第25話 老鍼灸師は、もっとよい治療がしたいだけ
辺境都市アドヴァーンまでは、ここから一日半ほどかかるらしい。
ゴブリンとの戦いを終えたあと、儂とグレイはそのままアリエルたちと行動を共にすることになった。
「マコト様、よろしければ馬車へどうぞ」
そう勧められ、儂はありがたく同席させてもらうことにした。
歩くこと自体は苦ではない。むしろ、この身体になってからは自分の足で歩き、動きながら調子を確かめるのが楽しいくらいだ。
だが、せっかくの申し出を断る理由もない。
それに――どうやらアリエルのお目当ては、儂よりグレイの方らしい。
「ニャ」
当のグレイは、一緒に馬車へ乗り込み、当然のような顔をして儂の隣に座っている。
その向かいでは、アリエルが先ほどからちらちらとグレイを見ていた。
「……どうかしましたか?」
「いえ、その……」
視線はどう見てもグレイへ向いている。
「触ってみたいのですか?」
「……はい」
素直でよろしい。
「儂ではなく、本人に聞いてみるとよいでしょう」
「本人?」
儂はグレイへ目を向けた。
「グレイ。アリエル殿がおぬしを触りたいそうじゃ」
「ニャ?」
グレイはじっとアリエルを見る。
見つめられたアリエルは、なぜか背筋を伸ばし、少し緊張した顔になった。
しばらくして、グレイはふいと顔を横へ向ける。
逃げる様子はない。
「好きにしろ、と言っておりますぞ」
「本当ですか?」
アリエルは嬉しそうに、そっと手を伸ばした。
まず頭を撫で、次に耳の後ろへ指を滑らせ、そのまま背中へ。
「……柔らかい」
ぱっと顔がほころぶ。
グレイも嫌ではないらしく、しばらくすると気持ちよさそうに目を細め始めた。
「おぬし、なかなか現金な猫じゃのう」
「ニャ」
知らぬ顔をしている。
まあ、よい。
その後、馬車の中では、いろいろな話をした。
どうやら昨日の儂は、自分のことを一度に話しすぎたらしい。アリエルも、まだ頭の中で整理しきれていないようだった。
「本当に、九十二歳なのですか?」
「おそらくは。こちらへ来てからの日々まで数えれば、九十三になっておるかもしれませんがのう」
「でも、そのお身体は……」
「十歳ほどでしょうな」
「……不思議です」
「まったくですな。儂自身、いまだに不思議でなりません」
儂はまず、自分がもといた地球と、その中にある日本という国について話した。
鍼灸師として長年、人の身体を診てきたこと。気功や武術を学び、日々の暮らしの中で稽古を続けてきたこと。食べ物や着る物、町の様子など、こちらとは異なる文化や風習についても、思いつくままに話した。
それから、神に呼ばれた時のことや、十歳ほどの身体でこの世界へやって来たこと。森の中の家でどのように暮らしていたのか、そこで何を見つけ、何を調べていたのか。そして、グレイと出会ってからのことも話した。
「り、龍を治療されたのですか!?」
「まだ子どものようでしたがな」
この世界でも、やはり龍は珍しいらしい。
儂がひとつ話すたび、アリエルは驚いたり、戸惑ったりしながらも、真剣な顔で耳を傾けてくれた。
もちろん、儂ばかりが話していたわけではない。
儂も、気になったことを次から次へと尋ねた。
アリエルに何か尋ねると、いつも分かりやすく答えてくれる。
まだ少女と言っていい年頃だというのに、ずいぶん聡明な方なのだろう。
この世界の魔法は、何をもとにして、どのように使われているのか。人の身体は地球の人間と同じなのか。病や怪我をした者は、どのような治療を受けるのか。
人間以外には、どのような種族がいるのか。魔物とは、普通の獣と何が違うのか。
さらに、この国が歩んできた歴史や、町や森、山々がどのように広がっているのか。そして、これから向かう辺境領アドヴァーンが、どのような土地なのか。
ひとつ教えてもらえば、そこからまた新たな疑問が生まれる。
「実に面白いのう」
思わず口元が緩んだ。
どうやらこの世界には、まだまだ調べることが山ほどありそうだった。
・・・・・・
途中、街道脇で休憩を取ることになった。
馬に水を飲ませ、騎士たちはそれぞれの装備を確かめている。
儂も馬車を降りて身体を伸ばしていると、ガイルがこちらへ歩いてきた。
「マコト殿。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何ですかな」
「マコト殿の戦い方についてです」
「儂に答えられることでしたら」
ガイルは小さくうなずくと、少し言葉を選ぶようにして口を開いた。
「マコト殿ほどの腕があるのなら、剣を手にすれば、さらに強くなるのではありませんか?」
「そうかもしれませんな」
ガイルが意外そうな顔をする。
「そう思われるのですか」
「それはそうでしょう。武器には、武器の強さがありますからな」
剣なら斬ることができる。槍なら拳よりも遠くまで届き、弓ならば、さらに離れた相手を射抜ける。
拳ひとつでは届かぬものにも、武器なら届く。当たり前の話だ。
