第2話 神の召喚術
翌朝、真言はいつもと同じ時刻に目を覚ました。
床に就いたのは午前二時を回っていたのだが、それでも目覚まし時計は必要ない。長年の習慣というものは恐ろしい。
顔を洗い、湯を一杯飲み、作務衣に着替える。
そして、庭へ出た。
東の空が、わずかに白み始めている。空気は冷たく、まだ朝というより夜の名残の方が濃い。
真言は庭の中央まで歩くと、いつもの場所に立った。
足を肩幅ほどに開き、膝をゆるめる。肩の力を抜き、顎をわずかに引いて、頭頂を天へ向ける。
何もしない。ただ、立つ。
今日も、いつも通りの稽古が始まる――。
「……ん?」
真言の眉が、わずかに動いた。姿勢は崩さない。目を閉じたまま、しばらく静かに立っている。
何かが違う。
風ではない。天気でもない。身体でもない。
もっと別のものだ。
真言はゆっくりと目を開き、庭を見回した。
何もない。
気のせいか。いや。真言は小さく首を傾げた。
「妙じゃのう」
そう言いながら、右足を半歩ずらした。
その瞬間だった。
キィン!
真言が今まで立っていた場所が、澄んだ音とともにほんの一瞬、白く光った。
地面には円が浮かび、その内側には幾何学的な紋様が描かれている。まるで物語に出てくる魔法陣のようだった。
「ほう」
真言の目が細くなる。
驚いたというより、面白いものを見つけた時の目だった。
しゃがみ込み、地面を覗き込む。
何もない。
土を指でなぞってみる。焦げてもいなければ、熱もない。妙な匂いもしない。
「今のはなんじゃ?」
独り言を呟きながら、土をひとつまみして指先でこすってみる。
「ふむ……」
分からない。分からないとなれば、余計に気になる。
真言はしばらく地面を眺めていたが、それ以上の変化はなかった。
「まあ、ええ」
立ち上がり、何事もなかったように、今度は太極拳を始める。
両腕が、ゆっくりと浮かび上がった。
起勢という始まりの型だ。両腕を下ろしながら身体をわずかに沈め、そのまま転身する。続いて、両手で大きな球を抱くような抱球の形へ。
真言の身体が、朝の空気の中をゆったりと流れていく。
先ほどの白い光は、もちろん気になっていた。
だが、分からないものをいつまでも眺めていても仕方がない。また現れれば、その時に調べればよい。
真言はいつものように、自分の身体へ意識を向けた。
足裏で地面を感じ、そこから膝、股関節、腰、背骨へと感覚を巡らせていく。さらに肩から肘、手首へ。呼吸に合わせて重心が移るたび、身体の各部が少しずつつながり、一つの動きになっていった。
その時だった。
何かを感じた。先ほどと同じものだ。
しかも今度は、先ほどよりもはっきりしていた。
――自分に向けられている!
そう感じた瞬間、真言の身体が消えた。
否。
消えたように見えるほどの速さで、横へ移動していた。
その直後。
キィン!
真言がいた場所に、再び白い魔法陣が浮かび上がった。
その時すでに、真言は数歩離れたところに立っていた。
先ほどまでと変わらぬ、自然な立ち方だった。未知の出来事に怯える様子もない。
「やはり、何かおるのう」
何なのかは分からない。どこにいるのかも分からない。だが、今のは自然に起きた現象ではない。
何者かが、自分に向けて何かをしている。
それだけは分かった。
・・・・・・
「…………は?」
一柱の神が、呆然としていた。
目の前には、地上の様子が映し出されている。
古い一軒家の小さな庭。そして、作務衣を着た白髪の老人。
「避けた……?」
神が用いたのは召喚術だった。対象を指定し、術式を展開する。そこに対象を捕らえれば、こちらの世界へ引き寄せることができる。
ただ、それだけの術である。攻撃ではない。殺気はない。敵意さえない。
だから普通は、気づくことすらできない。
ましてや――。
「魔力の存在すら知らない世界の人間だぞ……?」
神は老人を見つめた。
真言はもう、何事もなかったかのように太極拳を再開している。
「偶然……か?」
神はもう一度、術を放った。
・・・・・・
ゆっくりと腕を巡らせていた真言の眉が、わずかに動いた。
「またか」
キィン!
次の瞬間、光の魔法陣が真言の立っていた地面に浮かんだ。
だが、やはりそこに老人の姿はない。
ほんの一歩。真言の身体は、すでに光の外へ移っていた。
・・・・・・
「避けている」
神の顔が険しくなった。
「こいつ……やはり、避けている」
あり得ないが、偶然ではない。
術を放つ、その直前。老人は必ずこちらの力を察知している。
「ならば――」
神は術式を変えた。
今度は速い。先ほどまでのような、余裕のある召喚ではない。
狙いを定め、即座に発動する。
・・・・・・
真言の目が開いた。
「!」
キィン!
――ザッ!
次の瞬間、真言は一間(約181.8cm))ほど離れた場所に立っていた。
地面には魔法陣が白く光っている。
「……ほお」
真言が、わずかに驚いた顔をした。
「速うなった」
・・・・・・
「なぜだ!」
神が叫んだ。
世界を超える術である以上、発動までにはわずかな時間差が生じる。
だが、今の術を人間が見てから避けられるはずがない。
そもそも、術そのものが見えているはずもないのだ。
神はさらに術を速めた。
一度、二度。そして、さらに速く。
だが、そのたびに白い光は老人を捕らえ損ね、つい先ほどまで老人が立っていた地面だけを照らしていく。
「なんなんだ、この爺さんは!」
ついに神が立ち上がった。
魔力の存在しない地球という星。日本という平和な国に住む、九十二歳の老人。
戦闘職に就いているわけでもない。鍼灸師という職は、古い医術を使う治癒師のようなものだ。
神は当然、そのことも知っている。だからこそ、信じられなかった。
ゆっくりと太極拳をしていた老人が、術が迫った瞬間だけ、まるで獣のような速度で身をかわす。
しかも、無理に身体を振り回しているわけではない。必要な時に、必要なだけ動く。
それが過ぎれば、何事もなかったかのように、また力を抜いてゆったりと太極拳へ戻っていく。
神は真言を睨みながら呟いた。
「この男、本当に人間か?」
本日は後でもう一話、投稿させていただきます。
よろしくお願いいたします。




