
「ニャ!」
「先生はもう少し気にしてください!」
ロイズがすかさず突っ込む。
やかましいわ。
お読みいただき、ありがとうございます。
サラが目立ってきましたね。
グレイとなぜ距離があったのか。そこも少し気になります。
一日一話、毎日20時30分頃に更新する予定です。
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