第49話 SIDE アドヴァーン 老鍼灸師対策会議
マコトから易の結果を教えられたその夜、アドヴァーン城の一室には三人だけが集まっていた。
領主アーセル・アドヴァーン、その娘アリエル、そして騎士団長ガイル。
扉の外には人払いがされ、侍従すら近づけていない。
アリエルの身体は、見違えるほど元気になっていた。
それどころか、今では全身に覇気さえ漲っている。
その姿を見るたび、アーセルは胸の奥から安堵が込み上げてくる。
娘を救ってくれた。
それだけでも、マコト・イエローという少年には返しきれない恩がある。
だが、領主として考えれば、ただ感謝していれば済む話でもなかった。
「まず確認しておきたい」
アーセルは二人を見た。
「今夜ここで話すことは、当面、我々三人だけのものとする」
ガイルが頷く。
「もちろん異存ありません」
アリエルも父の表情を見て、静かに背筋を伸ばした。
「はい、お父様。先生のことですね?」
「ああ」
アーセルは額に手を当てた。
「マコト殿は……どうにも、我々の常識では測れんところが多すぎる」
ガイルが静かに口を開いた。
「最初は、どこまで本当なのだろうと思っていましたが――私はもう、疑っておりません」
「私もです」
アリエルも迷わず続ける。
アーセルは二人の顔を見て、ゆっくり息を吐いた。
「分かっている。私も同じだ」
十歳の身体に、九十三歳まで生きた老人の記憶がある。
初めて聞いた時は、到底そのまま信じられる話ではなかった。
だが今となっては――むしろ、すべて本当だと思った方が、まだ納得できる。
娘の命を救った治療だけでも、十分に常識外だった。
それに加えて、神と会ったという話。別の世界から転生してきたという素性。
一人で騎士団全員を投げ飛ばす武術。
魔法を消す不可解な技。
そして先ほどの、未来を見通しているとしか思えない占術。
なにより、龍気と蛇気という、この世界の根幹に関わりかねない問題に気づいている。
しかも、今のところ、それに対処する術を持っているのもマコトだけだ。
そして、その問題を何とかしてほしいと、神から直接託されているという。
……一体、どれから話を進めればいいのだ。
「まずは神木エルヴァーナだ」
ガイルには、先ほどの易についてもすでに伝えてある。
「マコト殿が、神木まで連れて行ってほしいと言っていた件だ。これは我々としても願ってもない話だ。ぜひ行ってもらわねばならない」
「そうですな。さっそく騎士団から人選を始めましょう」
ガイルも、すでにそのつもりだったらしい。
「大人数で動くのは、マコト殿も望まないでしょう。少数精鋭で、私も同行したいと思います」
「頼む」
アーセルは頷いた。ガイルが同行してもらえれば心強い。
問題は、他にもある。
「それにしても……何なのだ、あの術は」
「易、ですね」
今度はアリエルが答えた。
アーセルは頷く。
「あれは、本当に占いなのか?」
「先生は、そうおっしゃっています」
「私には、未来を見ているようにしか思えなかったぞ」
アーセルの言葉に、部屋が静かになった。
この世界にも、未来を知る力は存在する。
だが、それは王家に伝わる神聖な力であり、選ばれた者だけが扱える“神の御業”とされている。
それをマコトは、筮竹という細い棒の束を使って行う。
しかも、一度きりではない。
道を選ぶ時にも、天候を読む時にも、何か迷うたびに、少し考え事でもするような気軽さで使っているらしい。
「今のところ、外れていないのだな?」
「私が知る限りでは、一度も」
「一度も……?」
アーセルが言葉を失った。
そこでアリエルは、つい数日前にあった出来事を話した。
その日、マコトは何やらぶつぶつ言いながら、アリエルの指導に使っている部屋へ戻ってきた。
「どこじゃったかなあ」
「先生、どうされたのですか?」
たまたま部屋にいたアリエルが声をかける。
どうやら、読みかけの本を城のどこかへ置き忘れたらしい。
するとマコトは、これはいかん、とすぐに筮竹を取り出した。
そして、ひとしきり易を立てたあと――。
「そうじゃった、そうじゃった」
そう言って食堂へ向かい、食卓の椅子に置いてあった本を見事に見つけた。
……占う前に、もう少しよく探せばよいのではないだろうか。
その時は、危うく口に出しかけた。
一体、どんな卦が出たのだ。
アリエルの話を聞き終えたアーセルは、しばらく黙り込んだ。
なんだ、その手軽さは。
もし王家が知れば、呼び出しは避けられないだろう。
そこで素直に保護されるだけなら、まだいい。
だが、その力を危険視されれば、拘束される可能性もある。
