第46話 一番弟子はゆずれません!
いつものように、日の出より少し早く目を覚ました。
顔を洗い、身支度を整える。これから訓練なので、昨日買った黒の着流しではなく、シャツと半ズボンに着替えた。
グレイはまだ寝台の上で丸くなっている。
「グレイ。儂は稽古に行ってくるぞ」
「ニャ……」
片目だけ開けて返事をした。どうやら朝には弱いらしい。
部屋を出て、城の訓練場へ向かう。
外へ出ると、朝の空気が心地よかった。空はまだ淡く、東の端が少しずつ明るくなっている。
訓練場には、すでに何人もの騎士が集まっていた。
昨日参加した者だけではない。どうやら話を聞きつけたらしく、さらに人数が増えている。
その中に、アリエルの姿もあった。
「先生!おはようございます!」
「おお。おはよう、アリエル」
そして、もう一人。
こちらへ勢いよく駆けてくる者がいる。
「先生!おはようございます!」
このやたらと大きな声は――昨日の跳ねっ返り騎士、ロイズだった。
「……おぬしか」
「はい!」
昨日まで儂を「ガキ」呼ばわりしていた男とは思えん。
背筋を伸ばし、妙にきらきらした目でこちらを見ている。
「先生!」
「なんじゃ」
「本日も一手、お願いします!」
「朝から元気じゃのう」
「昨日、一晩考えました!」
「なにをじゃ」
「どう考えても、俺は先生に勝てそうもありません!」
「それを一晩考えとったのか」
「はい!ですから、先生に食らいついていく覚悟を決めました!」
実に清々しい顔をしている。
どうやら、負けたことをいつまでも引きずる性格ではないらしい。
それはよいことじゃ。
「先生!昨日の、相手の力を利用して投げる技を、ぜひもう一度!」
「今日は投げんぞ。ガイル殿に釘を刺されておるからの」
「えっ」
「しばらくは基本の稽古じゃ」
「そんな……」
なぜ落ち込む。
そこへアリエルが近づいてきた。
「ロイズ。先生を困らせてはいけませんよ」
「アリエル様!」
ロイズはすぐに背筋を伸ばした。
その態度には、ふざけたところなど微塵もない。領主の娘に対する敬意と忠誠が、はっきりと伝わってくる。
「おはようございます!」
「おはよう。朝から元気ですね」
「お嬢様も、朝早くからお疲れ様です」
「今日から先生に、本格的に太極拳を教えていただくのです」
「それは存じております」
ロイズは爽やかに笑った。
「ですが、先生のことは我々にお任せください。アリエル様は、どうぞあちらでお茶でも飲みながら見学なさっていてください」
「…………はい?」
「朝は冷えますから。先生のお世話は私がいたします」
アリエルの眉がぴくりと動いた。
ロイズに悪意はない。
それどころか、心からアリエルを気遣っているのだろう。
つい先日まで病弱だったアリエルの印象が、まだ抜けていないのだ。まあ、それも無理はない。
だからこそ本人は、自分がなぜアリエルを怒らせているのか、まるで分かっとらん。
「いいですか、ロイズ」
「はい、アリエル様!」
返事はいいのだ。
「あなた、何か勘違いしていませんか?」
「何をでしょう?」
「先生の弟子は、私です」
「もちろん存じております」
「では、なぜ私がお茶を飲んでいるのです!」
「しかし、アリエル様。昨日の先生の稽古をご覧になったでしょう。あれは少々激しすぎます」
「今日は基本の稽古だと、今おっしゃっていたではありませんか!」
「ですが、何が起こるか分かりません」
「起こりません!」
「アリエル様の御身に何かあってからでは遅いのです」
「私は先生に太極拳を習うために来たのです!」
「お気持ちは分かります。ですから、まず我々が習得し、安全を確認したのち――」
「ロイズ!」
「はい!」
「あなた、私より先に先生から習いたいだけではありませんか!?」
