第48話 筮竹が告げる、病み始めた神木
アドヴァーン城の皆が寝静まった夜。
儂は一人、自室の机に向かっていた。
灯りの下に置かれているのは、細い棒の束。
筮竹である。
易を立てる時に使う、細長い棒だ。
もっとも、本物の竹ではない。
森で暮らしていた頃、ちょうどよい枝を見つけ、自分で削って作ったものだ。
地球にいた頃から、易は長く学んできた。
東洋の学びには、命・相・卜・仙・医を一つの道として捉える、「五術一道」という考え方がある。
命を知り、相を観て、卜によって時を読み、仙によって己を養い、医によって人を診る。
一見すると別々の道に見えるが、儂にとってはどれもつながっていた。
その根にある東洋思想を学ぶうえで、易――『易経』は欠かすことのできないものだった。
何かに迷った時。
進むべきか、退くべきか。
動くべきか、それとも待つべきか。
そんな時には、よく易を立てた。
もちろん、未来を言い当てるためだけではない。
自分では見えていなかったものを、別の角度から見つめ直す。
今、自分がどこにいて、どのような流れの中にいるのかを考える。
儂にとって易とは、そういうものだった。
異世界へ来てからも、何度か使っている。
森を出る時や進む方角を決める時。
そして、アドヴァーンへ向かう時。
ただ――最近、一つ妙に気になっていることがあった。
当たるのだ。
それも、妙に。
地球にいた頃よりも、卦の示すものがはっきりしている。
吉凶や流れを感じ取るだけではない。
時折、まるで誰かに直接見せられているように、具体的な像まで浮かんでくる。
「さて……」
今夜も、一つ見てみるか。
儂は姿勢を正し、呼吸を整えた。
問いを定める。
――このアドヴァーンに、何か大きな異変は起きていないか。
筮竹を取る。
分ける。数える。また分ける。
いつもの手順を、淡々と繰り返していく。
やがて、一つの卦が現れた。
儂はそれを見て、眉を寄せた。
「……山風蠱か」
上卦は艮。山を表す。
下卦は巽。風を表し、木にも通じる。
そして「蠱」とは、長い時間をかけて内側に傷みや乱れが積もり、腐敗していくような状態を表す。
山風蠱が意味するもの。
すでに何かが傷み始めている。
放っておけば、その乱れはさらに深くなる。
だが同時に、この卦には――傷んだものを正し、立て直していくという意味もある。
儂は腕を組んだ。
「これは……」
あまり、のんびり構えてよい卦ではない。
何かがこれから起こるというよりも――。
もう、起きている。
しかも、放っておけばさらに悪くなる。
早く手を打った方がよい。
そんな感じがした。
そして、もう一つ。
「山と……木」
そこが妙に引っかかる。
山と、その向こうにある木。
しかも、ただの木ではない。
古い。とても長い年月を生きてきたもの。
それが――内側から病んでいる。
「ふむ……」
儂は筮竹を見つめた。
まただ。具体的すぎる。
地球にいた頃なら、ここまで一つの像として感じることは滅多になかった。
「おぬし、本当にただの木の枝か?」
筮竹へ聞いてみる。
当然、返事はない。
代わりに寝台の方から、
「ニャ」
と返ってきた。
「おぬしには聞いとらんよ」
グレイに微笑みかける。
とはいえ――この卦は、どうにも気になる
・・・・・・
翌日、朝の稽古を終えた儂は、アーセルに少し時間をもらえないかと頼んだ。
場所は、以前にも話をした城の一室。
アリエルも同席することになった。
儂は昨夜使った筮竹を、机の上へ置く。
「アーセル殿。少々、妙なことをお尋ねしてもよろしいかな」
「もちろんだ。何だろう」
「このアドヴァーンから、山をいくつか越えたあたりに――」
昨夜の卦を思い返す。
「何か、特別な木はありませんかな」
アーセルの表情が変わった。
アリエルも、驚いたように儂を見る。
「……なぜ、それを?」
やはり。どうやら今回の卦も当たったようだ。
「あるのですな」
アーセルは、ゆっくりと頷いた。
「ある。神木エルヴァーナだ」
「えるゔぁーな」
初めて聞く名だった。
「アドヴァーンから、いくつか山を越えた先に、古くから聖地とされている森がある。その中心に立つ巨大な樹だ」
森だと。
まさか――。
「それは、ここから東へ数日ほど進んだところにある森ですかな?」
「ああ、そうだ。知っているのか?」
