第5話 異世界という患者
神はしばらく、その老人を見つめていた。
「……黄崎真言殿」
「はい」
「あなたをここへ呼んだ理由を、お話ししたい」
「伺いましょう」
神が片手を上げる。
すると、白い空間に青い球体が浮かび上がった。
「これは?」
「私が治める世界だ」
「ほう」
真言が目を細める。
球体の表面には、大地と海が広がっていた。
「この世界には、気が巡っている」
真言の眉が、ぴくりと動いた。
「気、と申されましたか」
「ああ。あなたがそう呼ぶものと、まったく同じかは分からない。だが、天地を巡り、あらゆる生命を支えている力だ」
「なるほど」
真言の目が、輝き始める。
「続けてくだされ」
神は頷いた。
「天と地。光と闇。生と死。相反するものが互いに働き、この世界は均衡を保っている」
「陰陽ですな」
「……やはり、そう捉えるか」
「儂には、それが一番分かりやすいのです」
神は球体へ手をかざした。
すると大地の中に、幾筋もの白い光が浮かび上がった。巨大な川のように、世界中を巡っている。
真言が思わず一歩近づく。
「これは……」
「大地を巡る力の流れだ」
「地脈」
真言が即座に言った。
「あなたの世界では、そう呼ぶのか」
「神様がおっしゃるものと同じかは分かりませんが、似た考えはあります」
真言は食い入るように球体を見つめていた。
神は、わずかに苦笑した。
世界の危機について話しているというのに、この老人は恐れるどころか、どこか楽しそうに見える。
「問題は、ここからだ」
神が指を動かした。
白い光の流れの一部に、別のものが現れる。
黒いというより、光そのものを侵食するような、底知れない闇。色では表せない、奇妙な揺らぎだった。
白い光の中を黒いものが漂うその光景には、不気味でありながら、どこか奇妙な美しささえあった。
「これは?」
「分からない」
神は率直に答えた。
真言が神を見る。
「神様にも?」
「ああ」
神は頷いた。
「この世界には、本来存在しなかった気だ」
「ほう……」
「いつからか、これが地脈に混じるようになった」
異質な気が地脈へ入り込む。
その周囲で、白い光の流れが乱れ始めた。
「流れが滞る場所が生まれた。逆に、力が集まりすぎる場所もある。魔物が凶暴になる地域もあれば、作物が育たなくなった土地もある」
真言は黙って見ている。
「人にも影響が出ている。そして、その範囲は少しずつ広がっている」
「ふむ……」
「我々も、何もしなかったわけではない」
神の表情が曇った。
「異質な気を取り除こうとした。だが、できなかった」
「なぜです?」
「私もまた、この世界の理の一部だからだ」
神は自分の掌へ目を落とした。
「私の力は、この世界の気と強く結びついている。だからこそ、この世界に属さないものとは激しく反発する」
「なるほど」
「無理に消そうとすれば、地脈そのものを傷つけてしまう」
真言が小さく頷いた。
「腑に落ちました」
「分かるのか?」
「患部だけを見て、力ずくで取り除けばよいとは限りませんからのう」
真言は再び球体へ目を戻した。
「それで、儂を?」
「ああ」
神は真言と向き合った。
「我々に必要なのは、異質な気を打ち消す力ではない」
一拍置いて、真言の目を見つめる。
「異なるものに触れ、その性質を感じ、波長を合わせられる者だ」
真言は黙って聞いている。
「私は長い間、そのような魂を探していた。そして――あなたを見つけた」
「儂を」
「あなたは七十年以上、人の気に触れ続けてきた。自らの気を練り、他者の力を受け、争わずに合わせる術を身につけている」
神は、先ほどの召喚を思い出した。
「そして今日、確信した」
「何をです?」
「あなたは、私の神気にさえ適応した」
神は球体の中で揺らめく異質な気へ目を向けた。
「避けながら、あなたは私の力を感じ、学んでいた。ならば――これにも触れられるかもしれない」
真言もまた、その奇妙な揺らぎを見つめた。
白い空間に浮かぶ世界では、光の流れの中へ異質な気が入り込み、ところどころでその巡りを乱している。
「黄崎真言殿」
神の声が、わずかに低くなった。
「どうか、この世界を救ってほしい」
真言は、すぐには答えなかった。
球体へ一歩近づき、地脈をじっと眺める。正常に巡っているところもあれば、淀み、膨らみ、互いにぶつかり合っているところもある。
しばらくして、真言は顎を撫でた。
「なるほどのう……」
世界を救うときたか。儂には分不相応に大きな話だ。
「何か分かったのか?」
「いや。何も」
「何も?」
「まだ診てもおらんのですから、分かるはずがありません」
神が、わずかに目を見開いた。
真言はもう一度、球体を見る。
「ただ、要するに――この世界は、気の流れが悪いということなのでしょう?」
神は一瞬、言葉に詰まった。
世界の存亡に関わる話をしていたつもりなのだが。
「……大雑把に言えば、そうなる」
「ならば、やはり同じですな」
「同じ?」
「人の身体とです」
真言は球体の中に漂う異質な気を指した。
「それに、この気。ずいぶん嫌われておるようですが――悪いものとは限らんでしょう」
神の動きが止まった。
「……何?」
「この世界のものではない。それだけなのでしょう?」
「ああ」
「なら、それだけで悪者にしてしまうのは早い」
真言は穏やかに続けた。
「身体でも、同じことがあります。何かがあるから悪いのではない。それがうまく働けず、周りと噛み合わんことで、具合を悪くすることもある」
神は何も言わなかった。
「光が偉くて、闇が悪いと決まっておるわけでもありますまい」
真言は球体の中で揺らぐ異質な気を見つめながら、独り言のように呟いた。
「これを消せばよいのか。外へ出せばよいのか。それとも――この世界の気とうまく馴染めるよう、少し手を貸してやればよいのか」
「うまく馴染めるように、手を貸す……?」
神にとって、予想外の言葉だった。
「それも、まず診てみんことには分かりませんな」
真言はニカッと笑った。
神は、その老人をじっと見つめていた。
世界を救ってほしいと頼んだ。
だが、真言は世界を救うとは言わなかった。異質なものを倒すとも、消すとも言わない。
まず診る。
その性質を知り、どうすればうまく巡るのかを考える。
真言にとっては、それだけのことだった。
「……人も世界も、あなたにとっては変わらないのだな」
「さて」
真言は少し考えた。
「儂は鍼灸師ですからのう」
その答えに、神はしばらく黙っていた。
やがて、ほんのわずかに笑う。
「なるほど」
長い間探し続け、ようやく見つけた魂。
その判断が正しかったことを、神はこの時、改めて理解した。
「……引き受けていただけるのか?」
「そのために儂を呼ばれたのでしょう?」
「ああ」
「ならば、行ってみましょう」
あまりにあっさりした返事に、神の方が拍子抜けした。
「ただし」
真言が指を一本立てる。
「治せるとは言えませんぞ」
「……なぜだ?」
「鍼灸師が治すのではありません。治すのは、その者の身体が持つ力です」
真言は静かに続けた。
「儂に出来ることは、その力が働けるよう手を貸すこと。そして――ただ最善を尽くすことのみです」
神はしばらく真言を見つめた。
「あなたのその言葉には、万金の価値がある」
真言は、小さく頭を下げた。
お読みいただき、ありがとうございました。
本日、二回目の投稿です。
のちほど、序章の最終話となる第六話を投稿いたします。




