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老鍼灸師は転生しても治さない  作者: かどやん。
序章 治さない鍼灸師

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第1話 齢九十二の鍼灸師

 まだ、町が目を覚ます前だった。


 古い一軒家の庭に、一人の老人が立っている。真っ白な総髪を後ろで一つに束ね、着古した作務衣をまとっていた。


 黄崎真言きさき・しんげん、九十二歳。


 顔には深い皺が刻まれ、髪もすっかり白い。だが、その姿を見て九十二歳だと思う者は、まずいないだろう。


 背筋はすっと伸び、腰にも膝にも衰えを感じさせない。作務衣の下の身体は細身ながら引き締まり、長い年月をかけて無駄なものだけを削ぎ落としてきたようだった。


 現代的な意味でのイケメン、という顔ではない。どちらかといえば、往年の映画スターを思わせる顔立ちだった。太い眉。高い鼻梁。日に焼けた肌。整いすぎてはいないが、どこか野生味を感じさせるハンサムだった。


 そして何より、目が若い。その奥には今も少年のような好奇心が宿っている。


 真言は何もせず、ただ立っていた。


 背筋は伸びている。だが、胸を張っているわけではない。肩は落ち、両腕は自然に垂れ、膝にも余計な力が入っていない。


 不思議な安定感があり、とても静かだった。


 やがて、真言の両腕がゆっくりと浮かび上がった。


 太極拳である。


 息をするように腕が上がり、吐くように沈んでいく。


 一歩。また一歩。


 九十二歳の老人とは思えないほど、その足取りは確かだった。


 速くはない。力強くも見えない。だが、滞りはなく、どこにも隙がない。


 この庭で太極拳をするようになって、何十年になるだろう。春には花が咲き、夏には蝉が鳴いた。秋には落ち葉を踏み、冬には白い息を吐いた。


 患者が来る日も。来ない日も。嬉しいことがあった朝も。身近な者を見送った翌朝も。

 真言はここに立った。


 そして今日も立っている。九十二歳になっても、それは変わらなかった。


「……ふむ」


 一連の動きを終えると、真言は静かに息を吐いた。


 足の裏から伝わってくる地面の感触を確かめる。夜のうちに雨が降ったのか、わずかにぬかるんでいる。そのためか気温も少し低い。身体も動き始めは、少しぎこちなかった。


 昨日と同じ朝に見えても、同じ朝など一度もない。


「まだまだじゃのう」


 真言はニカッと笑った。


 七十年以上、身体というものを見続けてきた。それでも――分からないことばかりだった。


 縁側に上がる前に、庭に向かって一礼した。


 古い一軒家は、そのまま真言の鍼灸院でもあった。


 玄関脇には、小さな木の看板が掛かっている。派手な広告など出したことはない。受付嬢もいなければ、最新式の医療機器が並んでいるわけでもない。


 あるのは治療台と、鍼と、もぐさ。そして真言の二本の手だけだった。


 ・・・・・・


「先生、本当に九十二なんですか?」


 午前九時。最初の患者が、治療台の上から真言を見上げていた。


「なんじゃ、いきなり」


 四十代の男だった。長年のデスクワークで首や肩、腰を痛め、半年ほど前から真言のところへ通っている。もともとは父親がここの患者で、その紹介だった。


「うちの親父、七十八ですよ。先生より十四も若いのに、もっと爺さんですよ」


「そう言ってやるな。おぬしの父親は囲碁が強い。いつも負かされておる」


 男が少し得意そうに笑った。


「まあ、まだ頭はしっかりしてるんですけどね」


「まだ、は余計じゃ」


「本人には言いませんよ」


「ならよろしい」


 真言は男の手首に三本の指を置いた。


 男が黙る。真言も黙った。


 指先に意識を集める。


 浮いているようで、わずかに沈む。昨日の雨のせいもあるか。


「昨日、酒を飲んだな」


「え?」


「それも、だいぶ」


「……分かるんですか?」


「顔にも書いてある」


「脈じゃないんだ」


「脈にも出とるわい」


 真言は笑った。


「舌を見せてみい」


「えー」


「えー、じゃない」


 男が舌を出す。真言はしばらく眺めた。


「ふむ」


「どうです?」


「飲みすぎじゃ」


「結局それですか」


「身体は正直じゃからな」


男をうつ伏せにし、首から背中、腰へと指を滑らせる。押すでも揉むでもなく、ただ確かめるように触れていく。


やがて、ある一点で指が止まった。


「ここじゃな」


「痛っ!」


「やっぱりの」


「先生、そこ、なんなんです?」


「なんなんです、と言われてものう」


真言は少し考えた。


