第33話 龍蛇一如
淡い光は、しばらくアリエルの身体を流れ続けていた。
胸から腕へ、そこから手先へ。さらに身体へ戻り、頭や胴を通って脚へと下っていく。光は一か所で止まることなく、全身を循環するように流れていた。
その流れは、筋肉や血管に沿っているわけではない。
この世界の人々には馴染みがないかもしれないが、儂には分かる。
経絡だ。
地球で何十年も診てきた、気の通り道。
古典では、気は経絡を通って手足や胸、頭、胴を巡りながら、全身へとつながっていくと考えられている。
それが今、目に見えるほどの淡い光となって、アリエルの身体を巡っている。
隣にいる女性騎士サラは、声も出せずにその光景を見つめていた。
儂も同じだった。こんなものは、見たことがない。
やがて光は少しずつ弱くなり、最後にはアリエルの身体へ溶け込むように消えていった。
あとには、穏やかに眠るアリエルだけが残った。
「……終わったのでしょうか?」
寝ているアリエルを気遣っているのだろう。サラが小声で尋ねた。
「さて。まだ何とも言えんな」
儂はアリエルの様子を確かめる。
「すぅ……すぅ……」
寝ている。
しかも、実に気持ちよさそうだ。
顔色もよく、呼吸も深く穏やかだった。額へ手を当てても熱はない。
もう一度手首を取り、脈を診る。
ふむ。悪くない。
いや、それどころか、治療前より明らかに整っている。
何より――あの異質な気が流れている。
あれほど全身へ薄く広がり、ところどころで引っかかっていた異質な気が、今はアリエル自身の気と一緒になって巡っていた。
消えたわけではない。確かに、まだある。それなのに、もう身体の流れを邪魔していない。
「白と黒の気が混ざることなく、絡み合いながら流れておる……」
まるで太極図のように。
思わず口元が緩んだ。なんなのだ、これは。
「大丈夫なのですか?」
「今のところはな」
サラが、ほっと息を吐く。
「もう少し診たいところではあるが……」
儂は眠るアリエルを見た。
「これだけ気持ちよさそうに寝ておるものを、わざわざ起こすこともあるまい」
治療のあとによく眠れるのなら、それも立派な身体の反応だ。このまま休ませた方がいい。
それに――儂自身、少し考えたかった。
今、いったい何が起きたのか。
・・・・・・
アリエルをサラに任せ、儂はアーセルのもとへ向かった。
事情を聞いたアーセルは、すぐにガイルも呼んだ。アリエルの護衛を別の者と交代し、治療を見届けたサラにも同席してもらう。
「それで」
アーセルが身を乗り出した。
「アリエルは?」
「寝ておりますぞ」
「寝ている?」
「ええ。それはもう、気持ちよさそうに」
「身体に異常は?」
「今のところ見当たりません。脈も治療前より、むしろ整っております」
それを聞いて、アーセルの肩から少し力が抜けた。
「では、治療はうまくいったと?」
「おそらくは」
「おそらく?」
「なにぶん、儂も初めて見る現象が起きましてな」
「……あの光ですね」
サラが口を開いた。
アーセルとガイルが、そろって彼女を見る。
「治療の途中で、アリエル様のお身体が光り始めました。身体の中を、何本もの細い光が流れているように見えました」
「光?」
「はい」
アーセルが儂を見る。
「何が起きたのだ?」
「それを今から説明しようと思っておるのですが……」
儂は顎へ手をやった。
「その前に、少々言葉を整理した方がよさそうですな」
考えてみれば、この世界へ来てからも、儂は何でも地球の言葉で考えている。
気、経絡、経穴。龍脈に龍穴。
儂には馴染み深い言葉でも、この者たちにとっては初めて聞くものばかりだ。
まして、あの異質な気。
いつまでも「異質な気」と呼んでいては、話をするにも不便である。
「まず、龍脈については昨日お話ししましたな」
「ああ。大地の下を流れる、気の道だったな」
「左様です。そして、その気が集まる場所を龍穴と呼んでおります」
「そうであったな」
アーセルが頷く。
「儂が森で見つけた小さな龍穴には、龍脈の化身とも思える龍がおりました」
「なに、龍だと!?」
