第26話 異世界でも、太極拳は大いに役立つらしい
まだ空が白み始めたばかりの頃、儂は目を覚ました。昔から朝は早い。
宿を出て町外れへ向かうと、騎士団の野営地ではすでに人が動き始めていた。
寝床を片づける者、馬へ餌と水を与える者、装備を確かめる者、朝食を準備する者。見張りから戻る者もいれば、その役目を引き継ぐ者もいる。
誰かが逐一指示を出さなくても、それぞれが自分の役目を分かっている。
よく訓練された騎士団だ、と感心する。
野営地から少し離れたところに、ちょうどよい草地があったので、儂はそこへ立った。
足裏全体で地面を感じ、肩と腰の力を抜く。膝をわずかに緩め、頭頂を軽く天へ引き上げるようにして、呼吸を整えた。
そして、いつものように太極拳を始める。
何十年と続けてきた、朝の日課だ。
ゆっくりと腕を上げ、下ろす。腰の回転に合わせて重心が移り、その流れのまま足が運ばれていく。
呼吸と動きが、ひとつになる。
しばらくすると、周囲の気配が増えていることに気づいた。
騎士たちが、こちらを見ていた。
最初は何をしているのか分からないという顔だったが、やがて何人かの表情が変わる。
「……おい」
誰かが小さく呟いた。
「あの動き……昨日の戦い方に似てないか?」
「足運びが独特だな」
「あんなにゆっくり動いて鍛錬になるのか?」
昨日とは、動く速さがまるで違う。
それでも、重心の移し方や腰の回転、腕の運び、身体の向きには確かに同じものがある。
騎士たちは昨日、団長と儂が交わした話など知らない。それでも自分たちの目で、あの戦いと今の動きがつながっていることに気づいたようだ。
戦いのときは、一瞬で生死が分かれる。だからこそ、ゆっくりとした太極拳の動きが不思議なのだろう。
しかし、速く動きたければ、ゆっくり動く必要があるのだ。
型を終えた頃には、ずいぶん人が集まっていた。
「なんじゃ?」
「い、いえ」
声をかけると、騎士たちが妙に姿勢を正した。少し怯えておらんか?
そこへ、宿の方からアリエルが歩いてきた。すでに朝の身支度をきちんと整えている。
グレイも一緒だ。見かけないと思ったら、アリエルのところへ行っていたらしい。
「皆さん、どうしたのです?」
「アリエル様。マコト殿が……」
「マコト様?」
アリエルがこちらを見る。
「何をされていたのですか?」
「太極拳じゃよ」
「昨日お話しされていた……」
「地球という星の武術じゃ。気功法でもあり、健康法でもある」
「気という生命エネルギーを養い、育てる鍛錬だとおっしゃっていましたね」
昨日、馬車の中で話したことを覚えていたようだ。
アリエルは興味深そうに儂を見た。
「私にもできますか?」
「やってみなさるか?」
「はい!」
ひどく嬉しそうだ。
「では、そこへ立ってみなされ」
アリエルが儂の隣に立つ。
「まずは楽に立ちなされ。肩の力を抜いて、視線は遠くの山を見るように」
「はい」
実にいい返事だ。
「太極拳は、まず力を抜くところから始まります。まだ少し肩に力が入っておるようですな」
「……そうなのですか?」
「まだ少し上がっとります」
「これでも?」
「太極拳は、がんばる必要はありません。一度、肩をグーッと持ち上げて、ハーッと息を吐きながら下ろしてみなされ」
「はーっ」
近くで見ていた騎士たちが、何人か笑いをこらえている。
もちろん、アリエルをからかっているわけではない。その目には、親しみと敬意がある。
しかし本人は少し悔しいらしく、騎士たちの方へジトッとした視線を向けていた。
「そんなに力を入れているつもりはないのですが」
「人は、自分で思っとる以上に力んでいるものです」
まずは立つ。
それから呼吸を整え、ゆっくりと腕を上げて、下ろす。
太極拳のはじまりの動作“起勢”を何度か繰り返した。
「腕だけで動かさず、身体全体で動くのです」
「身体全体……」
「そうそう」
覚えは悪くない。
何度か繰り返すうちに、呼吸と動きが少しずつ合い始めた。
顔色を見ても、今のところ体調に問題はなさそうだ。
「では、今度は太極拳の形を一緒にやってみましょう。無理はせず、まずは儂の動きを真似るように、ゆっくり動いてみてくだされ」
その後は、儂の動きを見ながら、一緒に套路をなぞってもらった。
最初は見よう見まねで十分だ。正確な型よりも、まずは身体を気持ちよく動かすことの方が大切なのだ。