「……そんなことはありません!」
「今の間はなんですか!」
図星らしい。
アリエルの額に青筋が浮かぶ。
「先生!」
今度はアリエルが、こちらを振り返った。
「なんじゃ」
「私は先生の一番弟子ですよね!?」
「一番も何も、今のところ弟子にしたのはおぬしだけじゃ」
「ほら!」
なぜか勝ち誇った顔でロイズを振り返る。
ロイズはしばらく考え込んだ。
そして、儂へ向き直る。
「先生!」
嫌な予感がする。
「俺も弟子にしてください!」
「なぜそうなる」
「ロイズ!!」
アリエルの声がさらに大きくなる。
朝から元気じゃのう。
周囲の騎士たちから、とうとう笑い声が漏れた。
ガイルまで少し離れたところで額を押さえている。
「まあ、弟子の話は置いておけ」
「先生!」
「置いておけ」
「……はい」
「アリエルもじゃ」
「はい」
二人とも、ようやく静かになった。素直は素直なんだがのう。
さて……少し出鼻をくじかれた気もするが、そろそろ始めるか。
・・・・・・
「今日は昨日とは違って、太極拳の基本をやる」
集まった者たちの視線が、儂へ集まる。
「まずは、身体をほぐそうかの」
「身体を?」
「うむ」
こちらの世界へ来てから、身体を鍛える者たちを何人も見てきた。
剣を振り、走り込み、重いものを持ち上げ、魔力で身体を強化する。そうした訓練は盛んだ。
だが、身体を柔らかくし、関節や筋肉をゆっくり伸ばすための運動を、体系的に行う習慣は、少なくとも儂が見た範囲ではあまりないようだった。
地球でいう、ストレッチである。
「まず、こうして腕を伸ばしてみなさい」
儂が見本を見せると、騎士たちもそれを真似た。
肩、腕、背中、腰と順番にほぐし、さらに腿やふくらはぎ、股関節まで、ゆっくりと伸ばしていく。
無理に伸ばさせることはしない。
息を止めず、気持ちよく伸びるところで止める。
「痛いところまでやる必要はないぞ。気持ちよく伸びるところで十分じゃ」
「先生」
アリエルが、身体を前へ倒したままこちらを見る。
「こうですか?」
「ほう」
柔らかい。余裕で地面に手のひらをつけている。
さすが十三歳というべきか。長く病に苦しみ、身体を自由に使えなかった時期があったとはいえ、やはり若い身体じゃ。
「先生! 俺はどうですか!」
ロイズは地面に座り、両脚を大きく開いていた。
そのまま上半身を前へ倒し、胸が地面につきそうなほど深く身体を折り曲げている。
「おぬしも意外に柔らかいのう」
「意外って何ですか!」
「カッカッ。若さじゃな」
「先生は俺より若いでしょう!」
周囲から笑い声が上がった。
しばらく身体をほぐしたところで、儂は皆を立たせた。
「さて。ここからが大切じゃ」
騎士たちの顔が引き締まる。
「太極拳で最も大切なものの一つが、放鬆じゃ」
「ファンソン?」
何人かが、その言葉を口にした。
「儂のいたところの言葉じゃ。簡単に言えば、身体を緩めること。リラックスすることじゃな」
ただし、単に力を抜けばよいというものではない。
「ぐにゃぐにゃになればよい、という意味ではないぞ」
昨日の稽古でも、騎士たちは「力を抜け」と言われるたびに困惑していた。
力を抜けば弱くなる。
戦う者なら、そう考えるのも当然だろう。
「放鬆の『放』には、外へ放ち、広がっていくような意味がある。そして『鬆』は――」
そこで少し考える。
こちらの世界の者に、漢字そのものを説明しても仕方がない。
「儂の国にはな、野菜や果物の中に細かな空洞ができることを、『すが入る』と言うことがある。その『す』のように、身体の内側に細かな余裕を作るような感覚じゃ」
皆が真剣に聞いている。
「身体を柔らかく緩める。関節も筋肉も、ぎゅっと縮めて固めるのではなく、内側からふわりと広がるようにする」