アーセルたちの表情が変わる。
この世界では、龍という生き物は、ほとんど不可侵といっていいほど恐れられているらしい。
それなら、アーセルたちがこれほど驚くのも当然だろう。
「龍脈というのは、地球では大地を巡る気の流れを龍になぞらえた呼び方でした。ですが、この世界では、どうやら本当に龍と深く結びついているらしいのです」
儂は少し考えてから続けた。
「つまり、こちらでは“龍脈”という言葉が、ただの比喩では済まんようですな」
アーセルたちが息を呑む。
「ならば、この世界にもともと存在し、龍脈を巡っている気を――ひとまず“龍気”と呼ぶことにしましょう」
「リュウキ……」
サラが繰り返した。なんとか理解しようとしているようだ。
「龍――ドラゴンの気と書いて、龍気ですな。この世界の大地や生き物の中を巡っている気、と今のところ儂は考えております」
「では、アリエル様の身体にあった異質な気というのは?」
ガイルが尋ねた。
「そうですな……」
少し考える。
龍気とは違う。だが、まったく無関係なものとも思えない。性質は異なるが、どこか通じるところがある。
「“蛇気”とでも呼びましょうかの」
「ジャキ?」
「蛇の気と書いて、蛇気です」
アーセルの眉がわずかに動いた。
「それは……悪い気という意味なのか?」
「いえ、そういう意味ではありませんぞ」
儂はすぐに首を振った。
「邪気の“邪”ではなく、蛇の“蛇”です。この気が本当に悪いものなのか、まだ分かりませんからな」
確かに、これまでは身体を苦しめ、森の龍穴にも異変を起こしていた。それだけを見れば、害をなすものと思いたくなる。
だが、今のアリエルの身体を見る限り、どうもそれほど単純ではない。
「龍気とは違う。されど、まったく別物とも言い切れん。ならば龍に対して蛇――そのくらいの意味ですな」
「龍の方が上、ということではないのか?」
「それも違いますぞ」
儂はこちらもすぐに否定した。
「龍には龍の性質があり、蛇には蛇の性質がある。それだけのことです。違うからといって、すぐに上下や善悪を決める必要はありますまい」
アーセルはしばらく考え、それからゆっくりと頷いた。
「では、マコト殿が使っている気というものは、何なのでしょうか?」
今度はガイルから質問が飛んできた。
「儂のか」
少し虚をつかれた気がした。
確かに、ここまで名前を付け始めると、儂の使っている気だけをただ“気”と呼ぶのも収まりが悪い。
ならば、古典に倣うのがよかろう。
「地球では昔から気のことを、“真の気”と書いて真気と呼んでおりました。この世界でも、儂の気はそう呼ぶことにしましょう」
「シンキ……マコトのキ……あれ?」
サラが首を傾げた。
「マコト殿の気だから、真気なのですか?」
「いやいや」
つい笑ってしまった。そんなに自己主張は強くないわ。
「儂の名前は関係ないぞ」
「違うのですか?」
「地球に昔からある言葉じゃ。儂の名前と同じなのは、ただの偶然じゃよ」
「そうなのですね」
考えてみれば、自分の名前と同じ字なのだから、ややこしい話ではある。
どうせ誰にも分からんからと、勝手に自分の名前を付けたと思われてもかなわん。そこはきちんと訂正しておこう。
「そして、もう一つあります」
「まだあるのですか?」
ガイルが少し困った顔をしている。がんばって付いてきてくれ。
「神気です」
「シンキ?」
今度はアーセルが眉を寄せた。
「先ほどの真気とは違うのか?」
「違いますぞ。こちらは“神の気”と書いて神気と読みます」
「……同じに聞こえるが」
「文字は違いますが、読みは同じですな」
「ややこしいな」
「儂もそう思います」
そこは素直に認めておく。
「神気は、儂をこの世界へ呼んだ神様の気です。召喚された際、儂はあの気に何度か触れております」
「神の気に何度か……?」
アーセルは何か聞きたそうな顔をしたが、今はやめたらしい。
賢明だ。あの話を始めると、また長くなる。また別の機会にしよう。
「さて。ここからが、アリエル殿の身体に起きたことです」
三人の顔が引き締まる。いよいよ本題だ。
儂は指を一本立てた。