秘匿のために自由を奪われることも、能力の利用を求められることも考えられる。
「最悪の場合――投獄。あるいは、処刑すらあり得る」
アリエルの顔色が変わった。
「そんなこと、絶対にさせません!」
「落ち着け」
「ですが!」
「私も、させるつもりはない」
アーセルは娘の目をまっすぐ見た。
「それに――マコト殿が、そう簡単に捕まるとも思えん」
むしろ問題は、その先だ。
王家が拘束しようとする。
マコトがそれを拒む。
その時、何が起こるのか。
アーセルには、そちらの方がよほど恐ろしかった。
「もし王家に知られ、マコト殿の素性を問われた場合……何と答えるべきでしょうな」
ガイルが腕を組む。
「神に呼ばれてこの世界へ来た、などと話せば、さらにややこしくなりそうです」
「ああ、その通りだ」
アーセルの声が低くなった。
「しかも、マコト殿には、自分が神と会ったことを隠す気がまるでない」
アリエルが少し困ったような顔をする。
「先生なら、聞かれれば普通にお話しすると思います」
「だろうな」
そこがまた問題だった。
「この世界最大の宗教組織は、白の教団だ」
アーセルは言った。
「彼らが突然現れた十歳ほどの少年を、“神に選ばれた使徒”として、そのまま受け入れると思うか?」
「……難しいでしょうな」
ガイルの返答は早かった。
「認めなければ、異端として扱われる可能性もある。排除しようとする者が出てもおかしくない」
アリエルの表情が険しくなる。
「先生が危険なのですか?」
アーセルは首を振った。
「やはり、マコト殿がむざむざ殺されるとは思えん」
ガイルも黙って頷いた。
「教団が手を出し、マコト殿がそれを退ける。そこへ我々まで関われば、もはや宗教上の揉め事では済まなくなる」
アーセルの声がさらに低くなった。
「下手をすれば、国そのものを巻き込むことになる」
アリエルが息を呑んだ。
「逆も厄介でしょうな」
ガイルが続ける。
「教団が本気で、マコト殿を神の使徒だと信じた場合です」
「ああ。今度は、自分たちの側へ取り込もうとするだろう」
そこで、アリエルがわずかに表情を曇らせた。
「……それに、先生の髪も気になります」
「髪?」
アーセルが娘を見る。
「白の教団は、“白”を神聖な色として扱っていますよね」
「ああ。……そうか、なるほど」
「先生は、あれほど目立つ白髪です。もし“神の使徒”だという話と一緒に広まったら――」
アリエルは少し言葉を選んだ。
「教団の人たちが、勝手に意味を結びつけるかもしれません」
ガイルの顔が険しくなる。
「……白髪の使徒、ですか」
「はい。先生自身には何の関係もなくても、信じたい者にとっては、都合のいい象徴になってしまうかもしれません」
アーセルは深く息を吐いた。
しかも、ややこしいことに──実際にマコトは、神に選ばれてこの世界へ来た。本物の“神の使徒”なのだ。
そして今、この辺境には、白の教団に深く関わる人物がいる。
――“漆黒の聖女”。
アドヴァーン家が運営する治癒院の院長。
白の教団に属する聖女でありながら、見事な黒髪を持つ女性だ。
治癒の腕は“神の手”とまで呼ばれている。
この地が彼女に何度助けられたか分からない。
アーセル自身、その腕も人柄も高く評価していた。
できることなら、今回も力を借りたい。
だが、話はそう簡単ではない。
彼女は白の教団に属している。
しかも、白を神聖視する教団の中では、その黒髪ゆえに快く思われていない。ほとんど追いやられるようにして、この辺境へ来たとも聞いている。
白を尊ぶ教団に身を置きながら、“漆黒の聖女”と呼ばれる女性。
その立場は、決して単純ではない。
マコトのことを知った時、彼女がどう受け止めるのか。
アーセルにも、それは読めなかった。
「……厄介だな」
教団から異端として排除される可能性もある。
逆に、神聖な徴を持つ使徒として祭り上げられる可能性もある。
そのうえ、この辺境には“漆黒の聖女”までいる。
どの方向へ話が転んでも、簡単には済みそうになかった。
アーセルとしては、恩人を宗教争いの中心へ放り込みたくない。
しかし、本人にその自覚がまるでないことが頭痛の種だった。
そこへ“漆黒の聖女”まで絡めば、話はさらに面倒になる。
「……もう一つ、気になることがありますな」
ガイルが低い声で言った。
「なんだ」
「マコト殿は鍼灸師です。そして、漆黒の聖女は、この辺境で最も大きな治癒院の院長でもある」
「……どうしても、顔を合わせることになるな」
「二人が会えば、治療の話になるでしょう」