「おそらく……儂は、その森から来ました」
「なに?あの森でだと」
アーセルが目を見開いた。
「儂は神様にこの身体を与えられ、森の中にある一軒家で目を覚ましたのです。そこで、この身体に馴染むまでの数ヶ月ほど過ごしていました」
「なんと……。十歳の身体で、よく生きて出て来られたな」
そこまでか。
儂にとっては、ヨモギを探したり、グレイと出会ったり、黒龍を診たり、なかなか面白い森だったのだが。
「だが、あの森は広大だ。同じ森の中といっても、すべてを把握するのは不可能だろう」
アーセルは地図を広げ、おおまかな位置関係を説明してくれた。
アドヴァーンから東へ進み、いくつか山を越えた先に聖なる森があり、神木エルヴァーナはそのさらに奥にある。
なるほど。儂が暮らしていた一軒家からでも、数日はかかりそうだ。
「その神木は、どれほど昔からあるものなのです?」
「分からない」
アーセルは首を振った。
「少なくとも、我が家がこの地を治めるより遥か以前から存在している。古い記録にも、すでに巨木として記されている」
ほう。ますます気になる。
「そのエルヴァーナに、何か起きておるのですかな」
アーセルが黙った。
その沈黙だけで分かる。良くないことが起きているのだろう。
「……枯れ始めている」
神木が枯れる。
たしかに不穏ではある。
だが、神木とはいえ木は木だ。病気にもなれば、寿命を迎えることもあるだろう。
「最初は一部の枝だけだった。それが少しずつ広がっている。最近では、葉が落ちる速度も明らかに増している」
アリエルの表情も険しくなった。
「原因は分かっておるのですか?」
「それも、まだ分からない」
アーセルは短く答えた。
「森を調べさせてはいる。治癒師も魔術師も送った。だが、まだ誰にも原因が分からないのだ」
「なるほど」
似ている。
儂がいた森でも、やはり不自然な衰弱が起きていた。
どうやら、ただ古い木が弱っているという話ではなさそうだ。
「そして、問題はエルヴァーナだけではない」
アーセルの声が、さらに重くなった。
「神木に異変が現れ始めた頃から、周辺の魔物たちがおかしくなった」
「おかしい、とは?」
「凶暴化しているのです」
今度はアリエルが答えた。
「以前なら人里まで来なかった魔物が、森や山を離れて現れるようになっています。縄張りを越えて争う魔物も増えました」
「村への被害も出ておるのか?」
「はい。被害は日ごとに増えています」
その言葉で、アリエルと初めて会った日のことを思いました。
本来は、もっと多くの騎士が護衛についていたらしい。
だが途中で、村が魔物に襲われているという知らせが入り、アリエルは村人を助けるために騎士の大半をそちらへ向かわせた。
その後、残った一行がゴブリンに囲まれたのだった。
「あの時も、そうじゃったのか」
「おそらくは」
アーセルが頷いた。
「もちろん、すべてが神木の異変によるものとは断定できん。だが、時期が重なりすぎている」
アドヴァーン各地で魔物が暴れている。
だから、騎士団もあれほど忙しいのか。
そこで、前から気になっていたことを思い出した。
「そういえば」
「何だ?」
「奥方様を、一度もお見かけしておりませんな」
アリエルが頷いた。
「母は今、城にはいません」
「やはり、この一連の異変と関係があるんじゃな」
「お察しの通りです。魔物の被害が出ている地域を回っています。騎士や治癒師たちと一緒に、村々の支援に当たっているんです」
「ほう。領主の妻自らか」
なかなか行動力のある方らしい。
女傑なのだろう。
「母は、じっとしていられない人なので」
アリエルが少し困ったように笑った。
「なるほどのう。それで奥方様がおられなかったのか」
城に来て何日か経つというのに、一度も姿を見ていなかったので、少し不思議には思っていた。
しかし――これは、思っていた以上に大きな話かもしれない。
儂は机の上の筮竹へ目を落とした。
昨夜出た卦は、山風蠱。
すでに何かが進行していることを示す卦だった。
長い年月を生きてきた神木エルヴァーナが衰え、その異変と同じ頃から、周辺の魔物たちまで凶暴化している。
ここまで来れば、自然と思い当たることがある。
儂が暮らしていた森で見つけた湖。その下には龍穴があり、そこに小さな黒龍が現れた。