肩や肘、手首だけではない。胸、腰、股関節、膝、足首。全身のどこにも、余計な詰まりを作らない。
「そうしてできた隙間を、気がすっと通っていく。そんな感覚じゃな」
そこで儂は、昔聞いたブルース・リーの言葉を思い出した。
「儂のいた世界に、世界中に名を知られた武術家がおってな。その男が、こんなことを言っておった」
皆がこちらを見る。
「友よ、水になれ」
「水に……?」
騎士たちに戸惑いの色が浮かぶ。
アリエルは何か感じるものがあったのか、自分の掌をじっと見つめていた。
「水は柔らかい。器が変われば、その形に合わせて姿を変える。だが、柔らかいからといって、弱いわけではない」
儂はゆっくりと腕を上げた。
「流れれば川となり、集まれば大きな力にもなる。固まらず、滞らず、変化し続ける。太極拳の身体も、それに近いと儂は思っとる」
「なるほど……」
何人かが、自分の肩や腕を確かめるように動かしている。
「そして、この世界では、気だけではないかもしれん」
騎士たちが、また儂の方へ顔を向けた。
「おぬしらには、魔力があるからのう」
その一言で、皆の表情が変わる。
「身体を固めれば、気も魔力も流れにくくなるかもしれん。逆に、身体を緩め、余計な詰まりをなくせば、今までより素直に巡る可能性がある」
もちろん、これはまだ仮説だ。
だが、アリエルを見ている限り、その可能性は高い。
「だからまずは、流れを邪魔せぬ身体を作るんじゃ」
儂は皆の方を向き、ニカッと笑った。
「水のようにな」
・・・・・・
アリエルも騎士たちも、いい具合に身体がほぐれてきたようだ。
「では次じゃ。今度は、“立つ”ことを覚えてもらう」
ロイズがきょとんとした。
「……もう立ってますけど」
「立っておらん」
「立ってますよ!?」
「日常的な意味での“立つ”とは違うんじゃ。太極拳には、太極拳の立ち方というものがある」
「……同じじゃないんですか?」
「ああ、違う。もっとも、稽古を続けていけば、いずれは普段立っている時にも、その立ち方が自然にできるようになる」
儂は皆の前へ出た。
両足を自然に開き、膝を固めない。
頭頂は上へ伸ばし、肩は落とす。胸を張りすぎず、かといって背中も丸めない。
骨盤を無理のない位置に収め、足裏全体で大地を捉える。
「きちんと立つことができねば、太極拳は始まらん」
騎士たちも、儂の姿を見ながら真似をする。
「力で姿勢を作ろうとするな。骨で立つんじゃ。筋肉は、必要な分だけ使えばよい」
一人ずつ見て回る。
「ロイズ。胸を張りすぎじゃ」
「騎士は胸を張れと教わります!」
「今は騎士の立ち方を教えとるのではない」
「はい、先生!」
「肩も下ろせ」
「はい!」
「まだじゃ」
「はい!」
「まだ力んどる」
「これ以上抜いたら肩が抜けます!」
「抜けんわ」
不覚にも笑いそうになる。
長年身体を鍛えてきただけあって、皆、自分の身体を動かす感覚そのものは悪くない。
少し位置を直し、余計な力を抜かせてやれば、それなりの形にはすぐなりそうじゃ。
「アリエルは……そうじゃな。もう少し膝を緩めて」
「はい」
「腰を反らさんように」
背中へ軽く触れ、姿勢を整える。
「そう。そのままじゃ」
アリエルが静かに息を吐いた。
「目を閉じてもよい。呼吸は自然に」
しばらく、そのまま立たせる。
誰も動かない。
朝の風が訓練場を抜け、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
「上手く立てるようになるとな」
儂は静かに言った。
「足の裏から、地面の力が返ってくる感覚が、少しずつ分かるようになる」
地球にいた頃にも、立つことを教える時にはよく話していた。