「おぬしが昨日まで、そうやって身体を使ってきた結果じゃ」


「身も蓋もないなあ」


「身体というのは、そういうもんじゃよ」


細い鍼を一本取り出し、背中へ静かに入れる。


「あれ?」


「なんじゃ」


「もう刺した?」


「刺しとるな」


「全然分からなかった」


「そうか」


 もう一本。さらに一本。必要以上には打たない。


 多く打てばよいわけではない。強く刺激すればよいわけでもない。


 七十年以上、鍼を持ってきた。


 若い頃は、もっと何かをしようとしていた。もっと効かせよう、もっと変えよう、もっと治そうとした。


 だが、今は違う。


「先生」


「ん?」


「これで治るんですか?」


真言は鍼を持つ手を止めずに答えた。


「儂が治すわけではないぞ」


「え?」


「治すのは、おぬしの身体じゃ」


男が少しだけ顔を動かした。


「じゃあ先生は何してるんです?」


真言は笑った。


「治る邪魔をしておるものを、少しどけてやるだけじゃよ」


身体は、自分で治ろうとしている。


鍼灸師がすることなど、その力が働きやすいよう、ほんの少し手を貸してやるくらいでいい。


「先生」


「ん?」


「寝ていい?」


「かまわんぞ」


 返事はなかった。


 真言は小さく笑って、薄い布を男に掛けてやった。

          

 最後の患者を送り出したのは、午後七時を少し回った頃だった。


 ・・・・・・


「ありがとうございました」


「お大事にな」


 引き戸が閉め、真言は施術室の後片付けをする。


 今日も一日が終わった――わけではない。


 作務衣を脱ぎ、いつもの着流しに着替えた。夕食と入浴を済ませると、真言は奥の六畳間へ入った。


 壁一面が本棚になっている。新しい本もある。古い本もある。背表紙の文字が消えかかったものまであった。


 鍼灸、漢方、指圧、気功、太極拳、黄帝内経といった本がずらりと並んでいる。


 医書だけではない。


 易、陰陽五行、算命学、風水、老子や荘子をはじめとした思想家たち、中国の詩歌の全集まである。


 人を知ろうと思えば、人だけを見ていてはいけない。


 天があり、地がある。季節があり、方角があり、食があり、住まいがあり、名がある。それらすべての中で、人は生きている。


 真言は一冊の古びた本を取り出した。


 机の上には、分厚い大学ノートが積み上がっている。何十年も書き続けてきたものだった。


 今日の患者の脈。舌。腹。皮膚。気候。それらを踏まえ、どのような治療をしたのか。そして、その結果。


 真言は眼鏡をかけると、今日の日付を書いた。


 ペンが走り始める。一時間。二時間。時計の針が進んでいく。


 気づけば日付が変わろうとしていた。


「……なるほど」


 真言の目が輝いた。朝の庭で見せたのと同じ目だった。


 九十二歳の老人の目ではない。未知のものを見つけた少年の目だった。


「ここと、つながっとったか……」


 古いノートを引っ張り出す。三十七年前の記録だった。ページをめくる。


「あった」


 四十年前の記録も見る。別の本を開く。またノートへ書く。


 止まらない。午前一時。午前二時。ようやく真言は時計を見た。


「……いかん」


 思わず苦笑する。


「またやってしもうた」


 明日も朝は早い。それでも、その顔は嬉しそうだった。


 同じようなことを七十年以上やってきた。人の身体を診てきた。鍼を打ってきた。気を練ってきた。太極拳を続けてきた。古人の言葉を読み続けてきた。


 それなのに──。


「分からん」


 真言は椅子にもたれた。そして、天井を見上げる。


「人間の身体というやつは、ほんに面白いのう」


 ニカッと笑う。


 九十二歳の自分に残された時間がどれほどあるのか、真言にも分からない。


 十年か。五年か。一年か。


 明日かもしれない。だが、それを恐れたことはなかった。


 生まれたものが死ぬのは道理である。問題は、そこではない。


「あと七十年くらいあれば、もう少し分かるんじゃがなあ」


 真言は本気で残念そうにつぶやいた。


 まさか、その願いを――。


 どこかで聞いている者がいるなどとは、このときの真言は知る由もなかった。



挿絵(By みてみん)

お読みいただき、ありがとうございました。

「転生した老鍼灸師は治さない」、今日から連載開始です。

少しずつ更新していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。


挿絵(By みてみん)


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