第3話 老鍼灸師、召喚される
「……ふむ」
真言は髭のない顎を撫でた。さすがに、もう太極拳の稽古どころではなくなってきたようだ。
先ほどよりも、明らかに速くなっている。
「どうやら、こちらの様子を見ておるな」
真言は空を見上げた。
そこには何もない。ただ、朝焼けが広がっているだけだ。
殺気は感じない。敵意すらないように思える。だが、何者かが自分に対して何かをしようとしている。
「誰か知らんが……」
真言はニカッと笑った。
「なかなか諦めが悪いのう」
・・・・・・
神のこめかみが引きつった。
「それはこっちの台詞だ!」
もちろん、真言には聞こえない。
神は大きく息を吐いた。
もう認めるしかない。通常の召喚術では、この老人を捕らえることができない。
「……仕方ない」
神の表情が変わった。
これまでは、対象一人だけを呼び寄せるための術だった。
だが、それでは駄目だ。
ならば、逃げる場所そのものをなくせばいい。
神が両手を広げる。
膨大な力が集まり始め、真っ白な空間をさらに眩い光が満たしていく。先ほどまでとは比較にならないほどの力だった。
点ではなく、この庭そのものを覆う。いや、古い一軒家まで丸ごと呑み込むほどの――巨大な召喚陣。
「これなら……避けられまい」
・・・・・・
真言の動きが止まった。
「本気になった、というところじゃな」
明らかに、先ほどまでとは違う。足元だけではない。庭全体、そして古い一軒家まで包み込むように、白い光が広がっていく。
空気が震えた。
庭木の葉がざわめき、眠っていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
地面には、巨大な光の紋様が浮かび上がっていた。
真言は動かなかった。
右を見る。左を見る。そして、わずかに上を見上げる。
それから、状況を理解した。
「……これは、逃れられんのう」
ならば、無駄に動く必要はない。
真言はすっと肩の力を抜き、丹田へ意識を置いて、静かに気持ちを落ち着けた。
・・・・・・
「ようやく諦めたか」
神が安堵した。
それでいい。別に傷つけるつもりはないのだ。
あとは術を完成させれば――。
その時だった。
真言が顔を上げた。
「――!」
神の身体に、ぞわりと怖気が走った。
真言がこちらへ顔を向けている。
いや、違う。
こちらを――私を、見ている。
もちろん、見えるはずがない。
二人の間には、世界そのものの隔たりがあるのだ。
真言の目に映っているのは、庭と白い光と、見慣れた古い家だけのはずだった。
それなのに、その視線はまっすぐ神へ向けられていた。
「なんだ……?」
神は思わず声を漏らした。
老人の目に、怯えはなかった。怒りもない。
突然こんなものを仕掛けられたというのに、苛立ちさえ浮かんでいない。
ただ、こちらを見ている。
ごく自然な目だった。道端で見知らぬ者から声をかけられた時のような。
あるいは、治療室に初めての患者が入ってきた時のような。
――お前は誰だ?
――これは何だ?
そう問いかける、ただそれだけの視線。
だからこそ、神は怖気立った。
「こいつ……」
ごくりと喉が鳴る。
「神の気配を感じているのか……!?」
あり得ない。
この世界には魔力すら存在しない。神を感知する術など、人間が持っているはずがない。
ましてや、目の前にいるのは九十二歳の老人だ。
神官でもない。魔術師でもない。
ただの――鍼灸師。
そのはずだった。
神は老人を見つめ返した。
真言もまた、静かにこちらを見ている。
自分の理解を超えた力に包囲され、何が起こるのかも分からず、逃げることすらできないと悟ってなお、このような目をしている。
「……何者なんだ、お前は」
初めてのことかもしれない。
神の側が、人間にそう問いかけた。
・・・・・・
真言には、何も見えていなかった。
ただ――いる。
そう感じていた。
この奇妙な力は、自然に生じたものではない。何者かがいる。そして、その何者かが自分に何かをしようとしている。
どうも攻撃ではないらしい。
どちらかといえば、釣り糸でも垂らして、自分をどこかへ引き寄せようとしているような気配だった。
こんな老人に何の用があるのかは知らないが、まずは会ってみればよい。
「まあ、行けば分かるか」
そう言って、真言はニカッと笑った。
・・・・・
「――!」
神は、また息を呑んだ。
次の瞬間、光が爆発した。
真言の身体が、白い光に包まれる。
足の裏から、地面の感触が消えた。
「ほう」
身体が浮き上がったような感覚があり、上下の感覚まで曖昧になっていく。
空間そのものが引っ張られているような、これまで一度も経験したことのない感覚だった。
もちろん、これから起こることについて楽観しているわけではない。
それでも真言は騒がず、ただ自分の身体に何が起きているのかを観察していた。
「これは……気とは違うのう」
一拍置いて、目を細める。
「いや……」
その目が輝いた。
「似ておるところもある」
こんな時でさえ、真言は目の前の未知から何かを学ぼうとしていた。
光が指先を呑み込む。腕が消え、脚が消え、やがて身体の輪郭さえ曖昧になっていく。
それでも真言の意識は、最後までその未知の現象へ向けられていた。
「面白い」
黄崎真言、九十二歳。
七十年以上にわたり、人の身体と気を探究し続けてきた老鍼灸師は――その一言を残して。
この朝、地球から姿を消した。
お読みいただき、ありがとうございました。
本日は序章の前半三話を投稿させていただきました。
明日は後半三話を投稿する予定です。
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