「儂も若い頃から、いろいろとやってきましたぞ」
「いろいろ、ですか?」
「剣術、居合、空手、合気道、ボクシング、ムエタイ、弓術……ほかにもいくつか」
「半分以上、何のことか分かりませんが……そんなに?」
ガイルが目を見開いた。
「九十年以上も生きておると、いろいろ試す時間がありますからな」
「それにしても……」
「どれも、よいものですぞ」
剣には剣の理があり、弓には弓の理がある。拳にもまた、拳の理がある。
どれも長い年月をかけて、多くの者が自らの身体で試し、考え、工夫し、磨き上げてきたものだ。
「どれが上で、どれが下という話ではありません。それぞれに、異なる強さと価値があります」
ガイルは静かにうなずいた。
「では、なぜマコト殿は無手で戦うのですか?」
少し考えてから、儂は答えた。
「無手が好きだからでしょうな。自分の体だけで、どこまでたどり着けるのか。それを追求していくのが楽しいのです」
「……好きで、楽しい、ですか」
「ええ。それに、得意でもあります」
好きだから長く続けた。
長く続けたから、身体に馴染んだ。
武器が強いことに異論はない。だが、折れることもあれば、落とすこともある。奪われることもあれば、持ち込めぬ場所もある。
「剣を失った途端に弱くなるというのは、儂の性には合いませんのでな」
もっとも、本当に優れた剣士ならば、剣を振るうために鍛えた身体そのものが強い。
儂はガイルを見る。
「ガイル殿も、剣を失ったからといって、『もう戦えません』では済まされんのでしょう?」
「それは、もちろんです」
「ならば、根は同じですな」
ガイルは少し考え込んだ。
「それに、武器を扱うのも、結局はこの身体です」
「それも……確かに」
「ならば、まずは身体そのものを練る。それが道理ではないかと、儂は思っております」
「なるほど……」
「まあ、儂の場合は、好きで、得意で、長く続けてきた結果、今では無手の時がいちばん強いというだけですがな」
別に、自慢するほどのことではない。
九十年以上も生きて、同じことを繰り返していれば、一つや二つ、身体に染みつくものもある。
ガイルはしばらく儂を見ていたが、やがて首を傾げた。
「しかし……そこまで無手を鍛えられたのは、やはり強さを求めてのことなのでしょうか」
「いや」
それは違う。
「儂は鍼灸師ですからな」
「……鍼灸師?」
それと武術に何の関係があるのか――そう顔に書いてある。
「七十年以上、鍼と灸を使って人の身体を診てきました。それが儂の仕事です」
戦うことを生業としてきたわけではない。
身体に触れ、脈を診て、気の偏りや滞りを探り、その流れを整える。それが儂の仕事だった。
「儂の故郷には、医武一体という考え方があります」
「イブイッタイ……」
「医術と武術は、表と裏のようなものだという考え方です」
どちらも、人の身体を知らなければ始まらない。
骨を知り、筋を知り、関節を知る。内臓の働きを知り、呼吸を知り、気の流れを知る。
どうすれば身体は力を発揮できるのか。何をすれば傷つき、何をすれば整うのか。
向かう先は違っても、見ているものは同じだ。
どちらも相手にするのは、人の身体であり、心であり、気なのだ。
「壊すことと治すことは違います。ですが、どちらも身体を知らねばできません」
「……おっしゃる通りです」
「そして、武術で身体の使い方を学ぶことは、治療にもつながってくるのです」
自分の身体を思うように扱えなければ、相手の身体へ繊細に触れることも難しい。
だからこそ、武術を通して、自分の身体の使い方を磨き続ける必要がある。
「中でも、鍼灸と太極拳は相性がよいのです」
「太極拳?」
「儂が長年続けてきた武術です。優れた気功法であり、最高の健康法の一つであると思っております」
ガイルが興味深そうにこちらを見る。
「鍼灸も太極拳も、根っこにある考え方は同じなのです。陰と陽、虚と実、内と外、上と下。そうした関係を見ながら、身体全体のバランスと気の流れを捉えていくんですな」
鍼灸では、他人の身体に流れる気を診る。
太極拳では、自分の身体の中で、その流れを感じる。
「人の気を診ようとするなら、まずは自分の気を知らなくては始まりません」
自分の気がどのように動いているのかも分からずに、他人の気を深く理解することはできない。
少なくとも、儂はそう考えた。
「ですから儂は、鍼灸をもっと深めるために、太極拳をやり続けました」
何十年もの間、毎朝欠かさず。立ち、緩め、呼吸し、動き、気を巡らせ、また立つ。
強くなるためではない。
もっと身体を知りたかった。
もっと気を知りたかった。
もっとよい治療がしたかった。
ただ、それだけだ。
「……よりよい治療をするために武術を?」
「うむ」
あまり馴染みのない考え方なのだろう。ガイルが何とも言えない顔をしたので、儂は笑った。
「まあ、その結果として強くなったとしたら、悪くはないでしょう?」