一通り終える頃には、アリエルも満足そうな顔をしていた。
その時だった。
「……あれ?」
アリエルが動きを止めた。
「どうかしましたか?」
一瞬、無理をさせすぎたかと思った。
だが、アリエルは自分の胸へ手を当て、不思議そうな顔をしている。
「身体が……すごく軽いです」
「ほう?」
「それに……」
目を閉じ、何かを確かめるように意識を内側へ向ける。
「魔力が」
その言葉に、周囲の騎士たちが反応した。
「魔力がどうされました?」
「いつもより……動かしやすいのです」
アリエル自身が、一番驚いているようだった。
「少し動かしてみてもいいでしょうか」
「無理はされないように」
アリエルが集中し始めた。
儂には、この世界の魔法の細かな仕組みまではまだ分からない。
だが、身体の内側で何かが動けば、その変化くらいは感じられる。
アリエルの魔力の流れは、昨日までより明らかに滑らかだった。
引っかかりが少なく、余計なところへ散っていかない。
「いつもより少ない力で動きます。とても動かしやすい」
アリエルが目を見開く。
「それに、こんなに身体が楽なのは久しぶりです」
「ほう……。太極拳は魔力の流れとも関係がありそうですな」
これは面白い。
太極拳は身体を緩め、呼吸を整え、重心を安定させる。意識と身体を一致させ、気の巡りも整えていく。
ならば、この世界の魔力にも何らかの影響が現れても不思議ではない。
さらに――。
昨日から気になっていた、アリエルの内側にある異質な気配。
それが今は、ほんのわずかではあるが、身体の中で暴れずにおとなしくしているように感じる。
なるほど……。
無理に押さえ込むのではない。流し、巡らせ、調和させる。
太極拳なら、この異質なものを扱う助けになるかもしれない。
それだけではない。
魔力そのものを育てること。強めること。無駄なく使うこと。そして、より細かく操作すること。
大量の魔力を、身体へ過度な負担をかけずに扱う訓練としても、かなり相性がよさそうだ。
「これは、思った以上に使えるかもしれんな」
アリエルは、もう一度起勢を始めた。
先ほどより少しだけ滑らかになっている。
「マコト様」
「なんでしょうか?」
「これ、毎日やってもいいのですか?」
「もちろんです。儂も毎日欠かさず練習しております」
「もっと教えていただけますか?」
アリエルの目が真剣だった。それほど、体の変化が大きかったのだろう。
「構いませんぞ」
「本当ですか?」
「儂でよければ」
その会話を聞いていた騎士たちが、今度は一斉にざわめいた。
「マコト殿!」
「なんじゃ」
「我々にも教えていただけませんか?」
別の者が、すぐに続く。
「できれば、一度手合わせもお願いしたいです!」
「私も!」
「俺もぜひ!」
団長が額へ手をやった。
「お前たち。今は任務中だ」
「ですが、団長」
「ですがではない」
騎士たちは、しぶしぶ口を閉じた。
儂は思わず笑った。向上心があるのは大いに結構。
「別に構わんぞ。教えるのも、手合わせもな」
途端に、何人かの顔が明るくなった。
「ただし、今は移動の途中じゃろう」
「……はい」
「アドヴァーンへ着いて、時間が取れたらじゃな」
「本当ですか!」
「そういう機会があれば、いくらでも付き合うぞ」
騎士たちは大いに喜んでいた。どうやら皆、相当に武術が好きらしい。
よいことだ。戦う者にとって、自分の身を守ることも、家族や仲間を守ることも、民を守ることも、すべて力があってこそだ。強くなりたいと思う気持ちは、よく分かる。
・・・・・・
その後、朝食を済ませ、野営を畳み、馬と装備を整えた一行は、再び出発した。
馬車の中では、アリエルがさっそく先ほどの動きを思い出しながら、ゆっくりと腕を上げている。
「こうでしたか?」
「また肩が上がっとりますな」
「あ、本当ですね」
「なかなか自分では気づかないものです」
「難しいです」
儂はニカッと笑ってみせた。
「だから面白いのです」
その隣では、グレイが何事もなかったように丸くなっている。
アリエルの魔力。あの異質な気。そして太極拳。
鍼灸を深めるために何十年も続けてきたものが、異世界へ来て、また別の医術の可能性を見せ始めている。
やはり、まだまだ分からんことばかりじゃ。
儂は揺れる馬車の中で、ひとり頬を緩めた。