「もともとアリエル殿の身体には、この世界の龍気が巡っている」
もう一本、指を立てる。
「そこへ蛇気が入り込んだ」
二本の指を近づけて見せた。
「これまで、この二つがうまく馴染まず、互いの流れを邪魔していたのでしょう」
アリエルは膨大な魔力を持っている。それが関係しているのか。
巨大な龍穴の上で長く暮らしてきたことが関係しているのか。
あるいは、その両方なのか。
そこまでは、まだ分からない。
ただ、蛇気がアリエルの全身へ薄く広がり、龍気とうまく流れずに滞りを作っていた。その状態が、長年の体調不良につながっていた可能性は高い。
「そこで、儂が指圧をいたしました」
経絡へ働きかけ、筋肉を緩め、滞っていた気の流れを整えていく。
「その際に、指先から儂の真気も入っております」
「マコト殿の真気が?」
「ええ。九十年以上、気功や太極拳を続けておりますのでな。治療しながら指先から気を通すことは、もう身体が勝手にやるようなものです」
もっとも、ここで予想外のことが起きた。
「儂の真気が入ったあと、龍気と蛇気が一緒に流れ始めたのです」
「一緒に?」
「ええ。ただし、混ざり合ったわけではありません。龍気は龍気のまま、蛇気は蛇気のままです」
「蛇気が身体から出ていったのではないのか?」
「出ておりません」
アーセル殿の顔が険しくなった。
「では、まだ娘の中に?」
「ありますぞ」
「それで大丈夫なのか?」
「そこが今回の不思議なところでしてな。むしろ、アリエル殿の身体は治療前より明らかに良くなっております」
「良くなっている……?」
「ええ。脈は整い、身体の緊張も抜けている。そして何より、龍気も蛇気も、以前より力強く巡っております」
「蛇気もなのか」
治療の最中、儂はその変化を確かに感じていた。
それまでぶつかり合っていた二つの気が、経絡の中を同時に流れ始めたのだ。互いを押し退けるでもなく、溶け合うでもなく、それぞれの性質を保ったまま絡み合うように巡っている。
その様子を思い返すと、儂の脳裏に一つの形が浮かんだ。
――太極図。
白と黒が混ざり合うことなく、それぞれの形を保ったまま一つの円を成している、あの陰陽の図だ。
龍気を白、蛇気を黒とするなら、アリエル殿の身体を巡っていた二つの流れは、どこかそれに似ていた。
とはいえ、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
単なる連想かもしれんし、この世界の気にも、陰陽と呼べるような関係があるのかもしれん。
まだ一度見ただけだ。
今ここで太極図まで持ち出しても、ただでさえややこしい話を、さらにややこしくするだけだろう。
これは、ひとまず儂の胸にしまっておくことにした。
「問題だったのは、蛇気が存在することそのものではないのかもしれません」
儂はもう一度、二本の指を立てた。
「龍気と蛇気が、うまく馴染めずにぶつかり合っていたこと。それが、アリエル殿の身体を苦しめていたのではないかと考えております」
「では、マコト殿の真気が、その二つの間を取り持った……と?」
ガイルが尋ねた。
なかなか的を射ている。
まさに“仲を取り持った”という表現が相応しい。
「おそらくは」
儂は頷いた。
「ただ、もう一つ気になることがあります」
「何だ?」
「今の儂の真気は、地球にいた頃のものと、まったく同じではありません」
三人が、どういうことだという顔で儂を見る。
「儂は神気に触れ、この世界へ来た。その時に、儂自身の気も何らかの影響を受けております」
これは、異世界の森で站桩功をした時から感じていたことだ。
初めて触れる龍気を、儂の身体も魂も驚くほど素直に受け入れた。
「つまり、神気そのものをアリエル殿へ流したわけではありません。ただ、神気に触れて変化した儂の真気だからこそ、性質の違う龍気と蛇気の間へ入ることができた――そういう可能性はありますな」
「なるほど……」
ガイルがゆっくり頷いた。
「神の影響を受けたマコト殿の気だからこそ、二つをつなぐ何かになったということですか」