その黒龍は、“龍脈の化身”のような存在だった。そして、その身体は蛇気によって衰弱していた。
黒龍が弱れば、龍脈の流れる森にも影響が出る。実際、あの一帯は淀んだ空気に包まれていた。
龍脈と龍穴は、一つ一つが孤立しているわけではない。
大地の中で、どこかにつながっている。
ならば、何百年、あるいはそれ以上もの間、この土地に存在してきたという巨大な神木も――。
「龍穴と関係しておるのかもしれませんな」
アーセルの目が鋭くなった。
「――龍穴。ドラゴンの穴か!」
「左様です」
「以前、マコト殿が言っていたな。大地を流れる気が集まる場所だったか」
「よく覚えておられますな」
「忘れるものか。この城の下にも、その龍穴があるかもしれないと言っていただろう」
「その通りです」
アーセルは腕を組んだ。
「では、エルヴァーナも同じだと?」
「まだ分かりません」
儂は首を振った。
「ただ、それほど長い年月を生きてきた巨大な木です。大地の気と深く関わっておっても、不思議ではない」
それに、神木が枯れ始めた時期と、魔物が凶暴化し始めた時期も重なっている。
以前の森で見たことを思えば、偶然として片づけるには少々引っかかる。
「もし、エルヴァーナの下に大きな龍穴があるのなら――これは神木一本だけの問題ではないかもしれませんな」
アーセルの表情が変わった。
「……この地方そのものに関わる、と?」
「その可能性はあります。もしかしたら、さらに広がることも」
「なるほど……」
もちろん、まだ何も分からない。
見てもいないものを、診断することはできない。
だが、昨夜の卦がどうしても気になる。
山風蠱は、すでに生じてしまった乱れを示す。
そして、それを正す時でもある。
このまま放っておいてよいとは思えなかった。
「マコト殿は、そもそもなぜ神木の存在を知っていたのだ?」
「知っていたわけではないのです」
「では、なぜ山の向こうに特別な木があると?」
「こやつです」
儂は筮竹を軽く持ち上げた。
「昨夜、易を立てましてな」
「エキ?」
「儂のいた世界に古くから伝わる術です。占い、と言ってしまうのが一番分かりやすいでしょうな」
「占いで、エルヴァーナのことが分かったのか?」
「それは、その通りなのですが……」
儂は頭を掻いた。
「ここまで当たるとは、儂も思っておりませんでした」
「……それは、先生の腕なのでは?」
アリエルは、何が問題なのか分からないという顔をしている。
「易というものは、もっと曖昧なものじゃ。出た卦から、状況や変化の兆しを読み取る。何でもかんでも、具体的に教えてくれるようなものではない」
儂は筮竹を見る。
「ところが、この世界へ来てから妙に具体的でな」
「では昨夜は、何と?」
「山。その向こうにある木。そして、長い時間の中で生じた病のようなもの」
二人が黙った。
さすがに、これなら儂が戸惑うのも分かっただろう。そのものすぎるのだ。
「しかも、これから起こるという感じではなかった」
昨夜、卦から浮かんだ像を思い返す。
深い森の奥に立つ、古く巨大な木。
そして、その木を内側から蝕むような異変。
「もう始まっておる。そして――早く手を打った方がよい」
部屋が静かになった。
アーセルの表情が険しくなっている。
領主として、この言葉を軽く受け流すことはできないのだろう。
とはいえ、だ。
「だからといって、易だけで何かを決めるつもりはありませんぞ」
儂は笑った。
「易は易です。診察とは違う」
患者を診ずに、治療を始める鍼灸師はいない。
それは人間でも、魔物でも、龍だろうと同じだ。
もちろん、一本の木でも。
まずは、自分の目で確かめなくては。
神木エルヴァーナが、本当に龍穴と関係しているのか。
枯れている原因は何なのか。
魔物の凶暴化と関係しているのか。
それとも、まったく別の問題なのか。
現地へ行かなければ、何も分からない。
ただ、今回は森で偶然見つけた湖とは違う。
山をいくつも越えた先にある神木まで辿り着かなくてはならない。
儂一人では、道さえ分からん。
「アーセル殿、お願いがあります」
儂は、まっすぐアーセルを見る。
「神木エルヴァーナを、この目で診てみたいのです」
そして続けた。
「誰かに案内してもらうことは、可能でしょうかな?」