「なるだろうな」
しかも、どちらも腕は確かだ。
それだけなら、この辺境にとってはむしろ喜ばしいことだろう。
問題は、治療に対する考え方まで同じとは限らないことだった。
「……もめそう」
アリエルがぽつりと言った。
「先生の考え方は、この世界ではかなり独特ですからね」
「“魔法が治すのではない。治すのは、その者の身体だ”……と、マコト殿なら言いそうですな」
ガイルが、まるで実際に聞いたことがあるかのように言う。
「目に浮かぶようだ」
アーセルは、本気で頭を抱えたくなった。
片や、異世界から来た鍼灸師。
見た目は十歳だが、中身は九十三歳。しかも、治療のこととなると妙なところで頑固だ。
片や、“神の手”と呼ばれる辺境最大の治癒院の院長。
白の教団に属する聖女でありながら、その二つ名は“漆黒の聖女”。
清楚な見た目からは想像もつかないほど腹黒いからだ――などという噂まである。
そんな二人が顔を合わせて、本当に何事もなく済むのだろうか。
「……今は考えないことにしたいな」
「無理でしょうな」
ガイルの返事は、あまりにも早かった。
・・・・・・
「次は、あの魔法を消す技だ」
「マジック・キャンセルですね」
ガイルの表情がわずかに強張った。騎士団長として、あの技術には強い関心がある。
「あれが黄金の塔に知られた場合、どうなると思う?」
「王都アウレリアへの召喚を求められるでしょう」
「おそらくな。断れば、高位の魔術師たちがこちらへ押しかけてくるかもしれん」
アリエルが眉を寄せた。
「そんなに珍しいことなのですか?」
「珍しいどころではありません」
ガイルが答えた。
「魔法を防ぐ術ならあります。耐えることも、逸らすことも、跳ね返すこともできる。発動する前に術者を止めることもできます」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、発動した魔法そのものを消してしまうなど、私は聞いたことがありません」
「そのようなことが可能なら、今の魔法戦術そのものが根底から揺らぎかねん」
「もし実用化できれば、この辺境の地での戦い方も大きく変わるでしょう」
「黄金の塔が放っておくはずがありませんね……」
アーセルには、その先まで容易に想像できた。
研究対象として囲い込もうとする者も出るかもしれない。
当然、軍事利用を考える者もいるだろう。
そして、もう一つ厄介なことがある。
マコト自身が、魔法というものに強い興味を示しているのだ。
「むしろ、マコト殿の方から喜んで魔術師たちについていきかねん」
「……否定できませんな」
ガイルが苦笑した。
アリエルも困ったように頷く。
「先生、知らない魔法を見たら絶対に喜びます」
三人とも、同じ光景を思い浮かべた。
高位の魔術師たちに囲まれながら、目を輝かせて、
「もう一度やってみてくだされ」
などと頼んでいる白髪の少年。
アーセルは、こめかみを押さえた
・・・・・・
しばし茶を飲み、一息つくことにした。
「そういえば、マコト殿の稽古の方はどうなのだ?」
アーセルが何気なく尋ねる。
すると、アリエルとガイルが顔を見合わせた。
「……どうした?」
二人の反応に、アーセルの声がわずかに不安を帯びる。
「いえ……」
ガイルが少し言葉を選んだ。
「以前にもご報告した通り、マコト殿の訓練は、我々がこれまで聞いたこともないような手法ばかりです。しかし、どれも実に理に適っている。騎士団にとって、大きな恩恵になることは間違いありません」
「私も同じです」
アリエルが続けた。
「先生から教わっている医学も、これまで聞いたことのないものばかりです。とてつもない量の知識と経験に裏打ちされた、本当に素晴らしい医術だと思います」
「……なら、何も問題ないではないか」
「それが……大変、厳しいのです」
ガイルが呻くように答えた。
「厳しい?」
「あの穏やかな物腰からは想像できないほど、我々を追い詰めてきます」
ガイルの表情が、少しだけ遠くなった。
「しかも、怪我をしないように、身体を壊さないように、細心の注意を払いながらです」
「それは……よいことではないのか?」
「限界を超えないようにしながら、限界ぎりぎりまではきっちり連れていかれるのです」
「……それはきつそうだな」
「身体の状態まで診られていますから、疲れたふりも通用しません。終わったあとは治療までされます。翌朝には、また動ける程度に回復している。いえ、もちろん感謝しているのです。今までより、ずっと楽に動けるようになったと。みな心から感謝しているのですが……」