「そういうことです。地球の言葉なら、“触媒”と言いたいところですが……」
「ショクバイ?」
「……まあ、仲人のようなものだと思ってくだされ。先ほどガイル殿が言ったように、仲の悪い二人の間へ入って、うまく取り持ったということじゃ」
「ああ。なるほど」
今度は伝わったらしい。
儂は片方の手で二本の指を立て、もう片方の手の人差し指を近づけた。
「龍気と蛇気の間へ真気が入り、二つが喧嘩せずに一緒に流れ始めた」
そこで、ふと口をついた。
「龍と蛇が、一つの流れになる――」
少し考える。
「龍蛇一如、とでも言いましょうかの」
「リュウジャ……イチニョ?」
「ええ。儂のいた国では、異なるものが分かれたまま、一つのものとして働く。そうした考え方を“一如”と表すことがあります」
もっとも、これも今、儂が勝手に名づけただけだ。
まだ一人診ただけで、理論などと呼べる段階ではない。
「そして、その龍蛇一如とも呼ぶべき流れが経絡を巡り始めた時、アリエル殿の身体が光った」
「なぜ光るのだ……」
アーセルが「なぜそうなる」と言いたげにつぶやいた。
ガイルもサラも、完全に同意だというように頷いている。
儂にも、まったく分からん。
なぜあんなふうに光る必要があるのだ。
「以上が、治療中に起きたことになります」
三人の顔を見る。
納得していないというより、そもそも情報が多すぎて整理しきれていないようだ。
「……分かりにくかったですかな?」
しばらくして、ガイルがゆっくり口を開いた。
「申し訳ありません。初めて聞くことばかりで、頭が追いついておりません」
隣でサラも深く頷いている。
「そうか」
まあ、無理もない。
儂も一度きちんと整理しておかんと、こんがらがりそうだ。
神気は、神様の気。白い天の気。
龍気は、この世界の大地や生き物を巡る気。白い地の気。
蛇気は、この世界へ入り込んだ異質な気。まだ謎が多く、色にするなら闇のような黒。
そして真気は、儂が地球で長年練ってきた気。ただし、神気に触れたことで、今では儂独自の気となっている可能性がある。色で言えば、黄色か金色のように見える。
こんなところじゃな。
「安心せい。儂も全部分かっておるわけではない」
「マコト殿も?」
「当然じゃ。分からんから、こうして調べておる」
ふとアーセルを見ると、表情が険しくなっていた。
「今の話を聞いて、一つ懸念がある」
先ほどまでの父親の顔ではない。領主としての顔だ。
「蛇気は、人や土地に影響を与えるという。それで苦しむ者は、アリエルだけではないかもしれない。もし魔力の強い者ほど影響を受けやすいのだとしたら、これから同じような者が増える可能性もあるのではないか」
――その可能性はある。
むしろ、そう考えない方が不自然だ。
おそらく、これはまだ始まりに過ぎないのだろう。
「もしそうなった時、このままでは、それを癒せるのはマコト殿だけということにならないだろうか」
さすがに鋭い。
地球で練った真気を持ち、しかも神気に触れたことで、その性質まで変わっている者。
そんな人間が、この世界にあちこちおるとは思えん。
「おっしゃる通りですな」
儂は頷いた。
「神様も、この蛇気については、まだ分かっていないことが多いようでした。だからこそ、何か手立てを探すために、儂が地球から呼ばれたのだと思います」
「神様でも……!」
アーセルが絶句した。
「ただ、今のところは、まだ何も分かっていないに等しいのです。儂でなくても、薬や魔法で改善できる方法が見つかるかもしれません。あくまで、これから調べていくしかありませんな」
アーセル、ガイル、サラの三人は、そろって「これは大変なことになったぞ」という顔をしておる。
儂も同感じゃ。早く何か方法を見つけねばならん。
儂一人が世界中を飛び回って、片っ端から治療していくわけにもいくまい。
となれば、考えるべきは治療だけではない。
もっと根本から、この蛇気というものを調べる必要がある。
それぞれが自分なりに話を整理しようとして、しばらく誰も口を開かなかった。
その時――勢いよく部屋の扉が開いた。