「それは……そうでしょうね」
「まずは自分の心と身体を練り、自分を知る。そうして初めて、手にした道具も本当に生きてくるのだと、儂は思っております」
「なるほど……たしかに必要なことだと思います」
「いろいろ言いましたが、太極拳はよいですぞ」
「それほどですか」
「少なくとも儂は、七十年以上続けて、まだ飽きておりません」
「七十年……」
ガイルが遠い目をした。
ちょうどそこで、休憩の終わりを告げる声が聞こえた。
ガイルは立ち上がると、騎士たちのほうへ目を向けた。
「そろそろ出発の準備をさせます」
「では、儂も準備をするとしましょう」
一礼して踵を返した、その一歩を見て、儂はふと目を細めた。
昨日のゴブリンとの戦いでも、少し気になっていた。
「ガイル殿」
「はい?」
ガイルがこちらを振り返る。
「腰を悪くしておられるな」
一瞬、表情が止まった。
「……分かりますか」
「歩き方を見れば」
儂はガイルの足元へ目をやった。
「腰だけではない。右の股関節から脚にも来ておるのではありませんか」
「そこまで分かるのですか……」
どうやら当たりらしい。
ガイルは少し黙ったあと、小さく苦笑した。
「長年のものです」
「やはり、長いのですか」
「騎士などやっていれば、身体の一つや二つは痛めます。特にこの辺境では」
そう言って、自分の腰へ軽く手を当てる。
「もう慣れました」
「慣れた、か」
「はい。戦えないほどではありません」
確かにそうだろう。
昨日の剣を見ても分かる。多少身体に不具合があろうと、それを技量で補えるだけの積み重ねがある。
だが――本来のパフォーマンスには程遠いはずだ。
改めて立ち姿を見れば、右脚への荷重をわずかに避け、その分を左へ逃がしている。腰がそれを補い、さらに背中や肩まで少しずつ引っ張られている。
長いこと、この身体で無理をしながら戦ってきたのだろう。
「左様か」
それだけ言うと、ガイルが少し意外そうな顔をした。
「……それだけですか?」
儂は軽口に聞こえるように言った。
「もっと何か言ってほしかったのですかな?」
「いえ。マコト殿のことですから、何かおっしゃるかと」
「カッカッカッ」
儂は空気を変えるように笑う。
「今は旅の途中じゃ。それに、ガイル殿も困っておらんと言っておりましたからな」
「ええ」
「なら、今すぐ儂が口を出すことでもあるまい」
治療というものは、こちらがやりたいからするものではない。
本人が必要として、始まるものだ。それに施術者と患者に信頼関係が無ければ、治るものも治らない。今はまだその時では無いのだろう。
それに今のところ、儂も歩き方と動きを見ただけだ。身体へ触れてもいなければ、脈も診ていない。
詳しいことは、まだ何も分からない。
「ただし」
それでもつい口を出してしまう。まだまだ未熟だ。
「なんでしょう?」
「無理はされない方がよい」
ガイルが少し困ったような顔で笑った。
「それは難しい注文です」
「ふむ、難しいですか?」
「辺境ですから」
「……そういう土地なのですな」
儂も笑った。潔い答えだ。この男によく似合っている。
「なら、せめて壊れる前に儂のところへ来なされ。身体は替えが利かんからのう」
「……肝に銘じておきます」
ガイルは一礼すると、騎士たちの方へ歩いていった。
その背中をしばらく眺める。
歩き方は堂々としている。痛みを見せることもない。
おそらく、周囲の者の多くは気づいておらんのじゃろう。
「ずいぶん長いこと、使い込んできた身体じゃな」
小さく呟く。
いずれ機会があれば、きちんと診てみよう。
その時は――まず脈からじゃな。
・・・・・・
夕方、一行は小さな宿場町へ入った。
アドヴァーンへ向かう旅人や商人が立ち寄る町らしく、街道沿いには宿や食堂、馬を休ませる場所が並んでいる。
とはいえ、それほど大きな町ではない。
騎士団全員が泊まれるほどの宿もなく、アリエルは護衛の都合もあって町の宿屋へ入り、騎士たちは町外れで野営することになった。
「儂も外でええですぞ」
そう申し出たのだが、アリエルは妙にきっぱり首を振った。
「いいえ。マコト様も、こちらへ泊まってください」
「儂は野宿には慣れとりますぞ」
「助けていただいた方を、外で寝かせるわけにはいきません」
「ほう」
もっともらしい。実にもっともらしいのだが――。
ふと見ると、アリエルの視線が儂の足元へ落ちていた。
そこにはグレイが座っている。
「……なるほど」
「な、なんでしょう?」
アリエルが視線を外してとぼける。
「儂ではなく、グレイが目当てですかな?」
「そ、そんなことは……」
否定も少し弱い。図星のようだ。
「ニャ」
グレイにまで笑われている。しかし、まんざらでもなさそうだ。
「カッカッカッ。それではグレイ、お言葉に甘えるとしようかの」
結局、儂とグレイも宿へ泊まることになった。
そしてその夜。
グレイは、ずいぶん長いことアリエルに撫でられていた。