アーセルは黙った。
「さらに厄介なのは、あまりに効果があることです。実際に身体の動きは良くなっていますし、騎士たちも自分でそれを感じている。ですから、正面から文句も言いづらい」
「……なるほど」
「最近ではあまりの過酷さから、本人のいないところで“クソジジイ”と呼ぶ者まで出ております」
「それは先生に失礼です」
アリエルがすぐに言った。
だが、気持ちは、よく分かる。
アリエル自身、もう少し穏やかな言い方ではあるが、心の中で何度も怒鳴っていた。
最初は、優しそうに思えたのだ。
「アリエル殿はまだ幼いのじゃから、最初から頑張りすぎなくてよい。病み上がりでもあるし、領主の娘として学ばねばならぬことも多いのじゃろう?」
そんなことも言ってくれていた。
その時のアリエルは、先生は自分の身体を気遣い、長い目で育てようとしてくれているのだと思った。
むしろ、自分の方から厳しくしてくれと言おうとさえしていた。
早く学びたいと。もっと強くなりたいと。
多少厳しくても構いません、と。
完全に甘かった。
まず脈を診られる。顔色を見られる。呼吸も、身体の動きも見られる。
その日の体調をほとんど見抜かれたうえで、きっちり限界ぎりぎりまでやらされる。
何が「無理をするな」だ。
あれだけの勉強を十三歳に与えておいて、よく言えたものである。
鬼か。
「アリエル……?」
ついギリギリと奥歯を噛み締めていたアリエルを心配そうに見つめるアーセル。
「いえ、なんでもありません」
父の声で、アリエルは我に返った。なんとか笑顔を見せる。
ガイルが小さく咳払いする。
「私からも、少し手加減していただけないかとは伝えました」
「それで?」
「分かったとは言ってくれたのです。しかし、本当に聞き入れていただけたかどうかは、何とも」
「何とも?」
「どうもマコト殿は、都合が悪くなると急に年寄りになることがありまして」
アーセルが眉を寄せた。
「どういうことだ?」
「忘れたふりをするといいますか……自分に都合のいいように解釈してしまうといいますか」
説明するのも難しい。
アーセルは少し呆れたように言った。
「私の祖母も、そんな感じだったぞ」
同意するように深く頷いていたアリエルが表情を改めた。
「先生から教わっている鍼灸の学問は、私一人だけが教わって終わりにしてよいものではないと思っています」
「というと?」
「あまりにも広く、膨大なのです。それに、私たちが知っている医学とは、身体の見方そのものが違います」
アリエルは少し考えてから続けた。
「病や身体のことだけではありません。世界の成り立ちや人がどう生きるかという考え方、身体の動き、力の働き、数を使って物事を考える方法まで、すべてがつながっているんです」
「なるほど」
「先生にとっては、それら全部が鍼灸を学ぶために必要なことなのでしょう。でも、この世界には、まだ知られていない考え方ばかりです」
アリエルは少し考えてから続けた。
「私がすべてを独占して教わるには、重すぎます。いつか先生の教えを残し、他の人たちにも伝えていけるような方法を考える必要があると思います」
「なるほど……」
アーセルは静かに頷いた。
「分かった。それについては、また改めて相談しよう」
・・・・・・
アドヴァーン首脳部の密談は再開された。
「だが、本当に厄介なのはここからだ」
アーセルは、卓上に広げられた地図へ目を落とした。
「龍気と蛇気のことは、いつまでも隠しておくわけにはいかん」
アリエルの表情も変わった。
これは、マコト個人の秘密とは話が違う。
もし蛇気がこの世界の各地で龍気を乱しているのなら、アドヴァーンだけの問題では済まない。
「人類全体……いえ」
アリエルが呟いた。
「世界全体の問題ですね」
「ああ、その通りだ」
アーセルは地図の上を指でなぞった。
「人間の国だけではない。エルフも、ドワーフも、獣人も、他の種族も関わってくる可能性がある。各国、各種族が力を合わせなければならない事態になるかもしれん」
「それなら、早く知らせるべきでは?」
ガイルなもっともなことを言う。
「それが簡単なら苦労はせん」
アーセルは苦い顔をした。
「正体不明の異質な力が、世界の各地に現れている。その力に触れられるのは、異世界から来た神の使徒かもしれない少年だけだ――そんな話を突然公表してみろ」
ガイルが静かに続けた。
「混乱は避けられませんな」
「それだけではない。白の教団は口を出す。黄金の塔も動く。各国が情報を独占しようとするかもしれん。マコト殿そのものを確保しようと考える国が現れても不思議ではない」