身体の重さは、足裏を通して地面へ伝わる。
そして地面からは、それに応じるように力が身体へ返ってくる。
儂は昔から、そうしたものも含めて、身体と大地がつながる感覚を“気”として捉えてきた。
だが、この世界には魔力がある。
そして大地そのものには、龍気が流れている。
ならば、ここで静かに立つという行為は、地球にいた頃とは少し違う意味を持つ可能性がある。
身体を緩めて立つ。それだけでも、自分の中を流れる気や魔力に気づきやすくなるかもしれん。
「そうすると、大地の力を貸してもらえるようになるんじゃ」
そんな風に話を続けようとした時。
「……先生」
アリエルが小さく声を上げた。
儂も気づいていた。
アリエルの周囲の空気が、わずかに変わっている。
何かが噴き出したわけではない。
強烈な魔力を、周囲へ撒き散らしているわけでもない。
むしろ、逆だった。
静かだ。
アリエルの小さな身体の中に、巨大な魔力が穏やかに満ちてくる。
まるで、水が器を満たしていくように。
無理なく、淀みなく。
騎士たちも、次第にその変化に気づき始めた。
「……アリエル様の魔力が」
「なんだ、これは……」
騎士団長のガイルが目を見開いている。
ロイズも、アリエルを凝視していた。
「アリエル様……」
その顔が、なんとも悔しそうである。
分かりやすい男じゃ。
「先生!」
「なんじゃ」
「俺は!?」
「力みすぎじゃ」
「くっ……!」
「競うところではない」
「でも悔しいです!」
「正直じゃのう」
つい笑ってしまったが、これは悪くない。
アリエルの魔力は、やはり規格外だ。
儂の治療を受けてから、その巨大な力は以前よりはるかに素直に流れるようになっている。
もともと大きな魔力を持っているだけに、身体を緩め、流れを妨げない放鬆との相性もよいのかもしれん。
一方で、身体の使い方そのものは、まだこれからだ。
長く病に苦しんできたこともある。足腰の使い方、重心の置き方、姿勢、動作――武術として身につけるべきことはいくらでもある。
ロイズは、その逆だった。
今の時点で、魔力はアリエルに及ばない。
だが、長年騎士として鍛えてきただけあって身体能力は高く、柔軟性も悪くない。昨日の手合わせを見る限り、身体の使い方にも勘がある。
二人は違う。
得意なことも、苦手なことも違う。
だからこそ、よいのだ。
「ロイズ」
「はい、先生!」
「アリエルをよく見ておけ」
「……はい」
「アリエルもじゃ」
「……私もですか?」
「うむ。身体の使い方では、今はロイズの方がずっと上じゃ」
「…………はい」
少し悔しそうな顔をした。
アリエルも、ロイズが自分に忠誠を尽くしていることは、よく分かっているはずだ。
本気で身を案じてくれていることも。
似た者同士じゃな。
「自分にないものを持っている者は、敵ではない」
二人を見る。
「よい手本じゃ」
アリエルとロイズが、互いの顔を見る。
「競うのは構わん。むしろ大いに競えばよい。ただし、相手のよいところを見て、盗め」
二人の表情が、少し変わった。
「一人で稽古するより、よほど上手くなれるぞ」
「はい、先生!」
二人の声が重なった。
今度は、どちらも相手を睨んでいなかった。
……いや。
少しだけ睨んでおるな。
まあ、よい。
若い者同士、多少張り合うくらいがちょうどよかろう。
「では、もう少し立ってみようかの」
「はい!」
騎士団全員の声が重なる。
いつの間にか、朝日は城壁の向こうから顔を出していた。
儂は騎士たちの間を歩きながら、一人ずつ姿勢を直していく。
肩を落とし、腰を緩め、膝を固めない。そして足裏で、しっかりと大地を感じる。
まずは、立つ。
すべては、そこからじゃ。




