第35話 鍼が欲しいんじゃ
部屋には、先ほどまでとはまるで違う空気が流れていた。
アリエルは元気そうに笑っている。アーセルも、ガイルも、サラも、その姿を見て自然と頬を緩めていた。
何年も続いていた不調。
何人もの治癒師や魔術師に診せても、原因すら分からなかったという。それが今、目の前でこうして元気に立っている。
ひとまずは、一件落着といったところか。
もっとも、儂としてはこの先の経過まで診なければ、本当に治療が終わったとは言えんのだが。
「さて」
アーセル殿が、ようやく領主らしい顔へ戻った。
「マコト殿。もう一つ、大切な話をしなければならない」
「なんでしょう?」
このタイミングで?
何かあっただろうか。
「治療の対価についてだ」
「おお」
なるほど。それは大切だ。
アーセル殿は儂の前へ立つと、真剣な顔で言った。
「娘のために、これほどのことをしていただいた。望むものがあるなら言ってほしい。私に払えるものであれば、何でも用意しよう」
「ほう」
何でもときたか。
ずいぶん大きく出たものだが、気持ちは分かる。娘が何年も苦しんできたのだから、父親としてそれだけ嬉しいのだろう。
「では、遠慮なく」
儂は頷いた。
「一回の治療の対価は、小金貨一枚じゃ」
「…………なに?」
アーセルの動きが止まった。
「小金貨一枚ですぞ」
聞こえなかったのかと思い、もう一度言った。
こちらへ来てから、貨幣については前任者殿の家にあった本で調べてある。実際に街へ来て、だいたいの物価も分かってきた。
地球の日本円に無理やり置き換えるなら、銅貨一枚が百円ほど。銀貨が千円、小金貨が一万円、金貨なら十万円。そして大金貨ともなれば、百万円ほどになる。
もちろん、物の値段そのものが違う以上、単純な換算などできない。あくまで感覚として、そのくらいという話だ。
「小金貨一枚……」
アーセルが、確かめるように繰り返した。
「うむ」
「それだけか?」
「治療一回分ですからな」
儂は当然のように答えた。
治療をした。ならば、その対価をいただく。
そこに抵抗はない。儂は七十年以上、それを仕事にしてきたのだ。
善意で人を診ることもあるし、金を取らずに、こちらから頼んで治療させてもらったことだってある。
だが、治療という仕事そのものに正当な対価をいただくのは、当たり前のことだと思っている。
「しかし……」
アーセルが困った顔をした。
「それでは安すぎる」
「そうですかの?」
「そうだ」
きっぱりと言われた。
「娘は何年も苦しんできた。何人もの治癒師や魔術師を呼び、さまざまな治療を試した。それでも治らなかったのだ」
「そうでしたな」
「その娘を治して、小金貨一枚では……」
アーセル殿は眉間に皺を寄せた。
「私の面目が立たん」
「面目と言われましてもな」
治療費に面目も何もあるまい。
「相手が領主だからといって、値段を変えるつもりはありませんぞ」
「しかし」
「王様でも同じじゃ」
アーセル殿が黙った。
すると、ガイルが尋ねる。
「では、貧しい者なら?」
「払えぬ者から、無理に取ったりはせんよ」
「ならば、領主様からは多く取ってもよいのでは?」
「それとこれとは別じゃ」
儂は首を振った。
「金持ちだから高くする。偉いから高くする。そんな値段のつけ方を、儂はしてきておらんのじゃ」
ここが異世界だろうと、治療の対価についての方針を変えるつもりはない。
アリエルが、くすりと笑った。
「マコト様らしいです」
「そうかの?」
「はい」
アリエルが、どことなく嬉しそうににこにこしておる。
アーセルだけは、まだ納得していないようだった。
「ならば、小金貨一枚は治療の正式な対価として支払おう」
「ありがたく頂戴いたします」
「だが、それとは別に、娘や騎士団を救っていただいた礼もある」
「もう十分ですぞ」
食い下がるのう。
「もらってもらわねば困る」
「アリエル殿にも、ガイル殿にも、騎士団のみなさまにも、十分よくしていただいておりますのでな」
「そういう話ではない。こちらは領主としての礼だ。金でなくともいい。欲しいものはないか?」
「特にありませんな」
「土地でもよい」
「いりませんな」
「屋敷は?」
「家なら森にありますぞ」
「馬は?」
「乗れませんな」
「武器は?」
「素手で間に合っております」
ついにアーセル殿が黙った。
この頑固ジジイとでも思っとるのかもしれんな。いらんものはいらんのじゃ。
横を見ると、ガイルが少し俯いて肩を震わせている。
あやつ、笑っておるだろ。
「本当に何もないのか?」
アーセル殿が大きなため息をつきながら聞いてくる。
まだ諦めておらんのか。
「うーむ」
そう言われてもな。
今のところ衣食住には困っていないし、金も前任者殿が残してくれたものがある。地位にも興味はない。爵位など、なおさらいらん。
欲しいもの、欲しいもの。
……あ。一つ、あったの。
「アーセル殿」
「何だ?」
「では、図々しいようですが、一つ相談してもよろしいですかな」
アーセル殿の顔がぱっと明るくなった。
「もちろんだ。何でも言ってくれ」
「実は――」
儂は自分の指先へ目を落とした。
指圧もいい。灸もいい。気功もある。
どれも儂にとって大切な治療法だ。
だが、七十年以上、毎日のように使ってきたものが、今はない。
こちらの世界へ来てから、ずっと思っていた。
やはり、あれがないとどうにも落ち着かん。
「鍼が欲しいんじゃ」
「…………ハリ?」
アーセル殿が首を傾げた。
アリエルも、ガイルも、サラも、同じような顔をしている。
「うむ」
儂はニカッと笑った。
「鍼灸師なのに、鍼を一本も持っておらんのでな」
お読みいただき、ありがとうございます。
思わぬところでマコトの頑固さが出てきましたね。
一日一話、毎日20時30分頃に更新する予定です。
よろしくお願いいたします。