蛇気の正体を調べるより先に、人間同士で争い始める。
そんなことだけは避けなければならない。
「まずは、情報を集める」
アーセルは結論を口にした。
「蛇気がどこまで広がっているのか。龍気との関係は何なのか。そして、マコト殿には何ができるのか。それを確かめる」
一度言葉を切る。
「そのうえで、誰に、どこまで、どの順番で伝えるべきかを考えよう」
二人が頷いた。
しばらく、三人とも口を開かなかった。
やがてアーセルが、深く息を吐く。
「できればな」
二人が顔を上げた。
「マコト殿には、しばらくアドヴァーンにいてもらいたい」
それは、領主としての本音だった。
娘を救ってくれたからだけではない。
この世界の常識をほとんど知らないまま王都や他国へ行かれれば、何が起こるか予想もつかない。
「ここで研究を続けてもらいながら、この世界のことを少しずつ知ってもらう。それが一番いい」
「しばらく、とはどれくらいですか?」
アリエルが尋ねた。
アーセルは真顔で答えた。
「十年」
アリエルが目を瞬いた。
「できれば二十年でもいい」
「お父様?」
「本気だ」
ガイルが小さく笑った。
「その頃には、マコト殿も少しは大人びた姿になっているかもしれませんな」
「中身は百歳を超えるぞ。もっとも、この世界のことを学んだところで、あの老人がおとなしく従ってくれるかは分からんがな」
「……それもそうですな」
ほんの少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
だが、そこで新たな問題が出てくる。
どうやって、マコトにこの地へ留まってもらうのか。
「金では動かんだろうな」
アーセルが呟いた。
「ええ」
ガイルもすぐに同意した。
「名誉にも、まったく興味はなさそうです」
「爵位など差し出したところで、むしろ面倒がられそうだ」
アーセルには容易に想像できた。
『そんなものはいらん』
おそらく、それで終わる。
「となると……」
アーセルが少し考え込む。
「縁談、という手も――」
「お父様」
低く鋭い声だった。
アーセルが顔を上げる。
アリエルが、冷たい目でじっとこちらを見ていた。
「先生に、そのような手が通じるとは思えません」
「いや、もちろん本気で言ったわけでは――」
「先生は見た目こそ十歳ですが、中身は九十三歳です」
「う、うむ」
「そのような方を相手に、何を考えているのですか」
「その通りだ。私も本当に縁談を進めようなどとは思っていないぞ。なあ、ガイル」
アーセルが助けを求めるように視線を向ける。
「ええ、そうですな」
ガイルも慌てて頷いた。
「そもそもマコト殿が、女性に対して関心をお持ちなのかどうか――」
アリエルの視線が、今度はガイルへ向いた。
ガイルは思わず姿勢を正した。
「先生に対して失礼ですよ」
「……そうですな」
「この話はやめましょう」
「最初から、そのつもりだ」
アリエルの目は、まだ少しだけ厳しかった。
アーセルは軽く咳払いをした。
「ともかくだ。金でも、名誉でも、縁談でも、あの方を何かで縛りつけようとすれば、おそらく逆効果だ」
「私もそう思います」
ガイルが頷いた。
「ならば、ここにいたいと思ってもらうしかないでしょうな」
その言葉に、アーセルはしばらく考え込んだ。
そして、娘を見る。
マコトが最も信頼し、目をかけている者の一人。
マコトを心から敬い、自ら弟子になることを望んだ少女。
そして同時に、いずれアドヴァーンを継ぎ、この土地を守っていく立場にある自分の娘。
「アリエル」
「はい」
「マコト殿を縛る必要はない。監視する必要もない。ただ、何を口にすれば大事になるのか。何をすれば騒ぎになるのか。この世界のことを教えてやってくれ」
アーセルは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「おそらく、あの方にはそれが一番必要だ」
アリエルは姿勢を正した。
マコトを監視するつもりはない。
自由を奪うつもりもない。
ただ、マコトはこの世界のことを、まだほとんど知らない。
そして先生が自分で思っている以上に、その言葉にも、その力にも、大きな意味がある。
ならば、それを伝えていくのは、自分の役目なのだろう。
弟子として。
命を救ってもらった者として。
そして、アドヴァーン領主の娘として。
そのためならば――。
あの無茶な勉強にも、訓練にも、耐えてみせる。
「アリエル、頼むぞ」
父の言葉に、アリエルは迷わず頷いた。
「お任せください」




